自然、戦跡、ときどき龍馬

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2018-06-17 21:52:48

坂本龍馬が訪れた幡多郡奉行所

テーマ:龍馬と志士らの街道

[坂本龍馬の逸話を伝えた文筆家]

過去何度も触れた、嘉永3年の龍馬が16歳時、高知県四万十市の四万十川堤普請の現場監督補佐として出張した際の伝承地についてだが、「龍馬昼寝の松跡(並松)」の他にもう一つある。幡多郡奉行所内の「御普請方」である。

 

幡多郡奉行所はかの幡多勤王党首領・樋口真吉も下役として勤務していた藩の出先機関。その奉行所内で真吉と龍馬が出会ったという説もあるが、これは誤り。記録では真吉が幡多郡奉行所下役を仰せつかったのは嘉永7213日付となっているからである。

 

御普請方とは今でいう役所の土木課で、五人の組頭級役人が担当していた。堤普請で出向いた龍馬とその同行者、島文左衛門は当然、着任の報告の他、中村滞在中は何度か顔を出すことになる。

 

嘉永3年時の真吉の記録については、119日に長崎から帰国したこと位だが、弘化2年から真吉は幡多郡奉行所に附属させる藩校「文武館」の建設に奔走していた。文武館が開校したのは安政268日で、真吉は文久元年、稽古世話役兼教授方証拠役となっている。真吉の弟・樋口甚内も剣道指南役に就いていた。

文武館はその後、「敬止館」と改称。明治になると「行余館」となり、明治5年、学制発布により中村小学校となった。

 

幡多郡奉行所跡の一角、中村拘置支所前に奉行所跡碑が建立されているが、跡地は北側の中村中学・高校の校地にも及んでおり、拘置支所宿舎南側に奉行の役宅があった。

その南方の菊池産婦人科駐車場に行余館跡碑(上の写真と下の地図)が建てられているが、跡地は郵便局車両駐車場、中村招魂社、中村大神宮境内にも及ぶ。真吉邸跡はそこから南に徒歩数分の所にある。

 

ところで以前、龍馬のこの幡多での現場監督補佐伝承について、大正3年に発行された千頭清臣著「坂本龍馬」に記述されている文章「工夫(土木作業員)、龍馬が人を役するの妙を賞して曰く『坂本の旦那に使はるる時は何の苦も無く仕事が運ぶ。其の代り、仕事終はれば、疲憊して五体が効かぬ。』」を紹介したのではないかと思うが、この口碑を世間に広めたと思われる人物が判明した。

 

龍馬の生まれたまち記念館の学芸員の方から教示された資料、昭和421021日の南国新聞にも同様の記述があった。それは文筆家の丘佐喜子(本名・岡崎輝)が故郷の中村について綴った随筆の中にある。小さい頃、母や伯母から聞いた話として、前述同様の人夫の言「どうも坂本さんに使はれると、いつのまにやら平生の二倍三倍働いちょる。」を載せているのである。

 

但し、佐喜子の母・小野英子(ふさこ)は嘉永4年の生まれ。伯母も嘉永3年時は幼少のはず。これは英子やその姉が父親から龍馬の逸話を聞かされていた、と解するのが自然。その父は真吉に従って各地を飛び回り、国事に奔走していた志士でもあったことから、後に有名になった龍馬が若かった頃の伝承を娘たちに聞かせたのだろう。英子の夫・小野道一はその志士の門弟であり、真吉の道場(上の写真)にも通っていた。

 

この父、実は京に於ける幕末のあるヒーローを捕らえて斬首する決定を下したのだが、そのことはまた後日投稿したい。

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2018-06-12 23:22:35

丸山島エンジェルロードと海食洞群(三豊市)

テーマ:洞穴や隧道(廃線や戦跡を除く)

[海辺や山の斜面に海蝕洞が]

以前、香川県三豊市の荘内浦島太郎伝説記事で紹介した、太郎が亀を助けた鴨之越の弁天の浜対岸にある、干潮時に陸続きになる(小豆島に倣って「丸山島エンジェルロード」と仮称)丸山島だが、そこにはいくつかの海食洞や深い峡谷的海食切通しもある。それらを「丸山島海食洞群」と仮称する。

 

その海食洞の中には、洞を抜けると波打ち際に出るものもあるが、2006年、男子プロゴルフツアー「第26回カシオワールドオープン」に参加後、高知県香美市の龍河洞を探勝したミシェル・ウィーも自身のTwitterに同様の海食洞奥の海浜での水着写真を公開している。海食洞はインスタ映えするジオスポットでもあるのである。

 

去年大晦日に丸山島を訪れた際は干潮時刻に近接した時間帯だったため、潮が引き過ぎ、「エンジェルロード」と言うよりは「エンジェル磯」という様相だったのだが、先月は干潮時刻の3時間から4時間ほど前に訪れたため、陸続きの道が9割方完成した状態で、完全な陸続きにはなっていなかった。

 

完全な陸続きになるまで、丸山島の北にある「詫間の二見ヶ浦」こと、弁天島(上の写真の左)周辺を探訪していた。但し、和歌山の橋杭石的岩塔群はあるものの、本家二見ヶ浦の象徴「夫婦岩」に相当する岩はない。それでも景観は良い。

 

「詫間の二見ヶ浦」は干潮時、陸続きとなる弁天島を中心とした磯や海食岩塔群。弁天島は1分以内で登頂でき、頂上には弁財天が祭られている。島の横には三基の岩塔があり、本土側の海崖は海食され、猛獣が口を開けたような形の場所もある。

 

弁天島(下の地図)から丸山島を見ると、県道から見下ろすなだらかな尾根の島とは全く様相が異なり、島の北側は海食によって大きく削られ、荒々しい岩肌を晒している。そして龍王宮(明神社横の通称「浦島神社」)奥の海辺には海食洞も見えている。実は大晦日に探訪した時は、途中で雨や雹が降ってきたため、海蝕洞群や海食切通しを探訪できずに切り上げていたのである。

 

弁天島から見た際は小さく思えた龍王宮奥の海食洞は、少し背をかがめて入ると内部は天井が高くなっていた。三角テント型洞を抜け出ると波打ち際に出るが、そこの左上には以前紹介した、室戸ジオパーク内にいくつかあるミニ海食洞門のような洞門もある。

 

そこから海食洞入口に引き返すと、その左手には以前紹介した土佐清水市尻貝の浜の塹壕型海食通路の何倍も巨大な涸れ峡谷的海食切通しがある。海食洞よりこちらの方が、記念写真を撮るならインスタ映えするかも知れない。

 

この海崖の海食切通しは少し進むと尻貝の浜のように、右に急カーブして波打ち際に出る。その右手にはさきほどのミニ海食洞門があるが、その下にも人はくぐれないものの、小さな海蝕洞が開口している。

 

そこから更に奥へ磯伝いに行ったものの、水辺には海食洞はなかった。しかし少し進んでふと斜面を見上げると、磯より10m弱ほど高い所にも海食洞(下の写真)があった。残念ながら急勾配で且つ、ザレ場のため、普通の靴では登れない。

 

太古はそれだけ海面が高かったのか、はたまた島が隆起したのだろうか。尤も以前紹介した徳島県の津乃峯のように、標高100m以上の所に海食洞が存在するケースもある。西日本最高峰の石鎚山も太古は海底だったという説もある位。

 

ところで以前、三豊市観光交流局はサイトで丸山島の陸続き道の愛称を募集していたが、ローレライ・ロードやマーメイド・ロードはどうだろうか。はたまたガーディアン・ロード、プリティガーディアン・ロード等。因みに「プリティガーディアン」はセーラームーンの「美少女戦士」の英訳でもある(?)

 

しかし三豊市観光交流局はサイトで丸山島を紹介しているにもかかわらず、なぜこれら海食洞群を紹介しないのだろうか。市内の各展望山や陸軍の新浜砲台、各地の海軍機銃陣地、横穴壕等の戦争遺跡も同様。

三豊市の未投稿の戦争遺跡記事も投稿してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック。

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2018-06-11 01:48:14

陸軍六ヶ峯山砲壕と丸亀藩斥候所(三豊市)

テーマ:大日本帝国の秘密基地

[対空監視哨跡と八丁山台場の斥候]

以前、香川県三豊市詫間町の荘内半島の浦島太郎伝説記事に於いて、太郎が亀の分骨埋葬所(浦島神社こと大空龍王宮)前で竜宮踊りを村の子供たちに教えていたことを説明したが、その側の太郎も越えた箱峠は八丁山(207m)と六ヶ峯(146.2m)の登山口でもある。

 

八丁山は半島最高峰の紫雲出山登山道(四国のみち)の中腹にあり、中世、海崎備前守元村が海崎城(新田城)を築いていた。ここに幕末、丸亀藩が「箱三崎(海崎)台場」(八丁山砲台)を築造したとされる。

 

但し、城跡の堀切や郭、井戸等は確認されているものの、台場の痕跡は判然としないという。それもそのはずで、標高207mというとあまりにも高所過ぎて、幕末の大砲では海まで届くか否か疑問。

現在、山上はヤブの密林でヤブ漕ぎ装備なしでの探訪は困難。ただ、前述の井戸の中には金の杯があると言われており、それを持ち出すと激しい腹痛に見舞われるという。

 

一方、箱峠を挟んで相対する尾根の六ヶ峯には、享保5(1720)の藩主の巡視時、台場の斥候所が置かれたという。しかし享保年間に台場関連施設が設置されるのはあまりにも時期が早いため、参考文献(旧詫間町の公的機関の冊子)自体の誤記かも知れない。

 

その文献には太平洋戦争中、斥候所跡に防空監視哨があった旨の記述があるが、地元の聞き取りでは、生里集落側の山に山砲を据えていたという。生里で一番高い山は八丁山だが、六ヶ峯の方が集落に近い。戦前は展望も優れていた。そこで高知市の陸軍鷲尾山砲台のように、六ヶ峯は対空監視哨と山砲がセットになっているのではないかと睨んだ。

 

六ヶ峯の南の尾根には、箱集落から四国のみちが上がってきて横断しているが、車の場合は八丁山登山時同様、箱峠の紫雲出山登山口前広場に駐車する。尚、この広場は元々展望所だったのだが、現在はヤブで何も見えない。

 

峠の南から林道が北西に上がっているのでこれに入る。すぐ分岐があるが、車止めチェーンの張られた道を行く。

四国のみちの横断分岐を過ぎると左手に電波塔群が現れるが、一番奥の塔辺りに井戸と方形竪穴壕が並んでいる。陸軍の発電施設壕と冷却用井戸だろうか。

 

塔群を過ぎると道が狭くなり、荒れ気味になるが、尾根の西下にヤブ化した往還のようなものが見える。これは斥候所設置の際、整備された登山道かも知れない。

 

やがて踏み跡は不明瞭になり、所々ヤブも現れるが、赤テープも設置されている。三角点踏破マニアだろうか。

地形図(六島)の破線は尾根の勾配がきつくなると尾根を南西に逸れて行くが、そのまま尾根を上がる。

 

山頂の手前には尾根を塹壕が横切り(上の写真)、一部が崩れた低い石垣がある。現在は土砂の堆積で、山頂の北と南に湾曲した石垣が見える程度だが、この石垣は本来、円形に築かれているという。

山頂には三角点とヤブがあるのみで、対空監視哨跡の痕跡は見当たらない。

 

が、先程の塹壕を北東に下ってみると、そこには直径数メートルの竪穴壕(上の写真)があった。この形状と規模から言えば、これが山砲壕だろう。塹壕は監視哨と繋がっていることから、監視哨は山砲の観測所の役目も果たしていたことが分かる。

山砲壕上の斥候所の石垣が崩れているのは、この壕を掘った際の地盤沈下によるものか、或いは昭和21年の南海地震によるものだろう。

 

下山後、父母ヶ浜に寄るはずだったが、太陽がウロコ雲に隠れていたことから、それを取りやめ、以前解説した、浦島太郎のある伝承地に再び行ったのだが、そこには前回探訪時には気づかなかった奇勝群があった。それは後日投稿したい。

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