旧小西家住宅と小西儀助商店(1) | 蔵六の雑記帳

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過去にそしていま感じたまま、思うままを記していきたい思っています。
面白くない話かもしれませんが、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

今回から大阪の船場にある歴史的建造物の一つである旧小西家住宅とそこで商いを営んでいた小西儀助商店(小西屋)についてのお話をさせていただきたい。


まず旧小西家住宅のある場所についてもう少し詳しくお伝えしたい。


旧小西家住宅は多くの日本の製薬会社が本社を置く大阪市中央区道修町に程近い船場にある、周りを近代的な高層ビルに取り囲まれた中、場違いとも思える漆黒の壁に包まれた古風な佇まいの木造建築が旧小西家住宅です。


高層ビルと旧小西家住宅

この建物は明治期に完成し、その後に起きた第二次大戦での大阪大空襲や阪神淡路大震災などの様々な苦難をくぐりぬけ、平成の世に明治期の難波にあった大店(おおだな=商家)を知ることができる貴重な建物です


まずは旧小西家住宅を店舗として商いをしていた小西儀助商店(小西屋)からお話を始めさせていただきたい。


小西儀助商店(小西屋)の創業者である初代小西儀助は豊臣秀吉が大坂の町並みを作った当初から薬屋の町として知られた道修町で安政5年(1858年)に小商いを始め、明治3年(1870年)に薬種(薬の原料、特に漢方薬の材料になる草木の生薬)の商いを生業として創業した。


明治7年(1874年)には「「キ小西屋」の屋号で本格的な薬種の商いを始めました。


初代小西儀助は新しいものが好きで、薬種の商いの傍ら当時はまだあまり出回っていない洋酒(ワインやビール、ウィスキー等)、缶詰の商いも手がけた。


さらに好奇心旺盛な初代小西儀助は洋酒の商いだけでは飽き足らず、明治17年(1884年)にアサヒ印ビールの製造と販売を開始した。


このアサヒ印ビールは現在のアサヒビール株式会社の源流と言われています。

(現在のアサヒビール株式会社とは直接関係ありませんが、大阪のビール製造に興味のある方はこちらの記事をご覧ください)

隠れた明治期の近代化産業遺産(1)

隠れた明治期の近代化産業遺産(2)

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また、小西儀助商店(小西屋)にはサントリー(現サントリーホールディングス)の創業者である鳥井信治郎が明治25年(1892年)から明治28年(1895年)まで丁稚奉公していました。


この時期の小西儀助商店(小西屋)では洋酒の商いをしており、鳥井信治郎は後に丁稚奉公の合間にビール、ワイン、ウィスキーなどの洋酒の知識を得たと語っています。


そして、鳥井は丁稚奉公が明けたあと、小西儀助商店(小西屋)で得た洋酒の知識をもとに鳥井商店を起業しました。


そして、この鳥井商店が後にサントリーホールディングとなり、現在に至ります。

(鳥井信治郎についてはこちらでも少し触れていますのでよろしければご覧ください)

隠れた明治期の近代化産業遺産(3)


いままでの話からお分かりのように、小西儀助は大阪での洋酒製造、販売の草分けであるアサヒビール、サントリーの起業化に影響を与えた人物なのです。


しかしながら、小西儀助自身は洋酒の製造、販売を軌道に乗せることができず、この事業を始めるにあたって注ぎ込んだ膨大な資金が重荷となり、薬種問屋としての小西屋の商売が苦境に陥ることになってしまいました。


まだまだ長いお話になりそうなので今回はここまでにして、続きは次回に譲りたいと思います。


今回も最後までお読みいただきありがとうございました。