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2017-10-16 01:04:03

大洲市河辺町の滝巡り(2)三久保の滝

テーマ:素晴らしい景勝地と史跡

[巨大岩壁下流の滝]

蛇渕から県道56号を2キロ少々上がると谷を渡る右急カーブになるが、この谷の上流に三久保地区の滝「三久保の滝」が懸かっているので、カーブ路肩に駐車する。

 

谷の右岸(西岸)の踏み跡を辿る。6月時にはユキノシタの群落があった。

数分から10分ほどだったと思うが、谷に段々の滝が懸かっているのが見える。滝と言えるのは二つほどだが、上の滝には沢登り装備がないと厳しかったと思う。この辺りの沢幅は狭く、どの滝も落差は10m未満だが、木漏れ日の差す沢は気持ちいい。滝壺も猫の額ほど。

 

滝より上流沿いの踏み跡は薄い箇所もあったかも知れないが、渡渉地(左岸に渡る箇所)付近に大岩があり、対岸を登って行くと見上げるほどの巨岩群や岩盤が現れる。

踏み跡を登り詰めると県道をショートカットする形となり、大師堂に着く。

 

滝や巨岩群の上に堂宇が建立されていることは多々あるので、ここの大師堂もそういう山岳修行に適した環境だったため、建立されたのだろう。因みに大師堂は谷を挟んだ向かいの市道沿いにもある。

 

蛇渕南の出合地区の三差路まで引き返し、対岸に植松滝、県道沿いに大洲市役所河辺支所を過ぎ、緩い右カーブを越えると河辺町植松と大洲市肱川町山鳥坂との境界に到るが、そのやや手前の対岸に橡の木瀬滝が懸かっている。崖に懸かっており、上部は木々が邪魔で見えないため、どれ位の落差なのかは分からない。

 

河辺支所では探訪ルートは未調査だが、下流の本願寺から対岸に渡り、川沿いの道を遡り、途中から木々に掴まりながら下りることができるかも知れない。

この日は地元観光協会と共に沢山の滝を観光資源として活用できるか否か、ということで見て回ったが、次回からもある程度の見応えのある滝のみ、紹介して行きたい。

 

見応えのあるなしに関係なく、全ての滝を紹介してほしい、という方は次のバナーをプリーズクリック。

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2017-10-11 00:32:20

希望の党が犬猫殺処分ゼロに+観音寺市の野良猫名所(1)

テーマ:動物

[琴弾公園・巨石付近の「笑い猫」]

希望の党は公約とは別に将来実現させる政策として「希望への道しるべ~12のゼロ~」を発表した。隠ぺいゼロや満員電車ゼロ、花粉症ゼロと共に注目すべき政策がペット殺処分ゼロ。私も前から殺処分ゼロにするための有効な方法論と施設(「完璧な」動物愛護センター)を考えており、それが高知県にあればいいと思っているが、自民党政権下と県の経済優先主義では叶うことはないだろう。

 

私の方法論は後述するとして、今回は県外、香川県観音寺市の野良猫名所を紹介したい。それは以前、江甫草山防空監視哨跡(→江甫草山防空監視哨跡(観音寺市))の記事で触れた有名観光地・琴弾公園である。

 

琴弾公園は「日本の地上絵」銭形砂絵(上の写真は真横から見た所)が有名だが、公園駐車場(下の写真)付近や園内の東屋、その駐車場と琴弾八幡宮との中間にある琴柱池北の山際等で野良猫を見かけることが多い。公園駐車場は結婚式場を擁するホテル前にあることから、餌場は設けていないにしろ、野良猫は周辺住民に可愛がられているのだろう。

 

防空監視哨跡の記事でも紹介した琴弾山の天狗山展望台へ到る九十九曲道登山口北側にも東屋風の「山口井戸」があり、一才未満と思われるキジトラ(下の写真)がいた。山口井戸は大同年間(806~810)、弘法大師空海が観音寺の住職時、地域住民が旱(ひでり)続きで水不足に悩んでいたため、掘ったもの。

 

山口井戸から西側の芝生区域にも白猫がおり、餌をあげている間は触らせてくれた。

住宅地図には山口井戸方面への道と駐車場への道との三差路のやや手前に「獅子の口岩」が表記されているが、道路が二車線化された際、消滅した模様。以前紹介した三重県の「東洋のスフィンクス」のようなものだったのだろうか。

 

琴柱池は中央の島が両岸の橋で繋がれた景観の優れた場所だが、ここに顔が常に笑っているように見える猫がいた。当初は当方のことを警戒していたが、その北側の山際にいた猫たちに餌をやっていると近寄ってきて、撫でさせてくれた。やはり笑顔の似合う猫に悪い猫はいない?岩合光昭氏に撮りに来て欲しい。

 

ところで、その猫たちが歩いていた山際のコンクリート縁の東方には巨石「問答石」がある。複数の大石や岩からなるもので、ピラミダルな岩塔がある他、注連縄が掛けられている石は岩から分離して立岩となっている。

琴の音を出す小船に乗った宇佐大神と神宮寺の日證住職が問答を行った石だと言われている。

 

巨石はこれだけではない。問答石東の琴弾八幡宮境内に建つ山之神神社社殿右側にも屋根ほどの高さの立石がある。この石、不思議なことに下部に穴が貫通している。この石は見る角度によって形が変わるが、背後に回るとガメラに出てくる怪獣・ギロンのように見える。

 

また、前述の記事では源義経が琴弾八幡宮に奉納した「木乃鳥居」も触れたが、それは次のようなことによるもの。寿永4年の屋島合戦時、平家軍の総大将・平教経は劣勢を挽回すべく、伊予の大洲城主・田口教能が率いる一千騎が到着すると源氏軍を海と陸から挟み撃ちにする作戦を企てていた。

 

しかし義経は夢での暗示からこの作戦計画を知る。そこで側近の伊勢三郎義盛に、教能が屋島に到着する前に接触し、進軍をやめるよう説得させることにする。三郎は万が一説得に失敗した際は討死する覚悟で、鎧の下に死に装束を着込んで浜沿いを走った。

 

三郎は琴弾山で教能軍と出会い、教能と十王堂で会談し、平家軍は大敗し、教能の父・重能も降参した旨、説いた。この嘘を真に受けた教能は軍を解き、源氏の軍門に下った。このことにより、屋島合戦は源氏軍の勝利となったのである。三郎が説得に失敗していたなら、歴史が変わっていたかも知れない。上の写真と下の地図が木乃鳥居。

 

前述記事では琴弾山と東麓の四国霊場を回遊する独自に見出したコースを紹介したが、69番札所・観音寺から道路を北西に進み、根上り松から興昌寺山(山上に古墳)と興昌寺を回遊後、観音寺中学校から銭絵に出ると歩き甲斐のあるコースになる。根上り松は根元が男根(包茎)のようになっている。

 

さて、冒頭で触れた殺処分ゼロにするための方策だが、高知県には動物愛護センターがないので、まずそれを造る。現存の施設では乳飲み子猫は即日殺処分しているが、そういう子猫を育てるため、小動物看護士資格を持つ職員を常駐させると共に動物保護のNPOやボランティア等と協力し、乳飲み子猫を育てる体制を作る。ボランティアの取り纏めはNPOに委託してもいいだろう。生後二ヶ月位まで育てるのは重労働となるため、ボランティアは有償として費用は県が支出する。

 

野良猫犬を増やさないため、ペットを捨てた飼い主には罰金として15千円支払わせる。支払いを拒めば預金等を差し押さえる。そして密告通報制度を取り、ペットを捨てた飼い主情報を報告した者にはその15千円の内、5千円を謝礼金として支払う。

当方が望むのは、この世から野良猫スポットがなくなり、全てのペットが幸せな生涯を送ることができる世界である。

 

PS:最近、観音寺市内で第二、第三の「香川のウユニ塩湖」(幻想的な鏡面の水面)を見出した。しかし大潮や中潮の干潮時は不適のため、どのような引き潮時が適しているのか考察中。正月に何日か泊って確認しようと思う。適期が判明すれば観音寺市の観光の目玉になることだろう。

 

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2017-10-03 02:53:27

山中でコンクリート壕を発見!(南国市)

テーマ:大日本帝国の秘密基地

[戦争遺跡・かまぼこ型壕と素掘り壕群]

拙著等で米軍は昭和201030日、鹿児島県南部から本格上陸する(111)前の陽動作戦として、高知県に上陸する計画を立てており、日本軍もそれを察知し、高知海軍航空基地の西方の山並みに縦深に陣地を築いていたことを述べた。

 

拙著では最も海岸に近い琴平山陣地、ブログでは秋葉山の片山トーチカ群、ヤマケイサイト投稿記事では大森山から蛸ノ森(147m)周辺尾根の陣地について解説した。未探訪だが、海軍向山高角砲陣地へ通じるルート沿い北側の森にも陸軍陣地があることを机上で確認している。

 

琴平山と蛸ノ森から北東に伸びる尾根に挟まれる形で、50m(当方は勝手に「タンク山」と呼称)を中心とする山塊がある。当然この山塊にも多数の陣地が構築されていることが予想されるが、陣地構築のセオリーから言えば、横穴陣地等を掘るなら、東方に開ける谷部である。よって、二ヶ所の主要な谷を調査し、南側の谷沿いにかまぼこ型のコンクリート壕を発見した。

この壕に一番近い連隊本部は、蛸ノ森に近い御旗山で軍旗を奉焼した陸軍第12連隊である。

 

蛸ノ森トンネル工事前の公的機関による自然生態調査に於いて、調査員からかまぼこ型のコンクリート壕があった旨の報告を受けたことがあるが、トンネルが通る尾根からは離れているため、今回の壕とは別だろう。

 

[コース]

南国物流団地北端の十字路を西に折れる。突き当たりには野尻公民館があるが、この西の歩道と立入禁止の私道を合わせた四差路が上り口(下の地図)である。付近に駐車スペースがないため、当方は物流団地内の適当な路側帯に駐車した。

北方の山口団地から南下する方が近いが、駐車場所に苦慮するのではないかと思い、逆側から北上した。

 

コースは前述の歩道を北西に進む。最初の谷の分岐では北に進むが、その最初の谷にも無数の横穴壕や塹壕が掘られている。

次の谷の分岐には小屋が建てられているが、この小屋沿いの小径を西進すると支流の谷(水流はない)が左手に分かれ、そこからかまぼこ型壕が見えている。

 

因みに当方は最初、この谷にコンクート壕があることは知らなかったため、小屋の分岐のすぐ北の四差路を北西に登り、谷沿いの壕群を巡った後、稜線に上がり、タンク山のタンク前身の貯水槽跡から若宮八幡のピークへ登った後、タンク手前のY字路を南西に進み、タンク南方尾根から前述の最初の谷に下り、各所の壕を確認後、小屋から西の道に入った。勿論、コンクリート壕の存在は知らずに入山したため、支尾根の上り下りを繰り返し、3時間ほど経ってようやく「目ぼしい戦争遺跡」を発見するに至ったのである。

 

かまぼこ型壕近くの道は不明瞭だが、手前には兵舎か何かの基礎(下の写真)が残っている。壕の扉(木製か鉄製かは不明)は終戦時の需要で、地元民が持ち去ったのだろう。壕内は以前紹介した須崎市の山崎鼻トーチカ程度の広さで、西側側面上部に銃眼のような形状の小窓、天井には排気孔が開いている。四角いオイル缶のような残骸が残っているが、これが戦時中のものか否かは定かでない。物資保管壕なのか退避壕なのかも不明である。

踏み跡は奥へと続いているが、当然その奥にもいくつも素掘り壕がある。

 

ところで話は変わるが、県内の戦跡調査をしている主な施設・団体としては、平和資料館・草の家の他に、南国市の高知県立埋蔵文化財センターがあった。担当者は現在の草の家の出原副館長である。60歳で定年を迎え、草の家副館長になったのだろう。

 

実はこの人物も草の家の戦跡研究員同様、嘘の理由をつけて戦跡の場所や資料を公開しようとしない。彼と初めて会ったのは2006年の草の家での戦跡勉強会だった。当時は前述の戦跡研究員は「表」に出てきておらず、当方はその存在を知らなかったため、時折、草の家へ出向いていた。

 

その勉強会後、出原氏に土佐市の新居城跡の陸軍陣地(下の写真・拙著収録)の場所を尋ねた。幕末の新居砲台跡を調べる過程で、地元に於いてこの情報を得ていたからである。当方は当時、県森林局が立ち上げて民間に委託していたあるブログサイトのブロガーであり、戦争遺跡や廃線跡、登山等の記事を投稿していた。

 

出原氏には「県内の戦跡の詳細を公開している書籍やホームページが少ないため(当時)、当該地域の歴史を後世に伝えていくためにも、未公開の戦跡を発掘していきたい」旨、伝えたのだが、なかなか教えてくれない。

 

あまりにも頑なに答えてくれないため、三度目に尋ねた時、「詳しい場所はいいから、塹壕(上の写真)がある尾根だけでも教えて戴きたい」と言うと、出原氏は面倒臭そうに「あ~もう!ここ、ここ」と地図を指した。

 

それから8~9年後、「高知市民大学」の講義で講師だった出原氏(当時は埋蔵文化財センター勤務)に、講義での質疑応答時、宿毛市鵜来島の海軍防備衛所の資料(出原氏が東京で入手)について閲覧させて戴きたい旨、申し出ると、いきなり挙動が可笑しくなり、「し、資料はどこかに紛失して分かりません」と答えた。当方は’90年代、探偵・調査業を行っていたから、このような嘘はすぐ分かる。

 

その嘘の証拠が今年の高知新聞の記事である。防備衛所の資料を紛失したと言っていた出原副館長が鵜来島へ調査に行っていたのである。つまり、資料は紛失しておらず、きっちり保管していた訳である。

前述の戦跡研究員と言い、この副館長と言い、なぜ高知県の著名な戦跡研究家は皆、嘘までついて戦跡を公開せず、戦跡の普及を阻害するのか。なぜ後世に伝えようとしないのか。そこまでして自らが調査した戦跡を自分だけのものにしたいのだろうか。

 

その戦跡研究員は民間人だが、出原副館長は当時、県立施設の職員である。埋蔵文化財センターのような生涯学習に関わる施設は博物館や教育委員会同様、リファレンス業務は職務の一つである。それについて虚偽を言ってまで行わない、というのは職務怠慢にほかならない。

高知県の戦跡普及活動は私が一人で行わなくてはならないのだろうか。

 
PS:以前投稿した須崎市の特攻基地の取材記事→元通信兵が須崎市の旧海軍基地跡を70年ぶりに訪問

 

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