今日の大河・龍馬伝も史実とは違う形で、近藤長次郎が切腹しましたが、瑞山会編纂の「維新土佐勤皇史」では、長次郎は、坂本龍馬と共に脱藩した沢村惣之丞によって切腹させられたことになっています。
長次郎は慶応二年一月が、トーマス・B・グラバーが本国に帰る月だったことを知っており、その船に同乗して密航する予定でした。
しかし生憎の時化で、グラバー邸に潜んでいたところ、亀山社中の面々に発見され、詰問を受けることになります。
沢村惣之丞はすぐには長次郎を詰問せず、まず皆の前で
「凡そ事大小となく、相謀りて之を行うべきは、社中の盟約にして、此れに背く者は割腹して其の罪を謝するの明文あり。不幸にして社中に其の人あり。割腹して謝せよ。」と言います。
つまり、事の大小に関わり無く、何か計画等があれば、社中の皆に承認を得てから行うべきで、この規約を破った者は切腹して謝罪せよ、ということです。
長次郎は軍艦等の購入の労を藩主毛利氏に労われ、多額の謝礼金も着服していました。
長次郎が顔色を変えずにいると、惣之丞は
「其の人は上杉宗次郎(長次郎の変
名)君なり!」と喝破したのです。
すると長次郎は観念し、
「如何にも約の如く割腹して諸君に謝し申さん。」と言い切ったのでした。
慶応二年一月二十三日、長次郎は小曾根邸別棟「梅花書屋」にて、武士として切腹し、果てました。
裏切り者に対する制裁の意味もあってか、介錯人はおらず、長次郎は苦しみながら息を引き取ったことが想像されます。
ただ、この長次郎の密航については、長次郎本人から言い出したのではなく、薩摩名義で購入したユニオン号の使用について、長次郎と長州側があまりにも対立するので、グラバーがイギリスに興味がある長次郎に話を持ちかけ、商談に邪魔な長次郎を薩長から遠ざけた、とも言われています。
惣之丞の態度は如何にも残酷に見えますが、彼は他人にだけでなく、己に対しても厳しい姿勢を貫いています。
慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が破れ、徳川慶喜も大阪城から退いた報が長崎の土佐藩関係者に届くと、藩の大監察・佐々木高行は海援隊に命じて長崎奉行所を占拠。
その時、門前を警備していた惣之丞は外で酒に酔って暴れていた男を射殺してしまうのですが、後でその男が薩摩藩士であったことが判明。
惣之丞はこれが原因で薩摩と土佐の間に亀裂が入っては一大事ということで、自ら切腹することを申し出ます。
が、この件はもとより、薩摩藩士の方に非があるということで、土佐・薩摩、両方の関係者は惣之丞を止めようとしたのですが、信念を曲げることがない惣之丞は一月二十五日、小曾根邸にて自刃したのです。
それにしてもやはり、他人にも自分にも厳しくするのはほどほど、がいいですよね。
ところで、長次郎は非常に苦労した人で、かつて、旅の途中で一文なしになって、上国する等しているのですが、詳しい話は拙著「龍馬が辿った道」を参照下さい。また、記念撮影できる等身大の長次郎の銅像についての記事は、当方のブログ内検索を行って下さい。
また、長次郎と長州海軍局の対立に触れた記事は→こちら
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