さて、前回の続きを始めさせていただきます。
初代小西儀助は洋酒製造、販売が思うように軌道に乗らず、その資金繰りに窮していた、その苦境を救ったのが滋賀県彦根市から丁稚奉公に来ていた北村伝次郎、後に旧小西家住宅を建てることとなる二代目小西儀助である。
二代目小西儀助は初代が抱えた膨大な借金をわずか三年で返済し、その後も恵まれた商才で小西屋を盛り立て、事業開始時の借金で苦境に陥っていた洋酒の製造販売も「大阪洋酒製造」という会社を設立し、そこで新たに製造販売を開始した「赤門印ぶどう酒」の好調な販売により事業を軌道に乗せることに成功した。
少し横道にそれるが、NHK朝の連続テレビ小説で好評を博した「マッサン」に「住吉酒造」という会社が登場したことをご記憶に方はいらっしゃるだろうか?
その「住吉酒造」のモデルとなった大阪市住吉区にあった「摂津酒造」は「赤門印のぶどう酒」取引で「大阪洋酒製造」とかかわりがあったそうである。
その「摂津酒造」は昭和39年(1964年)、京都市に本社を置く寶酒造に吸収合併され、現在はその屋号を見ることはできない。
話を元に元に戻します。
たぐい稀な商才で傾きかけていた小西屋を立て直し、洋酒の製造販売事業を広げて、さらに事業を発展させた二代目小西儀助は新社屋(旧小西家住宅)の建設に着手します。
まず、二代目小西儀助は明治33年(1900年)に薬問屋の集まる町である道修町(以前にお話したカイゲンファーマ㈱もここ道修町に本社を置いています)にほど近い場所に320坪(1060平方メートル)の広大な土地を購入した。
(カイゲンファーマ㈱についてはこちらご覧ください。小樽の歴史的建造物(旧共成㈱)
)
二代目小西儀助が新社屋の建設用地を購入した辺りは武田薬品工業㈱の前身となる近江屋長兵衛商店、田辺製薬㈱(現在は田辺三菱製薬㈱)の前身である田辺屋五兵衛商店、塩野義製薬㈱の前身である塩野義三郎商店などが軒を並べる一等地であった。
当時そんな一等地にこれほどまで広大な土地を購入したことは周囲を大いに驚かせたそうです。
そして、用地購入の3年後の明治36年(1903年)に二代目小西儀助が細部まで気を配って建設した新社屋(旧小西家住宅)が完成しました。
完成当時は堺筋に面した場所に貸家があったのだが、その堺筋に明治44年(1911年)に市電(現在、市電は廃止され、変わりに大阪市営地下鉄堺筋線が運行されている)が通ることになり、その敷地を提供するために堺筋に面した貸家を撤去した。
そのため、完成当初は堺筋から見ると貸家の奥にあった主屋が現在は堺筋に面して建っている。
(手前の道が堺筋である)
初代、二代目小西儀助と小西屋についてのお話が長くなってしまった。
次回から旧小西家住宅についてご紹介していきたい。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。