坂本龍馬は脱藩途次、肥後屋に泊まったのか? | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[初めて明かされる龍馬の上関での宿泊所]

これまで、坂本龍馬が文久二年三月、土佐を脱藩して、大洲市長浜港に至り、そこから長州上関に渡った際の、上関での宿泊所は判明していなかった。


自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-本陣・肥後屋跡

しかし近年出版されたザメディアジョン社の書籍には、文久二年三月二十八日、龍馬が泊まった場所は、肥後屋だとしている。


私もこの出版社の本は幕末以外の時代のもの等何冊も持っており、好意を持っていたため、長州脱藩道の踏査に入る前に出版した「大回遊!四国龍馬街道280キロ」の地図では、肥後屋も地図の隅に図示してしまった。


しかし実際に現地で調査し、尚且つ、龍馬関係の書簡に接する内に、それが誤りであることに気づいたのである。


第一、肥後屋のある地は上関ではない。今の行政区域では上関町に含まれるが、藩政期は室津村であり、上関村ではない。上関村は室津と現在は橋で繋がっている長島の村のことである。

これについては恐らく、ザメディアジョンの担当者は把握していないであろう。


自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-旧中沼家井戸

が、そもそも、脱藩古文書にも「上関」という地名は出てこない。脱藩道の生みの親である愛媛龍馬会顧問の方が、上関と断定したのは、藩政期、大洲市長浜港から防府市三田尻港まで船便で行く際の、途中の一般的な寄港地が上関だったからである。


更に龍馬が慶応元年十一月、大坂から下関まで船で行く際も上関で宿泊しており、そのことは龍馬の書簡の中にも記されている


それに比べ、室津で宿泊したという龍馬の記録はない。更に去年、現地へ行き、元教育委員会の職員や郷土史家、周辺住民に尋ねても、龍馬が肥後屋で宿泊したという伝承は得られなかった。


ではなぜ「肥後屋」が龍馬の宿泊所として記述されたのか。これは恐らく、文久三年の「八月十八日の政変」や禁門の変時、尊攘派公卿が移動時に宿泊し、更に高杉晋作や吉田松陰も宿泊したことがある故の推論であろう。


自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-藩政期の上関の絵

では、実際の龍馬の上関での宿泊所はどこかというと、実はこれは地元に明確な伝承がある。

上関の昔のメインロード沿いにかつて商家の中沼家があり、ここに龍馬が宿泊したという伝承があるのである。


ここには高杉晋作も訪れたことがあり、密会場として利用できるよう、隠し部屋もあったというのである。


中沼家は大正から昭和初期頃、宿屋を営んでいたようだが、戦後、旧家は取り壊され、地権者も変わった。


が、ただ一つ、旧中沼家跡に藩政期のものがある。それは井戸龍馬もこの井戸の汲まれた水を食事時に飲んだはずである


上関は御茶屋跡や番所の建物、明治期に城を模して建てられた建造物、複数の砲台跡等があり、歴史愛好家の興味をそそる史跡が多い。各龍馬の史跡や藩政期の史跡については拙著「長州・龍馬脱藩道」を。

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