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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

179】「日本は沖縄を捨て石にした」は一概に誤りともいえない。

 

「日本軍は沖縄を守るために、沖縄本島を中心とした南西諸島に十八万の兵士を配置した。陸軍と海軍合わせて約二千機の特攻機が出撃した。」(P401)

 

沖縄戦で戦った日本の兵力配置は、「足し算」ではなく「引き算」でした。

なんのことかと申しますと…

沖縄戦開始時には180000も兵は配置されていません。

実は、沖縄本島には第32軍の主力が配置されていたのですが、レイテ戦との関係で1945年1月に精鋭の第9師団が台湾に転出してしまっていたのです。

ですから、牛島軍司令官配下の兵は77000で、沖縄本島に上陸したアメリカ第10軍の183000と戦うことになりました。

圧倒的兵力差をみて牛島中将は、二つの飛行場の確保を諦め、本島南部での持久戦を展開する方針に変更したのです。(ちょっとややこしいのですが、沖縄本島の南部に北飛行場と中飛行場の二つがありました。)

ですからあっさりと米軍は飛行場を占拠できました。

大本営は驚きました。沖縄の飛行場をアメリカと日本、どちらがおさえるかがこの戦いのポイントであると考えていたのに、牛島中将は飛行場を放棄してしまったのですから…

昭和天皇も「現地軍は何故攻勢に出ぬか」(『戦史叢書』防衛庁防衛研修所・朝雲新聞社)と疑問を呈されました。大本営はただちに第32軍に攻勢の要望を出しますが、結局大損害を被ってしまいました。

昭和天皇は常に沖縄戦の動向に気をつかわれており、「航空機だけの総攻撃か」と御下問され(『戦史叢書』防衛庁防衛研修所・朝雲新聞社)、豊田聯合艦隊司令長官は戦艦大和と第二水雷戦隊とからなる海上特攻隊に沖縄突入を命じました。

昭和天皇が「疑問」や「御下問」をなされなければ、海軍は沖縄戦に航空戦力しか投入しなかったかもしれません。

結局、戦艦大和・巡洋艦矢矧・4隻の駆逐艦は海底に沈み、聯合艦隊の海上戦力は事実上消滅することになります。

しかし、聯合艦隊は「指揮下一切ノ航空戦力を投入シ総追撃」(『戦史叢書』防衛庁防衛研修所・朝雲新聞社)を続けました。特攻をおこない、ロケット推進の「桜花」も投入されます。

しかし、陸軍は、すでに本土を最終決戦の場と定め、沖縄戦を本土決戦のための「出血持久的前哨戦」とみなし、航空戦力のすべてを投入しようとしませんでした。このため、沖縄決戦を主張する海軍と激しく対立しているのです。

 

「戦後の今日、『日本は沖縄を捨て石にした』と言う人がいるが、これは誤りだ。日本は、沖縄を守るために最後の力をふり絞って戦ったのだ。もし捨て石にするつもりだったなら、飛行機も大和もガソリンも重油も本土防空および本土決戦のために温存したであろう。」(P401)

 

と説明されていますが誤りです。陸軍は本土防空および本土決戦のために兵力を温存していますから「捨て石にするつもり」であった、と指摘されても、とても誤りとは断言できません。

特攻機は2393機が投入され、大本営は「空母2225隻、戦艦4隻、巡洋艦24隻を撃沈破した」と発表しましたが、そもそもこんなにたくさんの空母も巡洋艦もアメリカには投入していませんし、実際は、艦艇沈没は36隻でしたが、空母・戦艦・巡洋艦の撃沈は1隻もありませんでした。

(『十五年戦争小史』「戦線の崩壊」江口圭一・青木書店)

178】中国大陸の戦いの優勢も大局的には無意味になった。

 

「日本は中国大陸の戦いでは優勢だったが、アメリカを相手にした太平洋での戦いはもはや絶望的だった。」(P400)

 

と説明されていますが、まるで中国との戦いは勝っていたかのような説明です。

アメリカも指摘していますが、蔣介石は、兵を温存していて、正面からの戦いを回避していました。また、一方で日本軍のほうは「打通作戦」を展開し、連合軍が使用可能な航空基地を破壊することに成功し、中国からの日本への空襲を阻止したかにみえましたが、直後のサイパンの陥落で無意味になってしまいました。

戦略によって敵の戦術を無力化するのは、古代ローマのスキピオが、カルタゴのハンニバルに対峙したのと同じ作戦で、アメリカが日本を降伏させれば、そもそも日本は「大東亜戦争」という名称で日中戦争と太平洋戦争を一体的に捉えていたので、対米戦争の敗北は、同時に中国での戦いも敗戦となります。

日中戦争・太平洋戦争を「大東亜戦争」であるとし、呼称を現在でもそう使用すべしという方の中には、一方で中国との戦いは勝っていた、という言説を為される場合がありますが、矛盾はここにあらわれています。

ただ、現実には、日中戦争も限界点に達していました。

もともと北支方面軍は「一切ノ諸施策ヲ中共勢力剿滅ニ集中スル」方針をとり続けて、「目標方法」として以下を掲げています。(「第一期晋中作戦戦闘詳報」防衛庁防衛研究所・『十五年戦争小史』江口圭一・青木書店)

 

一、敵及土民ヲ仮装スル敵

二、敵性アリト認ムル住民中十五歳以上六十歳迄ノ男子

殺戮

三、敵ノ隠匿シアル武器弾薬器具爆薬等

四、敵ノ集積セリト認ムル糧秣

五、敵ノ使用セル文書

押収携行、止ムヲ得ザル時ハ焼却

六、敵性部落

焼却破壊

 

このような作戦展開は、中国民衆の反感をかい、蔣介石の国民党軍が日本との正面衝突を回避していくなか、共産党が抵抗・反撃をして解放区を広げ、かえって共産党の支持を農民たちの中で広げていく結果となりました。中国の赤化をおそれながら、共産党の支持を拡大することに手を貸したようなものです。

 

後にWGIPによる「洗脳の深さ」と称して「多くの日本人が『戦前の政府と軍部は最悪』であり、『大東亜戦争は悪辣非道な侵略戦争であった』と無条件に思い込んでいる。」(P425)、「アジアの人々と戦争をしたわけではない」(P425)とまたしても繰り返し説明されていますが、戦後の歴史教科書は「無条件」に「悪辣非道な侵略戦争」であったと一方的に説明したりはしていません。

史料と根拠をもとにした歴史著述の結果、それを読んだ側がどのように感じたかの問題であって「WGIPの洗脳・陰謀」といった志操のせいではありません。

そもそも、アジア太平洋戦争を「悪辣非道な侵略戦争」と記されている教科書があるならば、具体的に示すべきでした(私が知るかぎり現在の教科書でそのようなものをみたことがありません)

何度も申しますが、世界の教科書と比べて、日本の教科書はたいへんニュートラルで、客観的で史料に基づき、抑制された調子で説明がされています。

 

「中国共産党が華北の農村地帯に広く抗日根拠地(解放区)を組織してゲリラ戦を展開したのに対し、日本軍は抗日ゲリラに対する大掃討作戦(中国側はこれを三光作戦と呼んだ)を実施し、一般の住民にも多大の被害を与えた。」(『詳説日本史B』山川出版・P365)

 

という説明です。先に示した史料「目標方法」に基づいているのは明白です。

また、注目すべきは「三光作戦」を「中国側が」そう呼んでいたにすぎない、ということも示していることです。はっきりと「三光作戦」は日本側の呼称でないことを現在の教科書では指摘しています。

 

「聯合艦隊はほとんどの空母を失っており、強大な空母部隊を擁するアメリカ艦隊に対抗できる力はなかった。それでも降伏しない限りは戦い続けなくてはならない。」

(P400)

 

と説明されていますが、意味がよくわかりません。「対抗できる力はなかった」のに、どうして「戦い続けなくてはならない」のかの説明がありません。

というか、「抵抗する力がなかったのに降伏せずに戦い続けた」と説明すべきではなかったでしょうか。

 

「追い詰められた日本海軍は、人類史上初めて航空機による自爆攻撃を作戦として行なった。」(P400)

 

という説明も、何といえばよいのでしょう。「航空機による自爆攻撃」というような「自爆前提」の、兵士の尊い命を犠牲にした作戦を、「人類史上初めて」というように表現するのはふさわしいのでしょうか…

 

「神風特攻隊は、最初はフィリピンでの戦いの限定的作戦だったが、予想外の戦果を挙げたことから、なし崩し的に通常作戦の中に組み込まれた。」(P400)

 

と説明されていますが、すでに山本五十六が「体当たり攻撃」をする案を持っていました。海軍の計画は、「限定的作戦」ではなく、あらかじめ計画されていたことの実行で、なし崩し的に通常作戦に組み込まれたものではありません。

ただ、フィリピンでの作戦実行にあたって、ためらいや逡巡がみられました。

(『侍従武官城英一郎日記』野村実・編 山川出版社「近現代史料選書」)

177】アメリカの大規模な反攻が無いから講和を進めなかったわけではない。

 

「昭和一八年(一九四三)の時点で、日本の国内経済はすでにガタガタになっており、生産力は著しく低下し、戦争の継続の見通しは立たなくなっていたが、アメリカの本格的な反攻がないため、講和の画策もしなかった。」(P398P399)

 

まるで講和を考えなかった原因がアメリカにあるかのような説明です。

戦争の継続の見通しが立たなくなった段階で、終戦を考えてもよかったはずですが、1943年段階では東条内閣は講和など一切考えていません。

そもそも「中国大陸に限っては戦いを有利に進めていた」(P399)と説明されているように、1943年に入ってからも、フランスとは「共同防衛協議」をおこなって広州湾に軍を進駐させ、揚子江(現在の長江)北部、武漢西方に第11軍を展開させて中国の守備隊を壊滅させています(①江北殲滅作戦)。さらに同5月には洞庭湖西方、長江南部に第11軍は進軍し、民間人を含む中国軍3万人を殲滅しました(②江南殲滅作戦)11月には、湖南省北部で中国軍と激突しています(③常徳会戦)

そして1944年からは「④打通作戦」を展開します。

これは中国大陸縦断作戦とでもいうべきもので、中国内陸部の連合軍基地の破壊、仏印への陸路を開くことを目的としたものでした。投入総兵力はなんと50万人。800台の戦車、7万の騎兵を用いて作戦距離は驚きの2400㎞。そして、この作戦は成功しているんです。

「国内経済がガタガタ」で、「生産力は著しく低下」していて「戦争の継続の見通しは立たなくなっていた」はずなのに、1943年以降、①~④の軍事作戦を次々展開し、戦果をあげています(③の常徳会戦は成功・失敗、意見が分かれるところですが)

このような作戦展開が可能な理由は、資源・食料などを徹底的に「現地調達」したか、日本国内あるいは満州国・朝鮮で食料・物資を強烈に絞り上げて中国大陸に送っていたかのどちらか、あるいはその両方でしょう。

 

「アメリカの本格的な反攻がない」(P398P399)という説明もあまり賛同できません。

というのも42年3月からアメリカは「ウォッチタワー作戦」といって、東南アジア・太平洋諸島を、一斉に奪還する大規模な作戦を展開するからです。何より、「ガダルカナル島攻防戦」はこの作戦の一環によるものです。

 

「アメリカが一年間休んでいたわけでは決してない。ヨーロッパ戦線を戦いながら、日本への反攻準備を着々と整えていたのである。」(P399)

 

1943年2月、ガダルカナル島を奪われ、5月にはアッツ島の日本軍が全滅させられます。キスカ島も攻撃を受けましたが、7月、日本軍はなんとか包囲から脱出に成功しています。11月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島で日本軍が全滅しています。

「反攻準備」を着々と進めていたのではなく、着々と日本の勢力範囲を奪って縮めていっています。

1943年9月、ガダルカナル島失陥を受けて、御前会議で「今後採ルベキ戦争指導大綱」を決定し、「万難ヲ排シ概ネ昭和一九年ヲ目途トシ、米英ノ進攻ニ対応スベキ戦略態勢ヲ確立シツツ、随時敵の反攻戦力ヲ捕捉破摧ス。帝国戦争遂行上太平洋印度洋方面ニ於テ絶対確保スベキ要城ヲ千島、小笠原、内南洋及ビ西部ニューギニア、スンダ、ビルマヲ含ム圏域トス」として「絶対国防圏」を設定しました。 

以上からわかるように「アメリカの本格的な反攻がないため、講和の画策もしなかった。」(P399)というのは誤りで、むしろ「アメリカの本格的な反攻を受けても、戦いを継続し、講和を考えることは無かった。」と説明すべきです。

「絶対国防圏」を設定した、ということは、それは同時に、南太平洋の最大基地、ラバウル(10万人の兵を擁する)を含む「圏外」の日本軍は、置き去りになったことも忘れてはなりません。

 

さて、以下は、細かいことが気になるぼくの悪いクセなのですが…

 

「エセックス級空母が終戦までに十八隻就役した…」(P399)

 

と説明されていますが、17隻の誤りです。おそらく1945年就役の「プリンストン」を「終戦までに」と勘違いされていると思います。「プリンストン」は194511月就役しています。

 

176】「コミンテルンの陰謀」は無い。

 

前回、総力戦体制の話をしました。

 

①強い権限を持つ政府あるいは軍部

②軍需工業優先の産業に編制

③女性や青少年を軍需工業の生産に動員

④食料の配給制などを実施

⑤国民の消費生活を統制

 

日本の場合は、これに「言論・出版・報道統制」が入ります。

表現の一言一句にまで検閲が入りました。

「敗退」は「転身」、「全滅」は「玉砕」…

現在でも、普通の表現のように「玉砕」という言葉は使用されています。

 

思想面での「統制」は、満州事変以降、深化します。

1933年、獄中にあった共産党の指導者たちは次々に「転向」を表明しました。

佐野学、鍋山貞親らは、「コミンテルンが共産党に指示した天皇制打倒、侵略戦争反対の方針を批判し、天皇制と民族主義のもとでの一国社会主義の実現を提唱した。この声明をきっかけに獄中の大半の党員は転向した」(『詳説日本史B』・山川出版・P349)のです。

「コミンテルンの陰謀」を声高に説明される人がいますが、このように教科書レベルで日本史でも世界史でもコミンテルンの役割・機能は十分に説明されています。

そして1943年5月に解散されていますが、それより以前に、スターリン体制が確立された時点で、「世界革命」を放棄し、「一国社会主義」にソ連は転じていて、コミンテルンは「ソ連の共産主義の防衛」に役割が転じています。

ご年配の方は、コミンテルンの20年代の「世界革命」の普遍の活動をイメージしがちですが、スターリン体制後は、それぞれの国で共産党勢力を伸張させながらも、合法的に政権に関与させてファシズムに対抗する路線(人民戦線方式)に移行しています。

  

「一般企業でも労働組合が強くなり、全国各地で暴力を伴う労働争議が頻発した。これらはソ連のコミンテルンの指示があったとわれている。」(P435)

「そこでスターリンには日本のコミンテルンに『講和条約を阻止せよ』という指令を下したといわれる。」(P450)

 

存在しないものに指示を出すこともありませんし、1920年代とは大きく社会主義体制の方針が転換されている(「時代遅れの世界革命論」をソ連の側も認識している)のに、いつまでも20年代の方針が残存していると考えるのは無理があります。

1947年にスターリンはコミンフォルム(共産党情報局)というのを設置しています。

各国の共産党の情報交換、ソ連指導下の共産党活動の調整が主目的の組織で、なぜ、43年に解体され、日本の共産党や世界の共産党に「世界革命」を志操したブハーリンもサファロフもスターリンに粛清され、30年代後半は活動家がみなスターリンの粛清をおそれて実質的活動ができない状態にあったコミンテルンをクローズアップされているのかさっぱりわかりません。ちなみにコミンテルンの後継とも言えないことはないコミンフォルムですら、1956年に解体されています。

 

さて、「日本の場合は、これに『言論・出版・報道統制』が入ります。」と先ほど説明しました。教科書は「弾圧」ではなく「統制」と表現しています。

これには実は理由があります。

1930年代に、佐野学らの転向声明をきっかけに、治安維持法で検挙されていた人々の9割が転向しました。反体制活動を改正治安維持法で徹底的に取り締まりましたが、実は最高刑罰の「死刑」は適用していないのです。

1910年代、20年代の過酷な「弾圧」とは、政府のほうも方針を変えています。

1930年代後半から、日本は独自の政策をとりはじめます。それは、治安維持法で検挙された経歴を持つ旧左翼関係者を、内閣調査局(後の企画院)に「官僚」として採用しているんです。

同時代のファシズム国家(ナチス・ソ連)のように、反体制派を粛清、処刑などいっさいしていない、それどころか体制内に取り込む、という点が世界に類をみないところでした。こういう部分をもっとクローズアップしてほしかったところです。

「反対派を体制内に取り込む」という手法は、べつに「和をもって貴しとなす」日本文化の証、とは申しませんが、転向した者を批判せずに活用する、ということは日本では普通にみられることでした。

 

「東京裁判」にあたって、日本の戦争へのプロセスは、検察側もGHQも徹底的に調査しています。後ほど詳しく説明しますが、表面的には「戦争指導者糾弾ありき」に見えますが、その調査過程で、天皇は統帥権者であったが、戦争の節目で反対の意を示しているにもかかわらず軍部が事後報告に終始していて怒りをお示しになられていたこと、ナチスのような「全体主義」とは異なり、軍部内も分裂し、閣僚も対立し、処刑・粛清とは言えない手法で思想統制をしていて、「反対派も生かして活用する」という実態は「欧米のファシズム」とはほど遠いことが次第に明らかになりました。

「戦犯」もその判断から指定・指定解除がされていて、GHQの民主化政策は、むしろ「勝者の驕りの一方的な指令」で進められたというよりも、「GHQと日本の共同作業」で進められている側面が次第に明らかになっています。

 

175】フランスとは戦争をしていないし、「総力戦」を誤解しているところがある。

 

11章以降、誤解や誤認の説明が増えてきました。

もちろん、著者の歴史観や思想・信条は自由なのです。でも、事実が誤っていたり誤解されたりしていると、それをもとにして生まれた歴史観は、やっぱり誤っている可能性が高くなってしまいます。

また、日本史の通史でも、近現代史は、ほとんど「世界史」と一体です。

世界史についての知識に誤りがあったり、その説明が不正確だったりすると、それと繋がる日本の歴史解釈にも誤りを及ぼしてしまいます。

 

「日本はアジアの人々と戦争はしていない。日本が勝った相手は、フィリピンを植民地としていたアメリカであり、ベトナムとカンボジアとラオスを植民地としていたフランスであり、インドネシアを植民地としていたオランダであり、マレーシアとシンガポールとビルマを植民地としていたイギリスである。日本はこれらの植民地を支配していた四ヵ国と戦って、彼らを駆逐したのである。」(P391P392)

 

日本の支配に対して抵抗したゲリラや、各地の反乱、それを日本軍が掃討したことをご存知ないかのような説明です。

また、日本は、アメリカとは交渉を進めていました。真珠湾攻撃と前後しましたが宣戦布告をして戦争をしています。

これについても、「奇襲するつもりはなかった」「大使館のミスのせい」「アメリカの陰謀」などと、よく説明される方はいるのですが、イギリスについては、何の事前交渉も事前通告もなく、マレー半島を奇襲攻撃しているのです。不思議とこれについては誰も触れません。

フランスに関しては、仏印進駐の際に、陸軍の協定違反による強引な上陸で、フランス軍と戦闘になったことはありますが、ヴィシー政権とは戦争をしていません。

「また中国大陸に限っては戦いを有利に進めていた。」(P399)と説明されていますが、フランスの租借地広州湾を協定に基づいて日本軍は利用し、ヴィシー政権との友好関係(1942年2月21日・共同防衛協議)があったからこそ、有利に戦いを進められたといえます。フランスとは戦っていない、というべきでしょう。

意外に思われるかもしれませんが、オランダへの宣戦布告は、1942年1月に入ってからでした。

1942年1月に内閣が作成した「大東亞戦争ノ呼称ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」の「説明基準」の中で、対オランダ戦と対ソ連戦を「大東亜戦争」に含む、と規定しました。     

日ソ中立条約をやぶってソ連が侵攻した、とはよく言われますが、「関特演」にせよ「説明基準」にせよ、戦局によっては、日本は「北進」、つまりソ連と戦争をする計画であったことは明白です。実際、オランダとはこれに基づいて宣戦布告をおこなっています。

 

「大東亜戦争を研究すると、参謀本部(陸軍の総司令部)も軍令部(海軍の総司令部)も『戦争は国を挙げての総力戦である』ということをまったく理解していなかったのではないかと思える。」(P394)

 

と説明されています。まったく同感ともいえるのですが、後の説明を読むと、どうやら政治・経済・軍事の用語としての「総力戦」(教科書でも説明されています)という言葉を誤解されているようです。

「総力戦」とは、①強い権限を持つ政府あるいは軍部が、②軍需工業優先の産業に編制し、③女性や青少年を軍需工業の生産に動員し、④食料の配給制などを実施して、⑤国民の消費生活を統制する体制のことを言います。

この点、日本は「総力戦を理解していなかった」どころか、十分理解し、ルーデンドルフの『総力戦論』にも適合する、もっとも典型的な総力戦体制を作り上げることに成功しているといえます。

後にP394P398で延々と説明される問題点は、総力戦体制をとったものの、敗戦してしまった国に共通する例にすぎません。

むしろ、インフラも整備されておらず、そもそも資源や物資が国内で自給できない状況で「総力戦」体制をとっていることが誤っていただけです。

また、陸軍・海軍によるさまざまな「不統一」「不一致」は、ドイツはもちろんアメリカでも見られていることで、「総力戦」とはまた別問題です。

 

「日本の同盟国ドイツでは軍需大臣のアルベルト・シュペーアが徴兵の権限まで持っていたため、一流の職人や工場労働者は戦場に送らなかった。」(P396)

 

と説明されていますが、シュペーアが軍需大臣となったのは1943年から2年間だけで、

1930年代後半から徴兵制や軍需の諸制度を整備、運用したのはトートでした。彼が死去した後、シュペーアが任じられたのです。

1943年以降、ヒトラーは閣僚に専門性の高い人物を任命しなくなっており、戦局の悪化が進むにつれて、自分の意を直接的に反映してくれる人物を選んでいます。

シュペーアは建築家で、「自分は門外漢」としてヒトラーに辞退を申し出たくらいでした。また、1944年1月から5月までは病気で入院しており、名前だけの軍需大臣でした。10月以降は、それまでの方針(戦争に必要な物資を調達するという方針)から、敗戦後のドイツをいかに早く立ち直らせるか、ということに切り替えていて、「一流の職人や工場労働者は戦場に送らなかった。」という方針はこの時からです。

また、ドイツが「戦争末期まで工業生産力が低下しなかった」というのも、シュペーアのこの方針転換以降です。

しかし、1945年にはヒトラーは「ネロ指令」を出して、ドイツ及びベルリンを「焦土」とし、敵に工業生産施設を使用されないようにするため、工場などの破壊を命じています。ですから大戦末期にはドイツの工業生産はゼロになり、工場などの施設は稼働していなかったのが現状です。

 

「…出世は陸軍士官学校と海軍兵学校(および陸軍大学校と海軍大学校)の卒業年次と成績で決められていたのだ。個々人の能力はほとんど考慮されない。」(P397)

 

という説明も、同意できますが、ただ、日清・日露戦争の「司令官」クラスは、薩長出身、つまり「個々人の能力が考慮されない」時代に選ばれた人々でした。

むしろ広く才能のある者を「平民」も含めて選出する士官学校の制度はそれなりに人材を集めていたことは確かで、一概に否定してしまうのはどうでしょうか。

「戊辰戦争や西南戦争を経験していた日清戦争や日露戦争の司令官クラスとはまるで違っていた」と説明されていますが、日清・日露戦争よりも戊辰戦争や西南戦争から学ぶことが多かったという説明には無理があります。

「戦争は局地戦で勝利を収めれば勝てる」というのが誤った教訓ならば、戊辰戦争や西南戦争から学んだ教訓こそこれに該当するはずです。

 

「宣戦布告の文書を、不手際でハル長官に手渡すのが遅れた日本大使館員」(P398)

と、またここでも批判されていますが、「答えのある問題には強いが、前例のない辞退への対応力は格段に落ちる」と指摘されているように、大使館員たちには、「日本がアメリカに攻撃をかける」ことは一切知らされておらず、しかも外相が、間違いが起こらないようにと「余裕」をもって提出させようとしたのに、海軍が作戦決行のできるだけ直前にまで引き延ばそうとして、「30分前にハル長官に手交するように」命じたから起こった「不手際」です。(大使すら、ハル長官に手渡して大使館にもどってから日本が攻撃を開始したことを知りました。)外交官を適切に運用できなかったのは、当然、大臣・軍部に責任にがあったと言うべきでしょう。

 

「これでは、宣戦布告の遅れを国が黙認していたと、アメリカに受け取られても仕方がない」(P398)

 

と、ありますが、アメリカが「国が黙認していた」と考えるのは、不手際の大使館員を処罰しなかったことではなく、事前交渉も通告もしていないイギリスに対して真珠湾よりも先にマレー半島に奇襲攻撃をかけたからです。

これでは「奇襲攻撃をするつもりはなかった」といってもアメリカには信用してもらえません。