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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

174】ガダルカナル島の戦いは根拠無くアメリカ軍の兵力を見積もったわけではない。

 

「もう一つ日本軍の大きな欠点は情報を軽視したことである。その典型例が昭和十七年(一九四二)八月に始まったガダルカナル島攻防戦である。」(P393)

 

と、説明されています。これに関してはまったく同感です。

ところが不思議なことを説明され始めます。

 

「この島をアメリカ軍に奪われたと聞いた大本営はただちに奪回を試みるが、アメリカ軍の兵力を二千人くらいと根拠もなく見積もり、それなら九百人ほどで勝てるだろうと一木支隊を送り込んだ。」(P394)

 

あれ? 変なこと言うなぁ、と思いました。

ガダルカナル島がまだ奪われていない段階で、一木支隊は「増援」として派遣されたのです。

アメリカ軍による完全な奇襲でしたが、日本軍は各地で敗れながらも徹底抗戦します。

それから、大本営は、「アメリカ軍の兵力を二千人くらいと根拠もなく見積も」ったのではなかったんです。

ちゃんと「二千人」の根拠を持っていました。

大本営は、海軍第11設営部隊からの情報、及び米軍の作戦を「漏らしてくれる」ソ連のルート(駐ソ武官からの情報)から、「アメリカ軍は2000の兵力でガダルカナル島の飛行場を攻撃・破壊するつもりである。」と考えていました。

ですから、ミッドウェーの上陸作戦のために準備していた一木支隊、つまり第7師団歩兵第28連隊2300名をただちに増援部隊としてトラック諸島におくり、第一梯団として916名がガダルカナル島にまず上陸したのです。

二千人くらいだから「それなら九百人ほどで勝てるだろう」と一木支隊を送ったのではありません。そもそもそれでも半数ですから、「勝てるだろう」とは考えていません。第2梯団、それから横須賀第5陸戦隊が後送されていました。

一木大佐が上陸するのに際して、「事前情報」として「連合軍は2000人ほど」と伝えられたのです。

2000人だから900人送ったのではありません。

情報収集能力が日本軍は低かったのです。

これとは対照的にアメリカ軍は、「コーストウォッチャー」(沿岸監視機関)という情報局を太平洋諸島に配備し、情報のみを専門的に集める組織を用意していました。

これにより、一連の日本の反撃行動、上陸はすべてアメリカ軍に把握されていました。

せっかく日本軍の弱点を「情報を軽視した」と指摘しているのに、その説明が「二千人くらいと根拠無く見積もった」こと、と説明したのでは不的確です。

 

「アメリカ軍陣地に突撃した八百人のうち七百七十七人が一夜にして死んだ。」(P394)

 

これも不正確な説明です。

8月20日の夕方6時からの戦闘が始まりましたが、夜10時半より、イル川を渡河する作戦を決行しました。しかし重火器をそろえていた米軍の攻撃を受けて、第一回の渡河で100名、第二回で200名ほどの犠牲を出してしまいます。

一木支隊は攻撃を停止し退却しようと、翌朝5時に部隊の状況を確認しているとき、アメリカ空軍機が一木支隊を見つけます。さらに迂回したアメリカ海兵隊が一木支隊の退路を断ち、包囲しました。最後の抵抗を試みますが、空軍機からの機銃掃射をあび、さらに6台のアメリカ軍戦車が投入され、一木支隊は壊滅することになりました。掃討戦も執拗で、海岸に追い詰められた兵士は狙撃されて命を落としています。

一木隊はアメリカ軍陣地に突撃して777人が死んだのではありません。

 

「その報を受けた大本営は、それではと今度は五千人を送り込んだ。」(P394)

 

これも誤りです。一木支隊壊滅の報が届く前に川口少将率いる部隊の輸送が始まっていました。

 

「結局、ガダルカナル島をめぐる攻防戦は半年近くにわたって行なわれ、日本軍は夥しい人的被害を出し大量の航空機と戦艦を失って敗退した。ガダルカナル島で亡くなった陸軍兵の多くは餓死だった。」(P394)

 

と説明されています。

ガダルカナル島に投入された日本兵は3万1000人以上で、撤退できたものは約1万人。戦死者は5000名で、1万5000人は餓死・戦病死と言われていますが…

撤退することが困難な負傷者には、捕虜となること防ぐために自決させるか(手榴弾などによる爆死)、戦友によって銃や銃剣などで殺害されているのです。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という陸軍大臣であった東条英機が、1941年1月に発令した「戦陣訓」が実行された一例です。

実態は「陸軍兵の多くは餓死だった」というようなものではありませんでした。

 

『ガダルカナル戦記』(亀井宏・光人社)

『歴史群像』「ガダルカナル海兵隊戦記」(白石光・学習研究社)

『戦争体験の真実 イラストで描いた太平洋戦争-兵士の記録』(滝口岩夫・第三書館)

『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(戸部良一・中公文庫)

『ガダルカナル学ばざる軍隊』(日本放送協会取材班・角川文庫)

173】ミッドウェー海戦と「言霊主義」は無関係である。

 

「昭和一七年(一九四二)六月、聯合艦隊はミッドウェー海戦で、主力空母四隻を失うという致命的な大敗を喫する。この戦いは運にも見放された面があったが、日本海軍の驕りと油断が多分にあった。」(P393)

 

「運に見放された面があった」としたら、それはどういう点だったか、「日本海軍の驕りと油断」とはどのようなものであったか、通史における戦史ですし、何よりも戦局を大きく悪化の方向へと導いた分岐点のミッドウェー海戦の敗戦を、ありもしない「言霊主義」で説明してしまっては、社会科学的分析がまったく無意味なものになり、複雑な歴史の要因を単純化してしまいます。

「言霊主義」の話などせずに、その分を紙面にミッドウェー敗戦の原因に割いてほしかったところです。

索敵の失敗、暗号の解読、米軍のレーダー使用、司令官の判断ミスなど、半ページもあれば説明できます。

 

ところで、開戦前の図上演習の逸話ですが、私はあまりこの手の話は割り引いて理解しているのですが、百田氏の説明がちょっと通説とは微妙に異なり、不正確なので説明させてもらいますと。

 

「日本の空母に爆弾が命中して沈没するという事態になった時、参謀の一人が『今のはやり直し』ということで、被害ゼロのシミュレーションにして図上演習を続けている。」(P393)

 

と説明されていますが、これはおそらく参謀長宇垣纏の逸話であろうと思います。

真珠湾攻撃の図上演習の時のことですが、「空母に爆弾が命中する」というような戦術レベルの話は、参謀長はしません。

1941年9月、海軍大学校でその「演習」はおこなわれました。全体的には日本が戦果をあげたのですが、日本の空母が3隻撃沈されるという判定が出ました。

しかし、図上演習を見ていた宇垣は、空母撃沈されたという判定を取り消しました。

判定を一部変更しただけで「やりなおし」させてはいません。

(『山本五十六』半藤利一・平凡社ライブラリー・平凡社)

実は、1942年4月、ミッドウェー海戦の前の戦艦「大和」でも図上演習が行われています。

このときは、ミッドウェー攻略の前にアメリカ機動部隊が日本の機動部隊を攻撃するという事態が起こり、その結果、日本の空母に被害が出て攻撃機が出撃できない、という判定になりました。この時、宇垣が空母の被害を軽微とし、作戦演習を続行させています。

(『日本海軍の驕り症候群()』千早正隆・中公文庫)

どうやら百田氏は、この二つの逸話を混同、あるいは誤認されてしまっていると思われます。

 

さて、「鎧袖一触」の話ですが…

こちらは山本五十六と源田実の実話かどうか不明の「逸話」(1942年5月25)の紹介だと思いますが、これも不正確です。

宇垣参謀長が登場します。宇垣は南雲第一艦隊司令官に尋ねます。

「ミッドウェー基地に空襲をかけているとき、敵基地空軍が不意に襲撃してくるかもしれない。そのときの対策はどうするか。」

南雲は、航空参謀源田実の顔をみます。源田はこう答えました。

「わが戦闘機をもってすれば鎧袖一触です。」

すると山本五十六は厳しい表情で源田に言います。

「鎧袖一触などという言葉は不用心極まる。実際に不意に横やりを突っ込まれたときどう応じるか十分研究せねばならぬ。この作戦はミッドウェーを叩くのが主目的ではなく、そこを突かれて顔を出す敵空母を潰すのが目的である。本末を誤らぬように。だから攻撃機の半分に魚雷を待機させるように。それから索敵は最善をつくせ。」

(『太平洋戦争海戦史』太平洋戦争研究会・新人物往来社)

ですから、

「…にもかかわらず、『鎧袖一触』という言葉で対策や検討を打ち切っている。」(P393)

という説明は明確に誤りです。検討を続け、山本五十六は「索敵を十分にする」「攻撃機の半分に魚雷を準備する」と対策を支持しています。

というか、私はこの「鎧袖一触」の逸話はちょっと怪しい、と、思っている派です。

源田実に対して、ちょっと批判的で、まるで無能であるかのような指摘です。

実は、もう一つの記録があり、私はこちらが実際のものであったと考えています。

 

宇垣は、草鹿第一航空隊参謀長に「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねました。

すると草鹿は、「斯かる事無き様処理する」と答えました。

宇垣は、これを不適切として追及すると航空参謀の源田実が、

 

「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、之と巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当たらしむ。」

 

と具体的に対策を回答しています。(『戦史叢書43ミッドウェー』)

 

草鹿が「そんなことにならないように何とかします」という曖昧な回答をしたので宇垣が追及すると源田が「航続距離を伸ばした偵察機を用意し、零式水偵を使って側面哨戒させる」という対策を回答しています。

 

戦時中の「おもしろい逸話」を真に受け、しかもそれすら正確ではなく、当時の軍人の無能・失敗エピソードを、何の根拠もない「言霊主義」で説明してしまっています。

歴史は、一見単純な動きをしているように見えても、実は複数のさまざまな合力で一定の方向に動いているのです。

再度強調しますが、「言霊主義」による説明は、歴史的事件や戦争の原因を矮小化し、社会科学的説明や実証的研究を省略あるいは軽視するものに他ありません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12434770907.html

 

172】占領地での軍政は共存共栄とはほど遠く、大東亜会議でのフィリピン・ビルマの「独立」を誤認している。

 

「日本はアジアの人々と戦争はしていない。日本が戦った相手は、フィリピンを植民地としていたアメリカであり、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスであり、インドネシアを植民地としていたオランダであり、マレーシアとシンガポールとビルマを植民地としていたイギリスである。日本はこれらの植民地を支配していた四ヵ国と戦って、彼らを駆逐したのである。」(P392)

 

かなり「独特な」リクツで、帝国主義列強間の戦いを理解していない説明としか言いようがありません。

以前にも、武士どうしの戦いで民衆とは戦っていないという不思議な説明をされていましたが、ここにも一部通じるリクツなのでしょうか。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12426578988.html

 

そもそも植民地支配からの「解放」という説明は明確にプロパガンダ、というか欺瞞で、それは史料的にいくらでも証明できます。

19411120日、大本営政府連絡会議は、「南方占領地行政実施要領」を策定していて、どう読んでも「解放」と支配国の「駆逐」が目的できなく、次の支配国に「とってかわる」ための戦いであったことがわかります。

 

「占領ニ対シテ差シ当タリ軍政ヲ実施シ、治安ノ恢復、重要国防資源ノ急速獲得及作戦軍ノ自活確保ニ資ス。」という方針を掲げ、「国防資源取得ト占領軍ノ現地自活ノ為民生ニ及ボサザルヲ得ザル重圧ハ之ヲ忍バシメ、宣撫上ノ要求ハ右目的に反セザル限度に止ムルモノトス」、「原住土民ニ対シテハ皇軍ニ対スル信倚観念ヲ助長セシムル如ク指導シ、其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス」と定めていました。

「重要国防資源ノ急速獲得」こそ日本が遂行したこの戦争の根本目的であったことはすでに百田氏も繰り返し強調しておられました。

そもそもなぜ、「重要国防資源ノ急速獲得」が必要であったかといえば、日中戦争に軍事的・政治的・経済的にゆきづまっていたにもかかわらず、最大輸入先のアメリカや東南アジアを支配していたイギリスなどと対立したからでした。

アジア太平洋戦争は、「自存自衛」と「大東亜新秩序建設」と称して、戦略物資獲得のために東南アジアを「排他的経済圏」に収めようとしたものでした。

さらに、

「軍政」の基本的事項も、19411212日の関係大臣会議で「南方経済対策要綱」としてまとめられました。

戦略物資および農産物の開発、獲得にあたっては、「極力在来企業ヲ利導セシメ」とし、この方針に基づいて三井・三菱・住友などの財閥、およびその傘下の企業が占領地に進出していきました。これらの経済・開発要員はフィリピン・マレー半島・スマトラ・ジャワ・英領ボルネオ・ビルマに1943年6月までに4万人を超えています。

人の移動を占領地に行う、まさにこれを「植民」地化といいます。

占領地の通貨にはいわゆる「軍票」と、南方開発金庫が発券した「南方開発金庫券」で、これらは無制限に濫発され、占領地に激しいインフレを巻き起こします。

現地での開発、獲得に際してのマイナス分は、現地の住民への経済的負担によって解消する、という典型的な「植民地経済」が導入されています。

「解放」どころか「新しい植民地支配者」が入れ替わったのが現状でした。

 

「『大東亜共栄圏』とは、日本を指導者として、欧米諸国をアジアから排斥し、中華民国、満州、ベトナム、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ビルマ、インドを含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る政策だった。」(P392)

 

という説明は、これらの事実をふまえれば、虚しく響きます。

 

「昭和一八年(一九四三)には東京で、中華民国、満州国、インド、フィリピン、タイ、ビルマの国家的有力者を招いて『大東亜会議』を開いている。実際に昭和一八年(一九四三)八月一日にビルマを、十月十四日にフィリピンの独立を承認している。」(P392)

 

と説明されていますが、この誤認を丁寧に説明したいと思います。まず、フィリピンとビルマを例にあげられているので、私もビルマとフィリピンについて説明したいと思います。

 

ビルマの場合、まず、アウンサンらは、日本軍に接触してビルマ独立の確約を得て日本軍に協力することになり、彼らは独立義勇軍を結成します。

以後、日本軍とともにビルマ国内で活動していきました。

しかし、ビルマを占領した日本は軍政をしき、ビルマ独立を引き延ばします。

すでに海戦前に「南方占領地行政実施要領」を、開戦直後には「南方経済対策要綱」を定めてビルマは軍政をしくことを決めていながら、アウンサンと「独立の約束」を

して彼らを利用したのです。

そして軍政施行後、バー=モウ長官とするビルマ中央政府は日本軍司令官のもとでの傀儡政権でした。独立を認めたのは、日本の戦局が不利になっていった1943年8月になってからのことです。

それでも、軍事・外交・経済はビルマを占領している日本軍の管理下にありました。

占領下のビルマでは軍票の濫発による経済混乱が起こり、泰緬鉄道建設のための労働者の動員が行われました。仏教の盛んなビルマでの天皇崇拝の強制はビルマの人々の強い反発を生みます。

日本の敗戦が見え始めた1944年8月、アウンサンは抗日統一戦線の結成を発表しました。1945年3月、アウンサンの指揮する人民独立軍が、日本軍とそれに味方するバー=モウ政権に対して武装蜂起し、5月、連合軍の力を借りること無くラングーンを自力解放することに成功したのです。

 

セイン=ウィン国防大臣が来日した時の発言は、多分に日本の経済援助とのひきかえのサービス・トークの色合いが強く、「わが国の独立の歴史において、日本と旧日本軍による軍事支援は大きな意味があった。」(P446)というのは、まさに日本が独立を約束してアウンサンの協力を引き出し、ビルマ占領までの時期の話にすぎないのです。

来日して現在友好関係にある国の大臣に対して、抗日統一戦線を結成して独立運動を展開した話などは当然しません。

こういう政治家の「社交辞令」は近現代史の歴史記述はあまり意味をなしません。

 

当初の日本軍によるアウンサンらへの協力、そして彼らの戦後の独立戦争で大きな役割を果たしたことは否定できませんが、最終的には、日本は彼らの「打倒の対象」となったことを説明すべきでした。

 

フィリピンの場合は、さらに明白です。

フィリピンはすでに長い独立運動のもと、1935年にアメリカから10年後の独立を約束されていました。

すでにフィリピンにはM=L=ケソンを大統領とする政府が成立していたのです。

コレヒドールの戦い後、ケソン大統領はオーストラリアに脱出してアメリカへの亡命を余儀なくされました。

マニラを占領した日本は規定通り、「軍政」をしきます。

日本の占領下のフィリピンでは、やはり軍票・南発券の濫発で経済が混乱し、「南方占領地行政実施要領」・「南方経済対策要綱」に基づいたサトウキビ・綿花の強制作付けがおこなわれました。

いわゆる「バターン死の行進」(バターン半島で降伏した捕虜を炎天下収容所まで60㎞の道のりを歩かせた事件)では、多くのフィリピン兵・アメリカ兵の捕虜・民間人が犠牲になっています。

これらの支配・圧政に対して、元フィリピン兵は山中にこもってパルチザン活動をおこない、1942年3月には抗日人民軍フクバラハップが結成されています。

戦争末期、これら抵抗勢力の一掃がおこなわれましたが、多くの住民が巻き添えとなって犠牲となりました。

「大東亜会議」の開催と、独立の約束は、1943年3月ですが、その前月、ガダルカナル島の敗戦と撤退があり、日本は軍政を転換せざるをえない状況にあったのです。

「独立」の話もありましたが、同時に「マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは帝国領土」と宣言されているのです。

結局、石油・天然ゴム・スズなどの戦略物資が産出される地域の独立は認めていません。

独立、といっても「形だけ」のものであることは、「此ノ独立ハ、軍事・外交・経済等ニ亙リ帝国ノ強力ナル把握下ニ置カルベキ独立ナル点特ニ留意ヲ要スル」という1942年7月8日の「軍政総監指示」に明かです。

(防衛庁防衛研究所戦史部編纂「南方の軍政」)

 

171】「騙し討ち」がプロパガンダならば「自衛のための戦争」もプロパガンダである。

 

「日本軍は緒戦だけは用意周到に作戦を練っていたが、大局的な見通しはまるでなかった。そもそも工業力が十倍以上も違うアメリカとの長期戦は一〇〇パーセント勝ち目がなかった。しかし、ハル・ノートを受け入れれば、日本は座して死を待つことになる。」(P386)

 

「ハル・ノート」に重点を置いて、日米開戦時の説明をする言説が多いのですが、「ハル・ノート」の内容が日本に対して過酷なものであろうとなかろうと、日本はすでに戦争の準備をし、真珠湾攻撃が進行中でした。

そもそも、「ハル・ノート」が出される前に、日本が提示したものも、アメリカにとっては受け入れられないものでした。

前にも申しましたように、日米交渉といっても、しょせん大国のエゴをすりあわせようとする日本とアメリカの帝国主義的角逐です。

戦争を開始して敗戦したからといって、「ハル・ノート」の内容が日本を追い込んだとか、日本は戦争をするつもりは、本当はなかったとか、「弁解」する必要があるのでしょうか。

11月5日の御前会議で以下を決定しました。

 

 一、帝国ハ現下ノ危局ヲ打開シテ自存自衛ヲ完フシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為、

   此ノ際対米英蘭戦争ヲ決意シ、左記措置ヲ採ル

 (一)武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス

 (二)対米交渉ハ別紙要領ニ依リ之ヲ行フ

 

別紙の「要領」は甲案と乙案があり、25年間「北支蒙疆ノ一定地域及海南島」への駐兵が含まれていて、甲案は仏印以外へは武力進出しない、蘭印からの必要物資の獲得について協力し、資金凍結前の状態にして石油の対日供給を再開し、日中和平に干渉しないように要求するものでした。

野村大使はハル国務長官に甲案を提出しました。

日本側は「ハル・ノート」を最後通牒だ、と、説明しますが、アメリカにすれば甲案はアメリカの要求をすべて退けているのに等しく、アメリカ側は甲案を最後通牒と見做しても不思議ではない内容です。

「ハル・ノート」にせよ「甲案」にせよ、双方のエゴの衝突で、どちらか一方が正しい、不当だ、というようなものではありません。

「しかし、ハル・ノートを受け入れれば、日本は座して死を待つことになる。」ということに本当になったでしょうか。

「ハル・ノート」・「甲案」を読めばわかりますが、アジアで膨張する日本の帝国主義とアメリカ帝国主義の全面的なぶつかり合いです。

アメリカ帝国主義は日本帝国主義に対して、「円ブロック」と日本の獲得物を精算し、対英米協調路線への回帰を迫り、すでに出されていた「大西洋憲章」に見られるように「反ファシズム・反膨張主義」の理念で書かれていて、簡単に言えば「ポツダム宣言」の原型でした。

結局、日本は敗戦し、「ハル・ノート」を受諾する以上の広範な要求を「ポツダム宣言」で受け入れてしまうことになりました。

現在、日本は台湾も朝鮮半島も植民地ではなく、東南アジアも満州国も中華民国も支配下にはありませんが、世界有数の経済大国になりえています。

そのことをふりかえっても「満蒙は日本の生命線」というプロパガンダが虚構であったことは明白で、「ハル・ノート」を受け入れることは「座して死を待つことになる」ということも戦争遂行を正当化する当時のプロパガンダの一種にすぎないのです。

 

さて、プロパガンダと言えば…

日本の真珠湾の奇襲攻撃について。

 

「しかし有史以来、宣戦布告をしてから戦争を行なったケースは実はほとんどない。」

「アメリカは何度も戦争をしているが、そのほとんどの場合、宣戦布告なしに攻撃を行なっている。つまり真珠湾攻撃を卑怯なやり口と言い募ったのは、完全なプロパガンダなのである。」

 

と説明されています。

でも、これを言い出したら、「侵略ではなく自衛のための戦争だった」(P387)という理論もプロパガンダになりませんか。

有史以来、とは言いませんが、これは侵略戦争だ、とか、今から侵略します、て戦争始めた国は無いでしょう。「自国民の保護」「自衛」「膺懲(懲らしめる)」「解放」という説明はみなプロパガンダになります。

 

「…ダグラス・マッカーサーは、昭和二六年(一九五一)、アメリカ上院軍事外交合同委員会の場において、『日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのものだった』と述べている。つまり侵略ではなく自衛のための戦争であったと言ったのだ。」(P387)

 

これ、よくマッカーサーが日本の戦争は自衛戦争だったと言った、としてよく引用される話なんですが、1951年5月の上院軍事外交合同委員会、というのがポイントなんです。

実は、マッカーサーは、日本の占領中から「大統領選挙」に出ることを考えていて、実際、ウェスコンシン州での「共和党」候補の一人に名乗りをあげたことがあります。

結局指名されませんでしたが、当時の政権は、トルーマン「民主党」政権です。

もともと太平洋戦争中から、トルーマンとマッカーサーはなにかとソリが合わなかったのですが、共和党の大統領候補の予備選候補となったところから「対立」が始まっていました。

朝鮮戦争勃発後も、トルーマンは、マッカーサーの政治的言動を不快に考えていたところもあり、中国の参戦への甘い見通しと、敗戦を機会に(原爆使用発言も含めて)トルーマンはマッカーサーを1951年4月に解任しています。

解任後も、共和党はマッカーサーを民主党政権の「攻撃」に使えると考えて、民主党の「太平洋戦争」中の諸政策を批判するのに利用していました。

ローズヴェルト政権、トルーマン政権の戦争政策・外交を批判する、という文脈で、民主党政権が唱えてきた「日本の軍事行動は侵略である」という説明を批判する流れをうけての「委員会」でのこの発言であった、ということに留意すべきです。

このころ、同時に共和党政権は、ローズヴェルトの戦争政策を批判するため、さまざまな言説を用いましたが、これが「ルーズベルトの陰謀」の温床となっているのです。

発言元の多くは対立していた共和党の元大統領や議員の発言で、そこに見られる日本に有利な発言をつまみ食いして、「陰謀論」が構成されている場合が多いのです。

 

170】戦争の目的が「共存共栄」ではなく「収奪」の説明になっている。

 

「日本軍がパレンバンの油田を占領したと聞いた東条英機首相は、『これで石油問題は解決した』と言ったが、彼も政府(そして軍)も、油田を占領することと石油を手に入れることは同じではないということに気付いていなかった。」(P389)

 

という説明を読んで、あれ?変なこと言うなぁ、と思いました。4ページほど前では、

 

「日本がアメリカとイギリスに対して同時に開戦したのは、オランダ領インドネシアの石油を奪うためだった。そのためにはシンガポールのイギリス軍を撃破せねばならず、また手に入れた石油を日本に送るのに東シナ海を通るため、その航路を遮る位置にあるアメリカのクラーク基地を無力化する必要があった。真珠湾のアメリカ艦隊を叩いたのも同じ理由である。」(P385P386)

 

と説明されています。

東条英機も、政府も、軍も、「油田を占領することと石油を手に入れることは同じではないということに気付いていなかった」のでしょうか。

気付いていたと思われたからこそ、百田氏は、インドネシアの石油を奪い、それを運ぶルートを確保するためにシンガポールのイギリス軍を撃破し、クラーク基地を無力化し、真珠湾のアメリカ艦隊を叩いたのだ、と説明されたのではなかったのでしょうか。

石油を奪い、それを運ぶルートを確保するためであると称して、ハワイ、マレーシア、フィリピンを攻撃したことを正当化する一方で、「油田を占領することと石油を手に入れることは同じではないということに気付いていなかった」と、いまさら東条や政府、軍を批判しても、それでは支離滅裂な説明になってしまいます。

 

結局は、単に輸送ルート確保に失敗し、輸送手段に対する考え方が甘かっただけで、石油の輸送ルートを確保するためにシンガポール、ハワイ、フィリピンを攻撃したわけではなかったことを証明したようなものです。

結局は機能しませんでした。

 

「…ところが、インドネシアからの石油などの物資を運ぶ輸送船が、アメリカの潜水艦によって次々と沈められるという事態となる。」(P390)

 

ということについて補足しておきますと、真珠湾攻撃の3時間後、アメリカ海軍は54隻の潜水艦を東南アジア方面に派遣し、すでに日本の補給線を叩く作戦を開始していました。1942年までで、日本は96万トンの船舶を喪失してしまいました。

ただ、海軍の駆逐艦が護衛についても、軍艦からの攻撃の防御にはなったかもしれませんが、日本の駆逐艦は哨戒能力が低く、おそらく喪失船舶数を上積みするだけの結果になったかもしれません。

 

「日本がアメリカとイギリスに対して同時に開戦したのは、オランダ領インドネシアの石油を奪うためだった。」(P385P386)

「そして戦争の主目的であったオランダ領インドネシアの石油施設を奪うことに成功した。」(P389)

「日本政府はインドネシアからの石油やボーキサイト(アルミニウムの原料)を日本に送り届けるための輸送船を民間から徴用することに決めた。」(P389P390)

 

という説明をみると、東南アジアへの進出は、日本の資源不足を補うために、これらの資源を収奪することが目的であることが明白です。

 

「『大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった』と言う人がいるが、これは誤りである。」(P391)

 

と説明されていますが、無意識のうちに百田氏は、「東南アジア諸国への侵略戦争だった」と思われているのではないかとさえ思ってしまいます。

 

「『大東亜共栄圏』とは、日本を指導者として、欧米諸国をアジアから排斥し、中華民国、満州、ベトナム、タイ、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ビルマ、インドを含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る政策だった。」(P392)

 

と説明されているのに「石油を奪うため」「石油施設を奪うため」「インドネシアの石油やボーキサイトを日本に送り届ける」というように日本が資源を「収奪」することが目的であったことを連呼され、「経済的な共存共栄」を図る政策については何一つ触れられていません。

あたかも東南アジアを独立に導いたのは日本だと言わんばかりですが、「共に存して共に栄える」ための具体的な政策には何一つ言及されていません。

 

「この世界史上における画期的な事実を踏まえることなく、短絡的に『日本はアジアを侵略した』というのは空虚である。」(P392)と説明されているのに、これでは、

「このような事実を踏まえず、短絡的に『日本はアジアを侵略していない』というのは空虚である。」と言い換えざるをえません。