1989年9月6日ー日教組大会ー
家をルスにする。
今度は鳥取。日教組大会の取材だ。
ここへ行くのは初めて。
ずいぶん、さびしいところらしい。
面積は47都道府県のうち、下から
7番目に狭く、人口は56万人と東京の
世田谷より小さい。
もちろん、最下位だ。
名所も、東洋最大の砂浜「鳥取砂丘」が
あるくらいだろう。
伝説は、あの大国主命(おおくにぬしのみこと)
の「いなばのしろうさぎ」がある。
ワニに皮をはがされたウサギを助けてやる
話だ。
日教組は日本教職員組合の略。
つまり先生の組合だ。
42年つづいた組合も、社会党系と
共産党系の2つに分裂しようとしている。
その歴史的な大会が、さびれた鳥取で
開かれるのも、落ち目の日教組にはふさわしい。
1989年9月5日ー日の丸・君が代ー
○○○ちゃんは言った。
「日の丸は世界中の国旗にくらべて
一番デザインがいい。君が代も、ブンチャカ
ブンチャカと始まる他の国歌と、ちょっと
変わっていて、いい。大体、どちらも、いまさら
新しいものと変えるのはおかしいよ」
お父様も、確かにそう思う。
日の丸は本当に美しい。
君が代も軽薄でなく荘重だ。
だから、あの戦争で、けがされなければ、
どんなによかったかと、残念でたまらない。
それにしても、お父様たちにとっては、
どちらも悲しい思い出しかない。
あの旗の下で多くが死に、国歌にある
「君」のために何万人が散った。
いまでもNHKの放送の最後に日の丸が
はためき君が代な鳴り出すと、いそいで
スイッチを切るほどなんだよ。
でも○○○ちゃんに日の丸、君が代は
平和な歌、平和な旗にしてほしい。
2012年9月
日の丸、君が代について、幼い私はそんなことを
言っていたのかと、複雑な気持ちになった。
何の知識もない当時の素直な言葉。
やっぱり日本人なのでしょう。
昔のことは昔、今は今と教えてくれていた父。
このように、幼いころに、何の偏見も植え付けず
育ててくれた父に感謝したい。
そういえば、NHKで日の丸、君が代の放送
いつのまにかなくなってますね。
1989年9月4日ー零の発見ー
この人を有名にしたのは、著書の
零の発見だ。
数の記号は紀元前150年も前からあったが、
「0」の記号が使われ出したのは6世紀
ごろになってから。
例えばローマ数字ではXは10、Lは50、
Vは5、Cは100を示す。CLXXXは
180になる。日本も「一〇一」は百一。
「0」にあたる記号はなかった。
「0」を初めて他の数字と同様の数と
考えだしたのはインドだといわれる。
それがアラビアを通じヨーロッパに入った。
このおかげで、数の計算はソロバンのような
ものを使わないとできなかったのが、
簡単に筆算ができるようになった。
またゼロ以下の算数が発見され、少数という
考え方も生まれた。
もし「0」の発見がなかったら、
人間はとても宇宙にはいけなかった。
ところで「0」の定義を教えよう。
a+x=aの場合のxをゼロという。
1989年9月3日ー女の強さー
尾瀬の山中を迷い歩き、16日ぶりに
救助された28歳の〝秋田おばこ(娘)”だ。
持っていた食べ物はアメ、チョコ、のり、
小梅だけ。雨水をすすり、木の皮を
しゃぶって生き延びた。
前に長野の山で迷い、チョコ2枚で
15日間さまよった人がいる。
これも女性。
この前もいったように、脂肪が役に
たっているのだろう。
だが、このほか女性の方が孤独や
静寂に耐える力があるという。
平均寿命で女性が長生きなのも、
「女は三食昼寝つきだから」
という見方もあったが、フランスで
同じ労働条件で生活環境の修道院
で男の修道士と女の修道尼の寿命を
調べたら、修道尼の方が長生きだった。
女は小さな痛みに弱いが、大きな痛みに
強いともいう。
お産をみると、本当にそうだと思う。
1989年9月2日ー第二次世界大戦50周年に世界の政治を考えるー
きのう9月1日は、第二次世界大戦
50周年記念日だった。
1939年(昭和14年)のこの日、ドイツ軍が
突如、ポーランドに侵入した。
これに対して、イギリス、フランスがドイツに
宣戦を布告したが、逆にドイツ軍は、
翌年、ベルギー、オランダを通ってフランスを
攻撃、パリを陥落させ、ダンケルクでイギリス軍
を海に追いおとした。
ドイツはポーランドに侵入する一週間前に
ソ連との間で、お互いに戦争をしないという
不可侵条約を締結した。
これはポーランドを攻撃しても、ソ連軍から
反撃をうけないためと、将来、フランスへ
進入する際、ソ連のことは心配しないで
いいようにするためだ。
けれども、本当は仲の悪いはずのドイツとソ連
が手を結んだことに、世界は驚いた。
しかし結局、2年後、ドイツはソ連と戦争を
始める。
これがドイツの命とりとなる。
世界の政治は、本当にだまし合いだね。
1989年8月31日ー1989年はラニーニャ現象で台風が多かったー
台風17号が去り、太平洋に、また新しい台風が
日本をうかがっている。
ことしは、まさに台風の当たり年だ。
気象庁に聞くと、一年間に発生する台風の数は
1年に平均27個。
このうち日本列島に上陸するのは平均3個だそうだ。
今年は、すでに6,11,13,17と、
4個も上陸している。
37年に8月末までに、5個上陸したのが、
これまで最高だから、それに次ぐ2番目の記録になる。
本格的な台風シーズンはこれから。
一体上陸台風はいくつになるのだろう。
殊に、ことしの台風が変わっているのは、
どれも北緯20度より北側。
つまり、日本に近いところで発生していることだ。
「熱帯の海がそっくり日本近海に移ってきたみたい」
と気象庁。
どうもフィリピン近海の海水温が異常に高くなる
ラニーニャ現象のためらしい。
1989年8月30日ー昭和20年8月30日マッカーサー来日ー
昭和20年の8月30日。
この日の、ある光景は、お父様のような
戦前派にとっては、忘れることのできない
ものの一つだ。
連合軍最高司令官のマッカーサー元帥が、
この日の午後、神奈川県の厚木基地に
軍用機で到着した。
軍帽を斜めにかぶり、トレードマークの
パイプを、ちょっと傾けて口にくわえ、
飛行機のタラップを降りてくる写真を
見た時、「こん畜生」と思うよりは、
まずこう感じた。
「かっこいい」
その時、彼がいった言葉もしゃれている。
「これが映画でいう結末だよ」
初めての夜、日本人のつくった食事に
毒が盛られているのではと心配する
副官らにもこういった。
「誰も永久には生きられない」
占領がうまくいったのも、日本人がこの
千両役者に、すっかり参ってしまったからだろう。
1989年8月29日ー飛行船と子供の頃の記憶ー
市ヶ谷の自衛隊で割腹自殺した天才作家
の三島由紀夫は、生まれた時、産湯に使った
タライのフチを見たのを覚えていると
自慢していた。
それほどでなくても、お父様も、
幼いころの記憶は意外に鮮明だ。
その一つが、ドイツのツェペイン飛行船が
日本に来たときのことだ。
乳母に背負われて、東京・本郷の家の目から
空高く飛んでいく飛行船を見たことを、
はっきり覚えている。
昭和4年8月29日だった。
(もちろんこの日付は、あとで知った)
だから、まだ1歳と6ヶ月。
高空なので、そんなに大きいと思わなかった。
確か家中のものが見て騒いでいたはずだ。
それから8年後の昭和12年5月9日、
同じ型のヒンデンブルグ号がアメリカで
爆発。飛行船時代はおわった。
2ヶ月後に日中事変。
2012年8月
私も、幼いころの記憶はかなり鮮明だ。
坂を上ると、下に落ちてしまいそうで、
手をついて登っていると、上から母が
笑ってみている場面とか、3年保育で
はじめて幼稚園にいったとき、恐ろしさ
でいっぱいの気持ちとか、よく覚えている。
息子も、3歳だが2歳の頃のことを、
時々思い出したように話す。
1歳6ヶ月記憶が父にあったのも
なんとなくうなずける。
1989年8月28日ーNASAの過去の栄光ー
あの「スペース・キャンプ」は面白かった。
宇宙飛行士になるには、頭脳、記憶力、
そしてなによりも正確な決断力と応用力が
いることが、よくわかった。
でも、あれは、かつて宇宙を支配した、
アメリカの栄光の時代。
いまではNASAも予算をけずられ、往年の
勢いはない。
それに技術力の低下も著しい。
故障ばかりして、その点、日本の方が
はるかに上だ。
アメリカのハイテク軍事力も、日本の電子機器
なしには成立しない。
だから、通商摩擦といっても、日本の機器を
締め出すことができないのが実情だと
いっていい。
海王星に接近したボイジャーも12年前に
打ち上げられたもの。
そのころは、アメリカの技術水準も高かった。
それだからこそ、計算通り、海王星に行き、
写真も送ってこれたのだ。
ボイジャーはアメリカの過去の栄光を背負って、
宇宙に彼方に消えて行った。
だがアメリカはきっと栄光を取り戻す。
2012年8月
まさかこの時代、スペースシャトル引退なんて
思いもしなかっただろう。バック・トゥ・ザ・フューチャー
が好きで、その中に出演していたリー・トンプソンが
好きだからという理由で何気なくみたスペースキャンプ。
何回も何回もみて、宇宙飛行士になりたいなんて
無謀な夢をみたものだ。
私も、世界も夢があった時代だった。

