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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

169】戦争目的が「石油を奪うため」と説明しながら「侵略では無い」というのは矛盾している。

 

「昭和一六年(一九四一)十二月八日未明、聯合艦隊の空母から飛び立った日本海軍の航空隊はハワイの真珠湾に停泊するアメリカ艦隊を攻撃した。日本軍は戦艦四隻を撃沈し、基地航空部隊をほぼ全滅させた。この時、在アメリカ日本大使館員の不手際で宣戦布告が攻撃後になってしまった。」(P385)

 

南雲中将率いる機動部隊は、1122日、択捉島単冠湾に集結していましたが、1126日にはすでにハワイに向けて出撃しています。

1126日はハル・ノートが出された日。12月1日に御前会議が開かれ、最終決定が行われていますが、結局は「帝国国策遂行要領」の一部修正のみで軍部は作戦を進行させています。

ハル・ノートが日本を戦争に追い詰めた、ということの意味は、ネット上でよく言われているよりも希薄なんです。

 

「この時、在アメリカ日本大使館員の不手際で宣戦布告が攻撃後になってしまった。」という説明も、宣戦布告が遅れて「奇襲」「騙し討ち」の汚名を受けた責任を大使館員の不手際のみに負わせるのは不正確です。

 

東郷外相は、対米交渉打ち切りの通告を、アメリカに手交する時間的余裕を計算して12月5日午後にワシントンの日本大使館に発電しようとしました。

しかし、開戦意図を直前まで隠すことを強く海軍から要求され(すでに出撃している攻撃部隊のタイミングに合わせるために)、通告は12月8日午前3時(真珠湾攻撃の30分前)と決定されました。

しかし、そもそも対米開戦のことはワシントンの大使館に知らされていませんでした。

暗号解読、浄書に手間取り、真珠湾攻撃から1時間余り遅れることになりました。

野村大使がハル長官に手交しましたが、大使館に帰ってから日本軍が奇襲攻撃をしかけたことを知ったのです。

それに、どうも真珠湾攻撃のことばかりが強調され、日本は奇襲するつもりはなく、大使館の不手際のせいだとする言説が流布されていますが、同日に行われたマレー半島の上陸作戦については、まったくの「奇襲」です。そもそもイギリスとは何の「交渉」もしていませんでした。

25軍の第18師団は、日本時間12月7日午後1130分、マレー半島コタバルに侵入、8日午前1月30分に上陸しています。こちらは真珠湾攻撃よりも1時間以上も前のことです。

また、第25軍第5師団はタイの承認無くタイ南部のシンゴラに上陸し、タイ軍と交戦しています。それを退けマレーシア国境に進軍し、さらに仏印からタイに近衛師団が侵攻したのです。

 

「日本がアメリカとイギリスに対して同時に開戦したのは、オランダ領インドネシアの石油を奪うためだった。そのためにはシンガポールのイギリス軍を撃破せねばならず、また手に入れた石油を日本に送るのに東シナ海を通るため、その航路を遮る位置にあるアメリカのクラーク基地を無力化する必要があった。真珠湾のアメリカ艦隊を叩いたのも同じ理由である。」(P385P386)

 

と説明されているのですが、「石油を奪うため」に英米と戦争をした、とはっきり断言されています。

また、「そしてこの戦争の主目的であったオランダ領インドネシアの石油施設を奪うことに成功した。」(P389)と述べられています。

そして、

 

「『大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった』と言う人がいるが、これは誤りである。」(P391)

 

と、コラムで説明されていますが、他国の石油資源を奪うことは「侵略」ではないのでしょうか。この説明では、「大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった」と百田氏自ら説明されているようなものです。

中立国タイを無断で通過して、宣戦布告無くイギリス領マレーシアに入り、ボーキサイトや天然ゴムの資源を確保し、インドネシアの「石油を奪う」。

これでは「東南アジア諸国への侵略戦争だった」と言われても仕方がないように思います。

 

168】「ハル・ノート」によって開戦の決意が固められたのではない。

 

「…つまり日本は戦争回避を試みながらも、戦争開始の準備を着々と進めていたのだった。」(P384)

 

と説明されていますが、まさにこの通りで、これこそが日本が国際的に信用を失い、経済制裁を受けることになったところです。

和平交渉と言いながら、ドイツが優勢になればドイツと接近し、ドイツがソ連と戦争を開始すれば、満州に演習と称して軍を集中させてみせる…

それでも、ルーズベルトは「公約」通り、軍事行動には出ず、経済制裁によって日本を押さえ込もうとしましたが、日本は南部仏印への進駐をおこないました。

この過程で、政府と軍部は対立していて、その方針が揺らいでいました。

「日本は戦争回避を試みながらも」ではなく「政府は戦争回避を試みながらも」「軍部は戦争開始の準備を着々と進めていた」のが実際で、それは日本の国内問題に過ぎず、イギリス・アメリカにすれば、戦争を準備する時間稼ぎのように見えたとしても不思議ではありません。

このあたりをもう少し深く描写してほしかったところです。

 

真珠湾攻撃を計画し、訓練を始めているのは1941年5月です。

近衛文麿が野村大使に日米交渉を開始しているのが4月ですから、平和交渉を開始してすぐにもう真珠湾攻撃の「訓練」を開始していることになります。

交渉期限を10月に定めた「帝国国策遂行要領」が定められたのが9月ですから、アメリカとの戦いをするのは軍部には既定路線でした。

ハル・ノートが出されたのは1127日ですが、択捉島単冠湾に真珠湾攻撃のための機動部隊が1122日には終結を完了しています。

ハル・ノートが出されてから開戦が決意されたのではありません。

 

「…もっとも、何としても日本を戦争に引きずり込みたいと考えていたルーズベルトは、別の手段で日本を追い込んだであろう。」(P385)

 

という説明は、何の一次史料にも基づかない空想です。

「引きずり込む」までもなく、軍部は戦争を開始する準備を進めていて、ハル・ノートの有無にかかわらず、軍部は「何としてもアメリカと戦争したいと考えていて」、「別の理由でアメリカと開戦していたであろう」と言えます。

 

ところで、百田氏は、ハル・ノートについて「中国」に「満州」が含まれているかいないかの議論について言及されています。

「日本側は『満州』を含めた地域と解釈したが、実はアメリカ側は、満州は考慮に入れていなかったともいわれている。」(P384P385)と説明され、「当時の日本の閣僚らに、もし満州を含まないと知っていたら開戦していたかと訊ねている。すると多くの人は『それならハル・ノートを受諾した』、あるいは『開戦を急がなかったであろう』と答えている。」(P385)とジョン=トーランドの話を紹介されているのですが、この「閣僚」は誰のことでしょうか。

実は、中国に満州が含まれるか否かの話は、東郷外相が「回答」していて、閣僚ならば全員この経緯を知っているはずです。

1941121日の「御前会議」、つまり開戦を決定した会議で、原枢密院議長は東郷外相に対して「支那トイフ字句ノ中ニ満州国ヲ含ム意味ナリヤ否ヤ、此ノコトヲ両大使ハ確カメラレタカドウカ、両大使ハイカニ了解シテ居ラレルヲ伺イタイ。」と問うています。

「支那ニ満州国ヲ含ムヤ否ヤニツキマシテハ、モトモト四月十六日提案ノ中ニハ満州国ヲ承認スルトイフコトガアリマスノデ、支那ニハコレヲ含マヌワケデアリマス…」

と、東郷は回答していて、外務省は、アメリカは「支那」の中に「満州」は含まれていない、という認識をしているということを答えています。

ただ、重慶政府を正式な政府として考え、汪政権を認めないというようにアメリカは考えているので否認するかもしれない、と、自信なさげに付け加えています。

これに対して軍部は、『機密戦争日誌』の中で「満州ヲ含メタ全支カラマタ仏印カラモ全面撤兵ヲ要求シテ全支ニタダ一ツノ重慶政権ノミガ正当政府ダトイフ。」と記していて、日本が満州国を手放せば、全中国は赤化する、と危機感をつのらせていました。ここでは「支那」が「全支」と置き換えられて説明されています。

 

どうも軍部は「中国」の中には「満州」が含まれる、とハル・ノートを解釈して、これならば「開戦」だ、と会議の流れをつくったような気配がします。

軍は「満州を含む」と解釈して開戦を唱え、「当時大本営政府首脳は、(支那の中に満州は)含まないとの前提に立ってハル・ノートを理解」(『大戦略なき開戦』原四郎・原書房)していました。

閣僚らは、満州を含まない、と理解していたのですから、ジョン=トーランドの「質問」は閣僚ではなく、軍人あるいは軍官僚に問うたものではないでしょうか。

 

 

167】アメリカが一方的に経済制裁をして日本を戦争に追い詰めたのではない。

 

「前年の昭和一四(一九三九)には、日米通商航海条約破棄を通告し、航空機用ガソリン製造設備と技術の輸出を禁止していた。」(P380)

「…昭和一五年(一九四〇)、特殊工作機械と石油製品の輸出を制限、さらに航空機用ガソリンと屑鉄の輸出を全面禁止する。」(同上)

 

と、アメリカの経済制裁を一方的に説明されていますが、これらの背景には日中戦争の拡大、それにともなう重慶への無差別爆撃、仏印への強引な(海軍すら憤慨する)武力進駐、日独伊三国同盟の締結などがありました。

 

これをうけて第二次近衛内閣は、「日米交渉」を始めました。

これを「日本は必死で戦争回避の道を探るが…」(P382)と説明されています。

いわゆる野村吉三郎と国務長官ハルとの交渉です。

しかし、その一方で、外相松岡洋右は三国同盟提携強化のためにドイツ・イタリアを訪問しています。

外交は「二重性」があって当然ですが、一方で和平を唱え、一方で進出の手をゆるめない日本の姿勢は、国際的信用を低下させます。

松岡外相は、帰途、モスクワで日ソ中立条約を締結します。『日本国紀』では、どういうわけかこの時期の「北進」つまり、ソ連との対立から宥和への話が出てきません。

ノモンハンでの衝突(1939年5月~9月)の話もありませんでしたし、この日ソ中立条約締結の話も希薄です。

これは明らかに「南進」を進めるための北方の平和の確保がねらいでしたし、アメリカやイギリスもそのように判断します。

1941年6月、ドイツが突如不可侵条約を破ってソ連に侵攻しました。同年7月、御前会議が開かれましたが、軍部の強い主張で、「対英米戦覚悟ノ南方進出」だけでなく、情勢が有利になれば対ソ戦(北進)を決定しました。

内々の決定だけではありません。陸軍はすぐに行動に出ました。

シベリア・極東ソ連の占領計画を策定し、70万の兵を満州に集結させて「関東軍特種大演習」を実施しています。

日ソ中立条約を結びながら、独ソ戦が開戦されるや、ソ連の背後を狙う行動は、ソ連の不信もまねき、後の和平交渉の停滞や敗戦間際のソ連侵攻の遠因ともなります。

 

アメリカが日本を追い詰めていくような印象を与える説明がされていますが、日本のこのような「外交・対外姿勢」が自らを追い詰めていった側面も否めません。

むしろ、政府内部にも対米強硬派と宥和派があり、軍部内部にも強硬派と宥和派に分かれて対立し、それぞれの統一されない行動が国際的な不信を高めていました。

(これがナチスとは決定的な違いで、日本はとてもファシズム(全体主義)とはいえないところです。このことをここで説明しておけば、後の東京裁判の不当性と、マッカーサーの誤解の氷解もうまく説明できたのにと残念に思います。)

 

近衛文麿は、松岡洋右の対米強硬路線が、アメリカを中心とする経済制裁と「余計な対立」をもたらしていると考え、松岡洋右など対米強硬派を内閣から除くためにいったん総辞職して第三次近衛内閣を成立させました。

ところが、軍部はこの政府方針を汲み取らず、今度は「南部仏印進駐」を実行しました。

 

「アメリカのルーズベルト政権はこれを対米戦争の準備行動と見做し、日本の資産凍結令を実施した。イギリスとオランダもこれに倣った。そして同年八月、アメリカはついに日本の石油輸出を全面的に禁止したのである。」(P381)

 

「アメリカがいつから日本を仮想敵国としたのかは、判然としないが…」(P382)と説明されていますが、これははっきりしていて、アメリカのルーズベルトが明確に「東亜新秩序」建設と「南進」を阻止することを明確にしたのはここからです。

すでに説明したように「ワシントン会議の席で、強引に日英同盟を破棄させた頃には、いずれ日本と戦うことを想定していたと考えられる。」というのはあくまでも百田氏の推論にすぎず、「それを見抜けず、日英同盟を破棄して、お飾りだけの平和を謳った『四ヵ国条約』を締結してよしとした日本政府の行動は、国際感覚が欠如していているとしかいいようがない。」(P382)という説明は誤りで、すでに日英同盟は日本にとってもイギリスにとっても不要なものになっていて、「四ヵ国条約」の締結は、軍縮によって財政破綻を回避しようとする世界的な動きの中でとられたものです。むしろ国際感覚に合致していたというべきでしょう。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12444188757.html

 

そもそも百田氏が説明されているように、ルーズベルトは「自分が選ばれれば、外国との戦争はしない」という「公約」を掲げて当選しました。

 

「彼は『日本から戦争を仕掛けさせる方法』を探っていたはずで、日本への石油の全面禁輸はそのための策であったろう。」(P383)

 

というのは、百田氏の想像でしかなく、よくいわれる「ルーズベルト陰謀論」にすぎません。ルーズベルトは、「公約」を守り、1939年から1941年まで一貫して「武力行使」によって日本を屈服させるのではなく「経済制裁」によって日本の東アジア・東南アジア進出を阻止しようとしたのです。

それを武力によって打開しようとしたのは日本(軍部)でした。

ここから軍部はプロパガンダを展開します。

「ABCD包囲陣」という術語を使い、日本を不当に圧迫していると国民に訴えました。

陸海軍には「報道部」があり、各新聞社にそれぞれ担当をつけていて、新聞社も陸軍省・海軍省付きの記者を用意していました。

新聞社の中でも、陸軍省付き、海軍省付きの記者がそれぞれ意見を異にしていて、マスコミの中でもそれぞれの立場の「空気」を反映した記事が書かれていました。

このことを前提にして当時のマスコミ報道を説明すべきで、一方的に「日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難した。」「戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わせていた。」と説明するのは不適切です。

政府が戦争を回避しようとしたのに新聞が国民を扇動した、のではなく、政府が戦争を遂行するに当たって国民の理解を得るため、マスコミを利用した、というべきでしょう。

 

「日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策した。」(P383)と説明されていますが、9月6日の御前会議では、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米開戦に踏み切る、という「帝国国策遂行要領」を決定しています。

 

ちなみに「アメリカのルーズベルト政権はそれまでの交渉を無視するかのように、日本に対して強硬な文書を突き付けてきた。」(P384)として、1127日の「ハル・ノート」の説明をされていますが誤りです。「それまでの交渉」の中で、すでに日本側に「日本軍の中国からの全面撤退などを要求」しています。

ですから、近衛内閣は、妥協点を見出せないまま10月半ばを迎えたのです。

そして、日米交渉の妥結を強く希望する近衛首相と、交渉打ち切り・開戦を主張する陸軍大臣東条英機が対立し、1016日に内閣は総辞職することになったのです。

 

166】仏印進駐の内容が正確ではない。

 

「日本は仏印ルートの遮断を目的として、昭和一五年(一九四〇)、北部仏印(現在のベトナム北部)に軍を進出させた。これはフランスのヴィシー政権(昭和一五年)【一九四〇】にドイツに降伏した後、中部フランスの町ヴィシーに成立させた政府」と条約を結んで行なったものだが、アメリカとイギリスは、ヴィシー政権はドイツの傀儡であり日本との条約は無効だと抗議した。しかし日本はそれを無視して駐留を続けた。」(P381)

 

と説明されていますが、仏印進駐の話が不正確で一面的です。

日本は、フランスがドイツに敗退したことをうけて仏印の「援蒋行為」中心を要求しました。フランスはこれに応じたのです。6月29日、日本は西原少将を団長とする輸送停止状況監視団をハノイに送りました。これに対して参謀本部の永富少将は仏印への武力進駐を主張し、西原は日本軍の通過及び飛行場使用を認めるように迫りました。

現地の仏印当局はこれを拒否したので、松岡外相は駐日フランス大使アンリと交渉し、日本は仏印におけるフランスの主権の尊重、領土保全を約束し、フランスはハノイの飛行場の使用、兵力5000の駐留、軍隊の通過容認の協定が成立しました(松岡=アンリ協定)

ところが、「現地指導」と称して仏印に乗り込んだ永富少将はあくまでも武力進駐にこだわります。中国・仏印国境に待機していた第五師団は協定を無視して越境、侵入、6月23日から二日間、フランス軍と戦闘をおこなって武力進駐を強行しました。

外交も軍の意向も無視し、統帥部(参謀本部)が独走した例となります。実際、海軍はこの動きに憤激し、護衛艦を引き上げたので、陸軍は海上護衛無しで上陸をするという異常事態になっています。

「南進」については、軍が明らかに政府のコントロールを逸脱して展開していくことになっていきます。

 

仏印進駐はアメリカとイギリスが無効だ、と非難したどころか、日本軍も「ヴィシー政権」との条約を無視しておこなわれたものだったのです。

 

「『援蒋ルート』をつぶされたアメリカは、日本への敵意をあらわし…」(P381)と説明されていますが、これとほぼ同時に結ばれた日独伊三国同盟に対してだけにアメリカは「敵視」していたわけではありません。

1939年以降、日本への「経済制裁」は、1939年5~10月に陸軍航空部隊が実施した重慶への無差別爆撃にも理由があります。さらに9月から西尾大将を総司令官とする志那派遣軍を組織し、援蒋ルート遮断のための華南で南寧作戦を展開しています。

中国軍の反撃は激しく、さらに1940年5月~10月、再度の重慶無差別爆撃をおこないました。

二度の重慶への無差別爆撃は国際的な非難を浴びるようになり、これらが「特殊工作機械と石油製品の輸出を制限、さらに航空機用ガソリンと屑鉄の輸出を全面禁止する。」(P381)ということをまねいたのです。

 

「日本は必死で戦争回避の道を探るが、ルーズベルト政権には妥協するつもりはなかった。」(P382)

 

と説明されていますが、「戦争回避の道を探る」といっても、実際は日中戦争を早く終わらせようという焦りから戦争の拡大と無差別爆撃をおこない、ルーズベルト政権に「妥協するつもりはなかった」というより、日本側に日中戦争に関して「妥協するつもりがなかった」と言うべきかもしれません。

165】「バスに乗り遅れるな」の説明が誤っている。

 

「両国軍はあっという間に撃破され、イギリス軍はヨーロッパ大陸から駆逐され、フランスは首都パリと国土の五分の三を占領された。それを見てイタリアもイギリス、フランスに宣戦布告した。」(P380)

 

イタリアが参戦したのは6月10日です。パリが占領され、フランスが降伏したのは6月14日です。ドイツとフランスが休戦協定を結んだのは21日。

「それを見て」イタリアがイギリスやフランスに参戦したのではありません。

 

「ドイツの破竹の進撃を見た日本陸軍内にも、『バスに乗り遅れるな』との声が上がり、新聞もそれを支持した。そして同年九月、近衛文麿内閣は『日独伊三国同盟』を締結した。朝日新聞は、これを一大慶事のように報じた。」(同上)

 

「バスに乗り遅れるな」という標語を、「ドイツの破竹の進撃」に乗り、ドイツと同盟を結ぶことを意味していると誤解されています。

1940年6月、近衛文麿は枢密院議長を辞任し、「新体制運動」というのを展開します。

これは、ナチスやイタリアのファシスト党にならって大衆組織を基盤とする「指導政党」をつくり、既成政党政治の打破、全国民の戦争協力への動員をめざす革新運動でした。これをみた立憲政友会、社会大衆党、立憲民政党らの政党、各団体が「バスに乗り遅れるな」を合い言葉に、解散して「新体制」に参加・合流していったのです。

陸軍が「バスに乗り遅れるな」とドイツとの同盟を進めた言葉ではありません。

(インターネット上(Wikipedia)でも三国同盟締結に向けての陸軍の動きを「バスに乗り遅れるな」と説明されていますが適切とはいえません。)

これを見た軍部は、近衛の首相就任に期待して米内内閣を退陣させました。

 

近衛は7月、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣就任予定者と会談し、「欧州大戦介入」「ドイツ・イタリア・ソ連との連携」「積極的南方進出(南進)」を三つの内閣の方針とすることを定めて第二次近衛内閣が組閣されたのです。

 

「近衛文麿内閣は『日独伊三国同盟』を締結した。朝日新聞は、これを一大慶事のように報じた。しかしこの同盟は、実質的には日本に大きなメリットはなく、アメリカとの関係を決定的に悪くしただけの、実に愚かな同盟締結だったといわざるを得ない。もっともアメリカのルーズベルト民主党政権はこれ以前から、日本を敵視し、様々な圧力をかけていた。」(P380)

 

と説明されていますが、なぜ、アメリカが日本を「敵視」するようになったかの説明がありません。

日中戦争は泥沼化の様相を呈するようになったにもかかわらず、第一次近衛内閣は「国民政府を対手とせず」と声明し、さらに日中戦争の目的を「後付け」して日・満・華3連帯による「東亜新秩序」建設にあることを表明しました。

これは東アジアにおける自由貿易圏の確立をめざしていたアメリカ・イギリスを刺激してしまいました。

当然、日米間の貿易額はここから減少し始めていきます。

このタイミングでドイツが第一次近衛内閣に防共協定を強化し、イギリス・フランスを仮想敵国とすることを提案してきたのです。

日本とドイツの接近を受けて、1939年7月、日米通商航海条約の破棄を日本に通告し、翌年失効して軍需資材の入手が困難となったのです。

1939年9月に、ドイツのポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦に対しては、阿部信行内閣も米内光政内閣もドイツとの軍事同盟には消極的で「欧州大戦不介入」の立場をとり続けていました。

一方、日中戦争はどんどん深刻化していて、必要とする資源・軍事物資は、台湾・朝鮮の植民地、満州国及び中国の占領地からなる「経済圏」(円ブロック)の中ではとうてい充足できる状態にありませんでした。この時点で、欧米およびその植民地からの輸入にたよらなくてはならないのが現実でした。

阿部・米内内閣が「欧州大戦不介入」をとっていたのは実に合理的で、ドイツと連携してしまえば、欧米との対立が明確になり、日中戦争を遂行するための「軍需物資」が得られなくなるからです。

ところが、ヨーロッパでのドイツの優勢をみて日本の陸軍を中心にドイツとの結びつきを強め、イギリスとアメリカとの戦争を「覚悟の上で」南方に進出し「大東亜共栄圏」の建設を図り、石油・ゴム・ボーキサイトなどの資源を得ようという主張が急激に高まることになったのです。

南方進出は、当然東南アジアなどに利権を持つ欧米との対立を深めます。かえって日本に対する経済封鎖を強めることになったのです。

日米、植民地に利権を持つ欧米、それぞれ大国のエゴの衝突・連携がアジア・太平洋での「戦争」をもたらしたのであって、アメリカの非のみを鳴らすのは一方的で全体を見失う説明です。

 

日独伊三国同盟の締結に対する新聞への批判も一面的です。

「これを一大慶事のように報じた」と説明されていますが、何より一大慶事であるかのように説明し、ドイツとの同盟を説いてきたのは軍部、近衛内閣と松岡外相でした。

ドイツとの連携は、アメリカとの対立を深める、ということを第一次近衛内閣のときに理解していたはずです。

ですから、阿部信行内閣も米内光政内閣も「欧州大戦不介入」をとり、欧米との対立からこれ以上の輸入が減らないようにしてきたのです。

それを軍部が、ドイツの優勢をみて、アメリカ・イギリスとの衝突覚悟で、方針を転換させ、第二次近衛文麿内閣を成立させたのです。

「『援蒋ルート』をつぶされたアメリカは、日本への敵意をあらわにし…」(P381)

と説明されていますが、ドイツと軍事同盟を結んで「敵意をあらわにし」たのは日本のほうだったことを忘れてはいけません。

日独伊三国軍事同盟が、アメリカとの対立が予想されていたのに、締結に持ち込まれた背景には、駐独大島大使と松岡外相の交渉およびその結果の不正確な政府への説明がありました。

「ドイツと同盟を結んでも参戦するか否かは秘密議定書で日本が選択できるということが担保できている」と御前会議や枢密院会議を説得、アメリカ・イギリスとの対決を避けたい海軍もそれでしぶしぶ賛成に回りました。

しかし、これは実はシュターマー特使が「私信」で松岡に伝えたことにすぎず、同盟締結を成立させるために松岡が「約束」としたものだったのです。

「ドイツとソ連の開戦は無い」「アメリカは日本との戦争にふみきらない」ということを松岡は説明していました。

(『虚妄の三国同盟 発掘日米開戦前夜の外交秘史』渡辺延志・岩波書店)

 

これらの誤った、「前途明るい」日独伊三国同盟であるというプロパガンダしていた政府や陸軍の情報操作に目をつぶり、マスコミの報道を一方的に批判するのは適切ではありません。