≪近藤長次郎VS長州海軍局≫
住吉神社から東の道路に出て、入間川の北端に行く。この川が海から御船倉へと入るメインの堀跡で、昔はこの南北の流れの北端が三田尻三丁目5番まで延びており、その北側には御船具蔵が南北に並んで二棟あった。その二棟は三丁目4番区画の西半分辺りにあった。
南北の堀から東に分岐する形で旧堀と新堀があった。そしてその新旧の堀の間に
は多数の船渠があり、それらにも○○堀という名称が付けられていた。
入間川の堀の入口東側には新堀番所があり、堀に入る船舶をチェックしていた。三田尻三丁目11番の金城商会辺りである。
御船倉は毛利水軍の本拠地で、その水軍組織は御船手組と呼ばれた。関ケ原合戦後の一時期、御船倉は下松にあったが、慶長16年(1611)、三田尻に移った。御船手組は野島(能島)村上氏と因島村上氏が中心となって組織され、平時は藩主の送迎や人員・物資の輸送を行っていた。
幕末、外国の脅威が強くなり、大型軍艦の必要性が取り沙汰されるようになると、御船倉は海軍局と改称され、海軍兵学校が開校
される。元治元年12月、ここを土佐浪士の与津地屋清次等、高杉晋作率いる隊が襲撃、海軍を手中に収めることになる。
また、以前も解説したように、長州藩が薩摩藩を通じて軍艦を入手する際、近藤長次郎は海軍局と激しく対立している。
長次郎が海軍局に示した約定文には、長州藩が購入するにも拘らず、船籍や船旗、船名等は薩摩藩のものとし、平時は亀山社中が使用する旨、記されていたのである。桂小五郎や高杉晋作が長次郎に改定を要求するも、長次郎は毛利敬親公から軍艦購入について直々に激励を受けたと、これを突っぱねる。
そうこうしているうち、龍馬が京から戻り、長州側の意見を受け入れ、まるく治めたのである。
入間川の北東隅の東向かいが前述の金城商会。そこからは北上する。三田尻第二公園の北には三田尻交番があるが、西方に川口番所があったことから、その近くに設置したのだろう。当然この交番もメイン堀跡上に建つ。交番北の変形六差路からも北上を続ける。
最初の右折道に入る。この東西の道の少々北が旧堀跡である。この道は防府市記念モデル遊園に出るが、そこは丸艘堀跡である。この遊園の北側が唯一、御船倉跡の痕跡を残す堀跡
で、石垣や松の木が雰囲気を醸し出している。そこは通堀跡の一角にあたる。
その風情ある堀跡は西方向に細長くなり、やがて水路になるが、それが旧堀跡の一部である。
御船倉跡の見学を終えると南北の道路に戻り、北上を再開、最初に現れる左折道に入る。この西進する道は前回触れた御米蔵跡北端を通り、県道に出る。そしてやや北にある歩道橋を渡り、英雲荘南を西進する道路に折れ、T字路に突き当たるとまた北に折れる。
次回こそいよいよ脱藩の道に入る。
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