自然、戦跡、ときどき龍馬

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2019-06-17 02:06:05

「世界の何だコレ!?ミステリー」が変わった訳(ヤラセの果てに)

テーマ:登山関係

<新たに判明したロケスタッフの悪行>

世界の何だコレ!? ミステリー」ファンは気づいていることと思うが、今年の春先位(初頭位だったかも)から「衛星写真で見つけた謎エリア」コーナーが殆ど放送されなくなった。放送されたとしても、目的地への「到達過程」の映像は流されず、目的地周辺のみの映像しか流されないようになった。

 

このようなスタイルになる兆候は今年初頭位からあった。ある回、冒頭で今回の目的地は比較的近い距離にある旨のナレーションがあったのだが、去年まで毎回、長時間かけ、悪戦苦闘しながら到達するスタイルだったことからすれば、違和感を覚えた方も多いだろう。

 

それ以降の回では、「到達過程」映像は3分位しか放送されなくなり、最後には全て放送されなくなった。このようなスタイルになったのは、去年起こった『世界の果てまでイッテQ』のやらせ騒動と当方のブログが関係しているのではないかと思えてならない。

 

去年、当方は番組側が言い逃れのできない数々の根拠を挙げ、「衛星写真で見つけた謎エリア」コーナーはほぼ100%大なり小なりのヤラセがある旨の記事を何度か投稿し、このままではイッテQの二の舞いになると警告を発した。

 

そしてある時期、それらの記事のアクセス数が上がったことがあった。このように明確な根拠・証拠を多数挙げ、同コーナーをヤラセだと断じた者はネットでは殆どいない(ように思えるが、検索できないだけかも知れない)

 

過去の当方の記事を閲覧していない方もいると思うので、再度簡単に説明すると、同コーナーでは、目的地に行くのに故意に最も遠回りになるコースを選び、直通のロングコースがない場合は、数キロ位離れた所でタクシーを降り、全然違う道を歩く等して、最低3時間以上かけて目的地に到達する「探検演出」という名のヤラセをしていた、ということ。中には本当は徒歩10分位で行けるコースしかない目的地もあった。

 

更に到達過程に於いて、「謎」の構造物があったような映像を流しても、その構造物の詳細を事前に知った上で、敢えてそこを通るルートを選び、目的地に行ったケースもあった。

 

番組でヤラセ疑惑が挙がると致命的で、最悪の場合、放送中止にもなり兼ねない。それ故、番組側ではヤラセ疑惑が表面化しないうちに、放送スタイルを変更したのではないだろうか。

 

ところで昨日、同コーナーでも取り上げられた高知県越知町横倉宮(下の写真の断崖裏)のある横倉山の南中腹に行ってきたのだが、去年、紹介したヤラセの「証拠」がまだ他にもあった。

 

その横倉宮もグーグルマップを拡大すると神社名が出ることや、最短コースで行けば30分で到達できること、サンシャイン池崎とロケスタッフが辿ったコースの起点等について、去年の記事で紹介したが(→「世界の何だコレ!?ミステリー」の横倉宮でのヤラセ)、更にロケスタッフはコース沿いの造林作業請負機関や地権者を愚弄するような発言をしていたことが判明した。

 

スタッフは敢えて悪路にタクシーを誘導し、地形図等には載っていない更に悪路の作業車道が右手に現れると、その道を上るよう、タクシー運転手に指示した。タクシーの車体や腹が傷つくこと等はお構いなしである。

 

タクシーの運転手がもうこれ以上走行できない旨言うとスタッフらはしぶしぶ歩き始めるが、行く手にトラックや重機が現れると理不尽に腹を立てた。

 

「こんな作業車等があると秘境感が出ないじゃないか!邪魔だから即刻、皆、どかしてくれ。」と。

なんたる身勝手か。人様の土地に勝手に入っておいて、映像の邪魔だから皆、どかせろとは一体何様のつもりか。なぜ造林作業者たちがヤラセの片棒を担がないといけないのか。

 

去年の記事では、番組が好きだからこそ、敢えてヤラセを指摘し、「真実の感動」を与える番組作りをしてほしい旨、綴ったと思うが、今日、それを撤回する。

雨上がり決死隊きゃりーぱみゅぱみゅもスタッフに注意してほしい、という方は次のバナーをプリーズクリック。

2019-06-13 22:23:59

偽龍馬の写真を撮影した丸亀藩士邸跡

テーマ:四国龍馬街道関連

矢野道場師範と疑惑の来訪者

10年以上前に得た情報だが、昭和後期、出版された坂本龍馬全集・改訂版(宮地佐一郎編著)に、文久元年(脱藩の前年)香川県丸亀市に於いて、矢野(市之進)道場指南役・原吉雄と龍馬、及び原敬なる人物と龍馬が写ったとされる2枚の写真が掲載されていた模様。

 

ただこの写真、龍馬研究家や龍馬ファンなら、そこに写っているのは「偽者の龍馬」だということが一目で分かる。龍馬とは顔の輪郭や顔つきが明らかに違うからである。

 

しかし高知市の龍馬研究会は機関紙の創刊号で、龍馬生誕150周年の「目玉研究成果」として、堂々と新たに発見された龍馬の写真ということで発表してしまった。今の龍馬研究会ならあり得ないことだが、会の草創期故の未熟さからくるものだろう。

 

龍馬研究会が赤の他人を龍馬だと断言した訳は、複数の原吉雄の一族子孫が二枚の写真に写る人物を龍馬だと証言している事実や、写真の裏書に「坂本龍馬」と明記してあったことによる。

 

原吉雄(一枚目古写真右側)についてはある程度明らかになっている。龍馬が文久元年10月に矢野道場(下の地図)に行った際の道場主・矢野市之進(古文献では「市之丞」と誤記)の跡を継いだ師範である。因みに市之進の子息は道場を継いでいない。

 

原敬については存在が文献上では確認できないが、吉雄の親類かも知れない。若しくはこの写真(焼き増し等)を何らかの方法で入手した原一族子孫以外の者が、「有名人写真」を捏造するため、「偽龍馬」と第19内閣総理大臣「偽原敬」が写った写真として、吹聴していたのかも知れない。

 

この二枚に写る三人は皆、ポーズや表情が同じ故、同一撮影者による撮影であることが分かる。撮ったのは丸亀藩士・百々主計とされている。幕末、長崎でオランダ人技師から撮影技術を習得している。帰藩してから明治期に「百々香影」という写真館をオープンした。

 

撮影時期は明治期だろう。それは原吉雄が道場の指南役の頃故。「指南役」は「師範」と同義。明治元年時、市之進はまだ38ないし39歳故、没した明治19年に吉雄が道場の最高指導者である師範になったとみるのが自然だろう。

 

百々主計は丸亀城の内堀沿いに屋敷を構えていた位だから、馬廻役クラスの上士だろう。藩費で購入した写真機を使い、明治になって写真館を開業したのではないだろうか。

百々邸跡(下の地図)には龍馬と会った矢野道場師範が訪れていることから、龍馬の間接的史跡と捉えることができよう。

 

百々主計邸跡は矢野道場跡から比較的近い場所にある。丸亀城北にある大手前中学・高校の正門周辺からその西の敷地にかけてが跡地。この斜め向かいの内濠の形状が特徴的だから同定はし易い(藩政時代後期の絵図の複製を所有しているため)

 

尚、矢野道場跡についてだが、数年前、地元のNPOが法務局に残る昭和28年当時の旧土地台帳を調べ、正確な跡地を同定している。

 

それによると、拙著や当ブログで紹介した跡地からは一軒半ほど北にずれており、三井住友海上丸亀ビルの地になっている。しかし法務局で跡地を同定する方法は今まで思いつかなかった。役所の個人の土地台帳は個人情報保護の観点から調べることは不可だが、法務局の企業関連の書類なら閲覧可能。

 

丸亀ビルの玄関右手(上の写真右側)にはそのNPOが設置した矢野道場跡の看板があるはずだったが、見当たらなかった。また、拙著で解説している幕末史跡(見付屋跡や村岡邸跡)以外の幕末史跡についても、そのNPOが公開しているもので看板が残っているものは一つだけだった。

 

矢野道場跡の所在地がずれると、当然、龍馬と交流したことが想像される土肥大作邸跡も北にずれることになる。丸亀ビル南の駐車場の南寄りからアットビルにかけてが跡地(上の写真)ということになる。土肥は藩の密命を受け、各地で尊攘派や佐幕派の情勢を伺っていた。

 

Ps:龍馬の生まれたまち記念館での当方企画によるコーナー展「四国に残る龍馬の伝承と無名史跡」、絶賛開催中。

コーナー展期間終了の7/19までには伺いたい、という方は次のバナーをプリーズクリック。

2019-05-27 01:59:02

坂本龍馬が渡った福島橋の欄干と常夜燈(丸亀市)

テーマ:四国龍馬街道関連

<坂本龍馬は福島橋を渡って遊郭へ>

以前、龍馬が文久元年10月、剣術詮議(修行)を名目に香川県丸亀市に旅立ち、その地の矢野市之進道場で試合をしたり、丸亀藩の勤王志士たちと交流していた頃、福島(現、丸亀市福島町)の遊郭へ通っていた、という伝承があることを紹介した。

 

明治40年まで、福島は三方を川や海に囲まれており、丸亀城下とは二つの橋で結ばれていた。その橋の内、城下の中心街に近いのは福島橋で、JR丸亀駅の東、モダン美容室と中島屋商店駐車場(2008年度版住宅地図による)の西側の道路箇所に架かっていた。そこを東西に旧西汐入川が流れていた。

 

福島は金毘羅船の船着場もあり、遊郭や料亭等が軒を連ね、たいそうな賑わいだった。城下からそれらの店に行く際は通常、福島橋を渡る。龍馬も幾度となく渡ったことだろう。

 

その龍馬も渡った福島橋の欄干の親柱が現存する。但し、明治期に架け替えられた可能性もゼロではない。そして龍馬も目にした船着場の常夜燈も同じ場所に移設されている。

場所は丸亀城内丸亀市立資料館の西側。ここには、市内各所から集められて移設された近世から近代の道しるべや丁石、道路元標、常夜燈、各橋の欄干等が所せましと並べられている。

 

福島橋欄干の親柱は大きいからすぐ分かる。「福島橋」の刻字の反対面には「汐入橋」と刻字されているが、これは福島橋周辺の旧西汐入川が埋め立てられ、河川の付け替え工事が完了した後、東汐入川の橋として転用されていたため。

 

船着場にあった常夜燈も大きいからすぐ分かる。これは文政13年に建立されたもの。

他に福島から移設されたものでは、金毘羅の玉垣講の石標がある。これは道しるべとして建てられたもの。

 

その背後に写る多重石塔は、四国龍馬街道の拙著で解説した見附屋の庭にあったもの。豊島石で造られている。

他にも同書で触れた陸軍連隊の陸軍省所轄地標柱や第十中隊碑もある。

 

これを探訪した日は、矢野市之進の墓所や以前触れた、「偽龍馬」と矢野道場の指南役が写った写真を撮った藩士邸跡、戊辰戦争時の土佐軍関係地、民間のコンクリート防空壕等、各種史跡を巡ったので、機会があれば史跡ウォーキング記事として投稿したい。

その記事を期待する、という方は次のバナーをプリーズクリック。

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2019-05-21 01:03:01

坂本龍馬は脱藩初日の早朝、北奉公人町にいた

テーマ:四国の真・坂本龍馬脱藩の道関連

元リーダーズダイジェスト編集長夫人の先祖が

これまで何度か具体的根拠を挙げ、坂本龍馬脱藩初日(文久2324)の夕方に自宅を発ったという説や、一旦、高知市神田の和霊神社に参ってから西へと進んだとする説を否定してきた。

 

一番の否定の根拠は何度も説明してきたように、そんなことをしていたら、25日の夜半までに梼原町の那須信吾邸に着かないからである。

 

更に有力な否定の根拠を何年か前に知った。それは脱藩初日の早朝、日根野道場で龍馬と共に剣術の腕を磨いていた藤戸龍太の親族やその近所の人々に、龍馬は見送られた、という伝承。龍太らは龍馬なら土佐、いや、日本を変えてくれると思っていたのかも知れない。

 

この伝承は代々藤戸家に伝えられてきたものだが、子孫の中には有名なマスコミ関係者もいた。それが元リーダーズダイジェスト日本版編集長・福岡誠一氏の夫人・光子氏やその父で元高知新聞編集局長の藤戸達吾氏である。

 

幕末期、藤戸家は高知城下の北奉公人町にあり、瓦屋を営んでいた。北奉公人町は現在の高知市の電車(土佐電鉄)通りから北側の上町1丁目から3丁目までの区域にあたる。

 

藤戸家の具体的な場所を調べるにあたり、まず参照したのは、天明8(1788)に作成された「上町分町家名附牒」である。この資料には上町の五つの分町が記載されてあり、ここに北奉公人町も属している。その名の通り、元々は下級武士に奉公する人々が多く居住していた町だった。

尚、後に上町には日根野道場があった「築屋敷」地区も加わる。

 

名附牒は住宅地図の人名版とでもいうべきもので、通りや筋沿いに当該家の当主名が家の並び順に記載されたもの。地図ではないものの、人名と人名の間に空間があれば、そこが道だということが分かる。

 

しかしこれに藤戸家は記載されていなかった。つまり、藤戸家は藩政時代中期にはまだこの地にはなかったことになる。

そこで今度は大正15年に東京商工リサーチの前身、商工社調査部が発行した「高知市街図」を調べた。

 

これは国内の主要市街地の商店や会社を網羅した「商工地図」の一つで、見た目は「業者の住宅地図」という趣。しかしこれにも藤戸という名の付く会社や瓦屋は記載されていなかった。つまり、藤戸家は藩政時代後期に北奉公人町に移転してきて、明治から大正時代に転居したことになる。

 

転居先の手掛かりになったのは、藤戸達吾氏の経歴である。彼は明治5年の安芸市の出身だが、「高知県人名事典」には「のち安芸の瓦製造・藤戸家の養子となって帰郷」とある。藤戸家は明治ないし大正時代、安芸市に移っていたのである。

 

藤戸家の子孫に窺えば、高知市の住居跡もある程度分かるかも知れないが、現在、安芸市で瓦屋を営む藤戸家はない。佐川町の山口彦作邸跡を調べた時のように、地元の市議会議員に探して貰う手もあるが、コネがない。

 

彦作邸跡時の議員の場合は、彦作の伝承を知ってから何年も経って偶然、間接的コネができたが、今回も何年か経たないと住居跡発見には至らないかも知れない。

                 <参考文献>海援隊遺文(山田一郎氏著)

PS:昨日から龍馬の生まれたまち記念館で当方の企画によるミニコーナー展「四国に残る龍馬の伝承と無名史跡」が開催されている。読売新聞高知版で一両日中に報道される模様。

何とか北奉公人町の藤戸家跡発見に尽力して貰いたい、という方は次のバナーをプリーズクリック。


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2019-05-12 13:54:23

鳥居のトンネルと謎の隧道(八幡浜市・愛宕山)

テーマ:登山関係

<三方向の鳥居トンネルと謎の広場への隧道>

愛媛県八幡浜市の中心市街地随一の展望を誇る貯水タンクの上が展望台になっている愛宕山(山域名)。この南の尾根側からの登山道は最初、階段になっているが、階段口は二ヶ所あり、それぞれの上り口から、規模は小さいものの伏見稲荷のような朱色の赤い鳥居が連なっており、「鳥居トンネル」と化している。

 

その二方向からの参道が合流して以降も鳥居トンネルは続くが、その先、右手の尾根に小さな隧道が開いている。それを抜け出た先の広場は、もしかすると旧愛宕山玉照院跡かも知れない。

 

二方向からの参道が合流してから、鳥居トンネルは愛宕神社や将八大明神の祠へと続いているが、更に小径は愛宕山の尾根へと通じている。

 

この二つの登山口(上の地図は記事で説明する方)へのアプローチは、八幡浜市民以外にとっては分かり辛いかも知れない。

まず、国道197号の愛宕山トンネル北の大平交差点を西に折れる。そしてすぐ左手に現れる一方通行道路に入る。

 

少し進むと一方通行道より広い道路が左手に分岐するので、これに入る。もしかして介護老人保健施設・西安の看板が建っていたかも知れない(建っていなかったかも)。後はこの道路を道なりに進んで行く。

 

テニスコート手前の十字路もそのまま直進する。そしてこの道路の終点辺りの路肩に駐車する。二ヶ所の鳥居トンネル参道口は近接しているが、時報塔北側の上り口からの方が鳥居の数が多い。

 

2分も登れば、もう一方からの鳥居トンネル道と合流するが、ここは三方向に鳥居トンネルが分かれる箇所(上の写真)。その少々先、右手にいきなり隧道が開いている。背を少しかがめて歩ける程度なので、大きさ的には水路隧道程度。

 

隧道を抜け出た先には草地の広場があるが、明らかにかつて何かの建物があったことが想像される。しかし道路沿いに隧道を掘るのなら分かるが、小径しか通じていない箇所に隧道を掘る必要性があるのだろうか。この尾根にしても数十秒で越えられる。

 

この日、時間があまりなかったから愛宕神社(別の名称だったかも)や将八大明神には寄らず、そのまま上方の尾根を目指した。

辺りが草地のヤブになると、踏み跡もヤブに覆われ、短靴だと気持ち悪いが、ほどなく作業道のような道に出た。この道は尾根上を通っている。

 

再び普通の尾根道になり、樹林の向こうの木の間に巨大な貯水タンクが見え隠れすると、タンク手前が倒木等でヤブ化していた。どうやらこの遠回りルートで貯水タンク上の展望台まで来る者は殆どいない模様。

 

貯水タンクの北側と西側はソメイヨシノが咲き誇っていた。実は愛宕山周辺には約300本の桜があり、八幡浜屈指の桜名所になっているのである。しかし市民以外で知る者はあまりいない。

 

タンクの東側には何層にもなった階段のみの「階段塔」とでもいうものがある。この塔の最上部がタンク上の展望台へと繋がっているのである。

 

八幡浜港が見渡せる場所には一組のハイカーが弁当を広げていた。いや、この山の最短コース(市民がよく利用している復路)は距離が短いから、ハイキングにもならないか。

 

復路は南西に下り、前述のテニスコート東側へと下り立つ。すぐ先にはトイレもある。駐車場所へは道なりに道路を進むのみ。

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