自然、戦跡、ときどき龍馬

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2019-05-21 01:03:01

坂本龍馬は脱藩初日の早朝、北奉公人町にいた

テーマ:四国の真・坂本龍馬脱藩の道関連

[元リーダーズダイジェスト編集長夫人の先祖が]

これまで何度か具体的根拠を挙げ、坂本龍馬脱藩初日(文久2324)の夕方に自宅を発ったという説や、一旦、高知市神田の和霊神社に参ってから西へと進んだとする説を否定してきた。

 

一番の否定の根拠は何度も説明してきたように、そんなことをしていたら、25日の夜半までに梼原町の那須信吾邸に着かないからである。

 

更に有力な否定の根拠を何年か前に知った。それは脱藩初日の早朝、日根野道場で龍馬と共に剣術の腕を磨いていた藤戸龍太の親族やその近所の人々に、龍馬は見送られた、という伝承。龍太らは龍馬なら土佐、いや、日本を変えてくれると思っていたのかも知れない。

 

この伝承は代々藤戸家に伝えられてきたものだが、子孫の中には有名なマスコミ関係者もいた。それが元リーダーズダイジェスト日本版編集長・福岡誠一氏の夫人・光子氏やその父で元高知新聞編集局長の藤戸達吾氏である。

 

幕末期、藤戸家は高知城下の北奉公人町にあり、瓦屋を営んでいた。北奉公人町は現在の高知市の電車(土佐電鉄)通りから北側の上町1丁目から3丁目までの区域にあたる。

 

藤戸家の具体的な場所を調べるにあたり、まず参照したのは、天明8(1788)に作成された「上町分町家名附牒」である。この資料には上町の五つの分町が記載されてあり、ここに北奉公人町も属している。その名の通り、元々は下級武士に奉公する人々が多く居住していた町だった。

尚、後に上町には日根野道場があった「築屋敷」地区も加わる。

 

名附牒は住宅地図の人名版とでもいうべきもので、通りや筋沿いに当該家の当主名が家の並び順に記載されたもの。地図ではないものの、人名と人名の間に空間があれば、そこが道だということが分かる。

 

しかしこれに藤戸家は記載されていなかった。つまり、藤戸家は藩政時代中期にはまだこの地にはなかったことになる。

そこで今度は大正15年に東京商工リサーチの前身、商工社調査部が発行した「高知市街図」を調べた。

 

これは国内の主要市街地の商店や会社を網羅した「商工地図」の一つで、見た目は「業者の住宅地図」という趣。しかしこれにも藤戸という名の付く会社や瓦屋は記載されていなかった。つまり、藤戸家は藩政時代後期に北奉公人町に移転してきて、明治から大正時代に転居したことになる。

 

転居先の手掛かりになったのは、藤戸達吾氏の経歴である。彼は明治5年の安芸市の出身だが、「高知県人名事典」には「のち安芸の瓦製造・藤戸家の養子となって帰郷」とある。藤戸家は明治ないし大正時代、安芸市に移っていたのである。

 

藤戸家の子孫に窺えば、高知市の住居跡もある程度分かるかも知れないが、現在、安芸市で瓦屋を営む藤戸家はない。佐川町の山口彦作邸跡を調べた時のように、地元の市議会議員に探して貰う手もあるが、コネがない。

 

彦作邸跡時の議員の場合は、彦作の伝承を知ってから何年も経って偶然、間接的コネができたが、今回も何年か経たないと住居跡発見には至らないかも知れない。

                 <参考文献>海援隊遺文(山田一郎氏著)

PS:昨日から龍馬の生まれたまち記念館で当方の企画によるミニコーナー展「四国に残る龍馬の伝承と無名史跡」が開催されている。読売新聞高知版で一両日中に報道される模様。

何とか北奉公人町の藤戸家跡発見に尽力して貰いたい、という方は次のバナーをプリーズクリック。


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2019-05-12 13:54:23

鳥居のトンネルと謎の隧道(八幡浜市・愛宕山)

テーマ:登山関係

<三方向の鳥居トンネルと謎の広場への隧道>

愛媛県八幡浜市の中心市街地随一の展望を誇る貯水タンクの上が展望台になっている愛宕山(山域名)。この南の尾根側からの登山道は最初、階段になっているが、階段口は二ヶ所あり、それぞれの上り口から、規模は小さいものの伏見稲荷のような朱色の赤い鳥居が連なっており、「鳥居トンネル」と化している。

 

その二方向からの参道が合流して以降も鳥居トンネルは続くが、その先、右手の尾根に小さな隧道が開いている。それを抜け出た先の広場は、もしかすると旧愛宕山玉照院跡かも知れない。

 

二方向からの参道が合流してから、鳥居トンネルは愛宕神社や将八大明神の祠へと続いているが、更に小径は愛宕山の尾根へと通じている。

 

この二つの登山口(上の地図は記事で説明する方)へのアプローチは、八幡浜市民以外にとっては分かり辛いかも知れない。

まず、国道197号の愛宕山トンネル北の大平交差点を西に折れる。そしてすぐ左手に現れる一方通行道路に入る。

 

少し進むと一方通行道より広い道路が左手に分岐するので、これに入る。もしかして介護老人保健施設・西安の看板が建っていたかも知れない(建っていなかったかも)。後はこの道路を道なりに進んで行く。

 

テニスコート手前の十字路もそのまま直進する。そしてこの道路の終点辺りの路肩に駐車する。二ヶ所の鳥居トンネル参道口は近接しているが、時報塔北側の上り口からの方が鳥居の数が多い。

 

2分も登れば、もう一方からの鳥居トンネル道と合流するが、ここは三方向に鳥居トンネルが分かれる箇所(上の写真)。その少々先、右手にいきなり隧道が開いている。背を少しかがめて歩ける程度なので、大きさ的には水路隧道程度。

 

隧道を抜け出た先には草地の広場があるが、明らかにかつて何かの建物があったことが想像される。しかし道路沿いに隧道を掘るのなら分かるが、小径しか通じていない箇所に隧道を掘る必要性があるのだろうか。この尾根にしても数十秒で越えられる。

 

この日、時間があまりなかったから愛宕神社(別の名称だったかも)や将八大明神には寄らず、そのまま上方の尾根を目指した。

辺りが草地のヤブになると、踏み跡もヤブに覆われ、短靴だと気持ち悪いが、ほどなく作業道のような道に出た。この道は尾根上を通っている。

 

再び普通の尾根道になり、樹林の向こうの木の間に巨大な貯水タンクが見え隠れすると、タンク手前が倒木等でヤブ化していた。どうやらこの遠回りルートで貯水タンク上の展望台まで来る者は殆どいない模様。

 

貯水タンクの北側と西側はソメイヨシノが咲き誇っていた。実は愛宕山周辺には約300本の桜があり、八幡浜屈指の桜名所になっているのである。しかし市民以外で知る者はあまりいない。

 

タンクの東側には何層にもなった階段のみの「階段塔」とでもいうものがある。この塔の最上部がタンク上の展望台へと繋がっているのである。

 

八幡浜港が見渡せる場所には一組のハイカーが弁当を広げていた。いや、この山の最短コース(市民がよく利用している復路)は距離が短いから、ハイキングにもならないか。

 

復路は南西に下り、前述のテニスコート東側へと下り立つ。すぐ先にはトイレもある。駐車場所へは道なりに道路を進むのみ。

今後も変わった隧道を紹介してほしい、という方は次のバナーをプリーズクリック。

2019-05-11 22:46:00

なぜ私の企画が龍馬の生まれたまち記念館で通ったのか

テーマ:その他の坂本龍馬関連

<「口伝」も研究成果として認定>

以前の記事の最後で触れたように今月20日から719日まで、高知県高知市立龍馬の生まれたまち記念館の企画展示室の一つに於いて、当方の企画による企画展「四国に残る龍馬の伝承と無名史跡」が開催される。

 

公的機関等に属さない当方のような個人の企画が、公立博物館で採用されるのは異例とも言える。坂本龍馬記念館のような「一般的な」博物館ではまずあり得ない。

 

勿論、この企画を提案してすぐ採用された訳ではない。普通の博物館では、記録のない伝承や口伝に関する企画展を行うことは基本的にない。当初、生まれたまち記念館も同様の考えだった。

 

そこで当方は館に対して力説した。生まれたまち記念館は普通の博物館とは違い、龍馬関連史跡等を案内する観光ボランティアを擁する地域密着型博物館であると。

 

歴史ファンや地域の方々は、より多くの龍馬関連地を巡りたいと思っているものの、龍馬の土佐在住時の記録は極めて少ないため、一般に知られている関連地も限られている。しかし記録のない無名の伝承地は多い。

 

その無名伝承地や無名史跡を広く知らしめることにより、彼等の欲求に応えることができるし、交流人口の増加にも繋がる。企画展開催の判断基準は、記録があるか否かではなく、来館者が見たいか、見たくないか、ではないかと。

 

更にかつて司馬遼太郎が言ったことも引用した。遼太郎の歴史研究に於ける師の一人が、「記録のない歴史の空白部分を伝承や口碑で補うことは意義のあること」である旨、言っていたと。

 

この当方の熱弁が通じたのか、生まれたまち記念館は考えを改め、当方の企画による企画展を開催する決断をしたのである。企画展で取り上げる伝承地等は殆ど、館にこれまで年何回か提供してきたレポート「龍馬の無名史跡」シリーズ(図書コーナーにファイルあり)で解説しているので、館側でそれを元にパネル製作することになった。

 

更にかつて当方が大豊町や東みよし町で開催した「四国龍馬街道写真展」で展示していた当方所蔵の、熊本藩の大砲の砲弾や、薩摩藩の大砲の鉄製模型、四国各藩の藩札、土佐藩の貨幣の参考品(レプリカ)、戊辰戦争時に使用された長州軍のゲベール銃、龍馬が下関の自然堂で使用していた飯碗と湯呑のレプリカ等も寄託・展示する予定(予定の段階)

 

一味違う企画展を是非、体験されたし。

企画展に期待する、という方は次のバナーをプリーズクリック。

2019-05-10 15:13:07

八幡浜大島最高峰・三能山と貝付小島エンジェルロード

テーマ:登山関係

昭和20年代迄四国最大のエンジェルロードだった

愛媛県八幡浜市の八幡浜港の南西沖約12kmの地点に、粟ノ小島、大島(本島)、三王島、地大島(じのおおしま)貝付小島からなる大島(総称)がある。

 

近年、本島と三王島を結ぶ橋、及び三王島と地大島を結ぶ橋が、自転車で通ると「まるで海面を走っているよう」と、インスタ映えする等で話題になり、観光客が増加している。

 

この二輪車等しか通行できない橋は昭和30年頃架橋されたらしいが、架橋される以前は干潮時、本島、三王島、地大島、貝付小島がトンボロ現象で陸続きになり、四国最大のエンジェルロード(海割れ道)が出現していた。現在では貝付小島エンジェルロードしか見ることができない。

 

大島の最高峰は島民の殆どが在住している本島の三能山(美濃山・166.6m・下の地図)。ネットでは山頂一帯はヤブだという、登山の素人による誤った情報が流されているが、そのヤブというのは、山頂のみかん畑の南側のことで、三角点の位置とは違う。

 

また、どの島民に訪ねても中腹以上のみかん農家は皆、廃業しているため、登山道は通れなくなっている可能性が高い旨の回答があるが、実際、大半の尾根道はきれいな状態で残っており、迷い道もない。

 

今回、三能山と三王島の山を回遊した後、地大島の尾根道を伝って島の最高峰に登った後、竜王池と貝付小島に寄り、海岸沿い道路を帰る予定だったが、この日(一泊二日の二日目)、数日前からひいていた風邪をこじらせ、また肺炎を発症し、発熱、悪寒、関節痛、止まらない咳等があり、地大島については、海岸沿い道路を貝付小島の向かいまで行って、引き返すことしかできなかった。

 

よって、三能山と三王島の山の回遊コースを簡単に説明するだけに留めたい。因みに現在も肺炎は完治しておらず、家の中では冬の衣服を着用し、一日何回かは止まらない咳にえずいている。

 

大島行の定期船は一日3便(2便時あり)。本土側の乗り場は道の駅「みなっと」の端にある。往復切符等は乗船時、船内で購入するようになっている。

 

大島の本島に着くとまず三能山を目指す。桟橋から島に上陸すると北西に進み、すぐのY字路では集落の中の路地道へ入る。

左手にJAや中井商店(看板はなかったかも)を過ぎると、奥に階段が見えるコンクリート小径が現れるのでこれに折れる。この道は集落を抜けると高島様という祠に繋がっているはずだが、分からなかったため、適当に北西に上がる道を進んだ。

 

墓地を抜けるとみかん農家の作業歩道やモノラック道がいくつも分岐するようになるが、極力急勾配の道は避け、適当に進む。それでも最後はモノラック道を進み、稜線に達する手前で尾根の東下を進む道に折れたように思う。

 

その内稜線に出たが、ここにもモノラックレールが走っている。この尾根道はモノラック廃線跡道でもある。

高度計高度が160mに達した後、尾根はヤブ化した。山頂っぽい箇所もない。

 

ヤブを抜けるとみかん畑が広がっていた。ここに三角点があるに違いないと、畑の西側の小径を歩くとすぐ、道寄りの畑の中に三等三角点があった。だだっ広い畑の一角であり、特にピークらしくもなっていない。展望も無名峰だけにない。

中腹から上のみかん畑が皆、放棄されたのは島の高齢化が理由だろう。

 

復路は明瞭な尾根道を下るだけだが、勾配が急な箇所が多く、それだけに周辺の海や地大島の展望が広がる箇所が複数ある。

登山道は大島小中学校(現在は民間の施設に)西に下りてきて、集落の道に繋がる。

 

道は集落内の路地道と海岸の堤防沿いの道とに分かれるが、後者を辿った方が展望は良い。が、関節痛や咳、油汗等で景色を楽しむ精神的余裕はない。

大島唯一の宿「民宿きむら」を過ぎるとほどなくして三王島に架かる橋が現れる。が、橋を渡る前に右折し、日本最大規模の「地震の化石」こと、シュードタキライトを見ておきたい。

 

が、大規模に広がるシュードタキライトは船上から見ないと実感できない。それでも、この道沿いの海面は美しく、透き通って海底が見通せるから、この海を見るだけでも価値がある。

 

三王島(上の写真)は古来、「神の島」と呼ばれ、草木や小石に至るまで採取は禁止されていた。その神は道路沿いに建つ山王(三王)神社で、元々は島の頂上(21m)に祭られていた。故に社殿の北側の登山道から頂上を目指す。

 

頂上自体はヤブに覆われ、神社跡の痕跡もないが、そのすぐ下にあるウバメガシ(上の写真)は、目通り周囲3.5m、樹高10.5m巨木神木。流石にここまで来ると体調が限界になり、倒れ込んでしまった。

 

休止後は反対側の道を下り、社殿の南側に出るが、ここにもウバメガシの大木がある。

神社前ではバーベキューが行われていたが、「神の島」でこのような「不届き」が現在では許されているのだろうか。

 

橋で地大島に渡り、貝付小島を目指すが、肺炎のせいか、この道程がとてつもなく遠く感じられた。途中で後ろを振り返ると、三王島と地大島を結ぶ橋が、まるでエンジェルロードのように見えている(上の写真)。

 

貝付小島は地形図(伊予大島)では陸続きになって描かれているほど、島周囲の水深は浅い。故に大潮時でなくても、毎日の干潮時でも陸続きになる。しかし最早島に渡る体力はなくなっていた。

 

弁当を食べると早々に引き返し、13:30発の定期船で帰ったのだった。

八幡浜港から自宅までは車で3時間半以上かかるが、何度も休憩を取りながら、無事帰宅することができた。

尚、この前日に探訪した本土側の二ヶ所のエンジェルロードと複数の海食洞はまた機会があれば投稿したい。

早くその二ヶ所を紹介してほしい、という方は次のバナーをプリーズクリック。

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2019-04-26 00:20:53

四国唯一の龍馬と高杉晋作滞在所一般公開(呑象楼)

テーマ:四国龍馬街道関連

【去年から有料公開始まる】

拙著(四国龍馬街道の)や当ブログでも’10年、何度も触れた、坂本龍馬高杉晋作が訪れた香川県琴平町の勤王侠客・日柳燕石(くさなぎえんせき)の元居宅、呑象楼(どんぞうろう)が去年初夏より有料で一般公開されている。四国で龍馬と晋作の二人が滞在した(別々の時期)家屋が現存するのは唯一のため貴重。尚、添付写真は内部非公開で修繕されてなかった頃の写真。

 

自治体のサイトでは触れていないが、当建物は天保時代のものとは言え、以前説明したように、昭和29年に現在地へ移築された際、規模が縮小されている。故に昭和14年に指定されていた県の文化財からも除外された。

 

それでも二階のどんでん返し壁や床の間掛け軸裏の抜け穴、階段の隠し板等は残っているので、訪れる価値はある。燕石は讃岐一の勤王侠客だったことから、佐幕の高松藩に狙われることもあり、このような仕掛けが必要不可欠だったのである。

 

呑象楼(下の写真は移築前の場所)を晋作が訪れたことは晋作の手紙から窺い知ることができるが、龍馬が訪れたことは伝承。以前、説明したように、龍馬は文久22月、呑象楼で燕石と美馬君田に出会い、君田に徳島県美馬市鎌村熊太を紹介する紹介状を書いて貰い、熊太から勤王活動資金を得ることができた。

 

また、以前も説明したように、文久22月に龍馬が讃岐に行くことは、山口県防府市三田尻の豪商、岡本三右衛門に関連する書簡から確認することができる(長州・脱藩道の拙著で触れた中谷正亮の書簡とは別)

 

歴史研究家の中には、龍馬が君田らと交流した伝承を唱えるのは当方と熊太子孫だけだと思っている者もいると思うが、以前説明した(と思う)ように、燕石と先祖が同じで、燕石の生家のある地区出身の香川県では有名な歴史研究家・草薙金四郎(明治生まれで昭和期に活躍)氏も龍馬と君田との交流を後世に伝えており、そのことは君田が住職をしていた寺の案内板や日本維新人名辞典にも記されている。

 

龍馬と晋作ファンはこれを見逃すな。尚、拙著や当ブログで触れたように、琴平界隈には龍馬と晋作の伝承地が点在している(の写真は晋作の隠れ場所の一つ、松里庵)

 

<呑象楼>

場所:榎井小学校敷地(立入自由)

見学料:大人 200円、中高生 100円、 小学生 50円

内部公開時間:9時~17時(12月29日~1月3日を除き無休)

問い合わせ:琴平町教育委員会 電話0877-75-6716

 

PS:来月20日頃から、当方の企画・提案による企画展「四国に残る龍馬の伝承と無名史跡」が高知市の龍馬の生まれたまち記念館で開催予定。

呑象楼と企画展には是非行きたい、という方は次のバナーをプリーズクリック。

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