[報道実績]高知放送、NHK徳島局、RKCラジオ、高知新聞、愛媛新聞、徳島新聞、山口新聞、防府日報等々。

自然、戦跡、ときどき龍馬-「長州・龍馬脱藩道」 $自然、戦跡、ときどき龍馬  $自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-龍馬が辿った道  $自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-四国の戦争遺跡ハイキング  $自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-四国の鉄道廃線ハイキング  $自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-土佐のマイナー山part2
「長州・龍馬脱藩道」「大回遊!四国龍馬街道280キロ」「龍馬が辿った道」「四国の戦争遺跡ハイキング」「四国の鉄道廃線ハイキング」「土佐のマイナー山シリーズ」(各ロンプ刊)、出演舞台DVDの購入法については、「プロフィール」ページ を参照下さい。


フォートラベル・サイトへの投稿再開トラベラーページ

高知県内の無名峰(大半が著書未収録峰)や関西のハイキングコースのコースガイドはヤマケイのマイページ

○'13年より、コメントを戴いても「ブログの訪問返し」ができない状態になっております。
○当方は相互読者登録を行っておりません。

1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2016-12-09 22:45:14

もう一つの「土佐の投入堂」、断崖絶壁の岩屋に

テーマ:素晴らしい景勝地と史跡

[岩の洞穴をくぐって岩窟へ]

以前、鳥取の断崖に建つ国宝、投入堂になぞらえた越知町の「土佐の投入堂」こと聖神社を紹介したが、大豊町の山中にも同様に、断崖絶壁の岩屋に建立された仏堂がある。それは車で登れる高知県嶺北地方屈指の名峰・梶ヶ森(1399.6m)中腹の「御影堂」。

 

弘法大師空海が若かりし頃、この岩窟で17日間、虚空蔵求聞持法を修し、山の妖怪たちを調伏し、山を守護する善神へと変えさせたという。

この岩窟のある箇所を「仏嶽山」と呼び、藩政時代は藩主、山内氏の所有地で、一般人の入山は禁じられていた。

 

当時もその岩屋に小堂はあったが、現在の仏堂が建立されたのは明治12年。中には「神童の尊(きみ)」と呼ばれる若かりし頃の弘法大師座像を安置しているほか、大師が虚空蔵菩薩から授けられたという「天授の宝剣」と、大師が魑魅魍魎を調伏した際に使用したと言われる「大師御手判の石」も納められているようだが、神童の尊以外は見えなかった。

 

御影堂へは大豊町町道梶ヶ森線の1129.9m峰南のコルから定福寺奥の院を経て、「ゴロゴロ八丁」を登れば行き着くが、ゴロゴロ八丁は両側の岩盤の間を縫う急坂のガレ場で、ハイカーも利用する者は少なく、踏み跡も殆ど消えている。故に「上り」には利用したくないコースだが、ルートは誰でも分かる。

 

御影堂のやや手前には古びた堂の道標があったと思うが、堂への上り口自体には道標がない。目印は、東側の頭上の絶壁岩盤から少し飛び出た岩(上の写真の右側)。そこからコースに目線を移していくと、岩が平らになっている部分がある。それが参道で岩窟の入口。途中、洞穴のようになっている箇所の梯子を、身をすぼめて上る。

 

御影堂上り口の先だったか手前だったか忘れたが、道標に従って西に折れてシャクナゲの森休憩所方向への道を少し上がると、御影堂を望見できる場所がある。

 

PS:最近、真田丸でお馴染みの明石全登の土佐で最初に滞在した香美市物部町の屋敷跡(推定地)と香北町の直系子孫邸、毛利勝永の高知市内の屋敷跡を地図上で比定できた。

 

勝永の屋敷跡についてはネットで誤った場所(高知北環状線と入明駅から北上する道路が交わる交差点)が示されており、明石全登の物部町の屋敷跡は史上初公開となる。

 

全登と勝永の伝承地については、真田丸最終回放送日までに記事を投稿してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

人気ブログランキングへ

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-12-07 20:34:13

天空の鳥居三景(神社遺産)

テーマ:各種遺産(戦争と鉄道廃線を除く)

[気軽に絶景神域を探訪]

全国各地の高山の霊山にある鳥居からは絶景が広がっているケースが多いが、気軽に「絶景鳥居」を探訪して戴くべく、数十秒から15分以下で登れる天空の鳥居を紹介したい。

鳥居越しの景色は、鳥居をフレームに見立てることで、より景観が引き立つ。

 

尚、(1)と(2)は朝方、道路が凍結している可能性があるので、各自治体に確認を。

 

(1)  奥神賀神社鳥居(高知県大豊町と香美市との境界付近)

奥神賀山(1442.9m)は観光客にとっては無名だが、高知県内の登山愛好家では知らない者がいないほど有名で、「れいほくネイチャーハント」の山にも指定されている。

 

安徳帝御陵伝説のある高板山(こうのいたやま→「皇の居た山」の転化だと言われる)から奥神賀山~中都山(なかつやま)~神賀山~神賀神社に到る尾根は、修験者が行き交った道であり、各所に祠や奇岩がある。

 

中でも奥神賀山周辺の尾根は展望の優れただだっ広い笹原となっており、一角に奥神賀神社が鎮座する。これは神賀神社の奥の院とされているが、周辺の笹原は平家落人の烽火場跡だと言われている。

山奥の山だが、空気の澄んだ冬場は太平洋も遠望できることがある。

 

アプローチは国道439(酷道ヨサク)から南下するルートや、国道195号から北上するルートがあるが、狭い酷道よりは二車線の後者の国道から北上した方がいいだろう。

 

香美市物部町大栃から県道49号に左折後、韮生川橋を渡り、猪佐古川を遡って林道猪佐古線を上がり、高板山北西の三ノ森登山口周辺の三差路に出ると左折する。

この道の最高所が豊永峠で、奥神賀山最短コース登山口がある。そこから南西に尾根を十数分登れば奥神賀神社。該当地形図は「東土居」。

 

(2)  中津明神鳥居(高知県仁淀川町と愛媛県久万高原町との境界付近)

高知県下の山の中で、車で登頂できる最も高い山「中津明神山(1540.6m」」は、山頂から360度のパノラマが広がっており、石鎚山系や四国カルスト等、名だたる山々を一望できる。

 

山頂には石鎚権現と大山衹神社が祀られており、作業道沿いから山頂にかけていくつもの鳥居が建っているが、森林限界を超えている山だけに、鳥居からも絶景が広がっている。

 

車で登頂できるとは言え、山好きの中には、愛媛県側から登山道を上がってくる登山者もおり、毎年81日に山開きが行われ、信者が石鎚権現の御神体を背負って登り、神事の後、大山衹神への奉納相撲が行われる。

 

アプローチは、仁淀川支流の中津渓谷から吾川スカイパークを経て、道なりに終点まで進むだけ。

中津明神から帰りに時間があれば、以前岩塔の三景で紹介した、これまたパノラマを誇る長坂山(「金綱山」或いは「金鉱山」とも)に登ると良い。その林道分岐には「橘山休養林」(少し文字が違ったかも)の道標が建っている。その林道最高所の「協働の森」の石碑が建つ分岐が登山口。「土佐のマイナー山part2」収録山。

 

(3)  高屋神社鳥居(香川県観音寺市)

七宝山系の一座、稲積山(404m)の山頂には延喜式内社、高屋神社が鎮座しており、その下には約230段に及ぶ長大な石段があり、それを上り切った所に絶景鳥居がある。上っている途中で後ろを振り返れば、観音寺市街地から燧灘の眺望が広がっている。

 

鳥居横の展望休憩舎からは、以前、防空監視哨跡を紹介した「有明富士」こと、江甫草山を望見することもできる。

 

現在、神社まで車道が通じているが、神社関係者以外は手前の駐車場からその車道か、昔からの登山道を数分歩くことになる。その尾根道である登山道を上がった所に「高屋巨石群」があるが、ここから石段の石を切り出したのではないかと言われている。但し、尾根道沿いにはあまり巨石と呼べる石はない。ただ、燧灘の展望が優れた岩場はある。

 

アプローチはまず、観音寺市と三豊市の境界にある県道49号のT字路を、不動の滝カントリーパークの標識を見て、そちらの道に折れる。

後はしばらく不動の滝の道標に従って上って行き、左手に三豊産業豊中採石場のある変形五差路に到ると、小さな高屋神社本宮の道標を見て、その狭い道路を直進する。

 

電波塔の建つ431m峰の北西コルの三差路にまた高屋神社の道標が出ているので、それに従うと、ほどなく神社の駐車場に達する。

 

私はそこから昔からの登山道を上がって神社に登り、帰路は車道を下って駐車場に戻り、更に看板を見て「不老長寿の神泉」に寄った後、一等三角点峰「上芝山(点名:高野山・444.2m)」まで縦走し、それから観音寺市と旧仁尾町、旧豊中町との境界であるピークまで戻り、南東の尾根道を下り、龍王神社に寄った後、前述の431m峰北西のコルに下り、車道を駐車場まで帰った。散策程度で回遊することができる。該当地形図は「観音寺」。

 

他の天空シリーズも作ってほしい、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

ブログランキング

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2016-12-06 21:54:35

お龍、土佐和食(わじき)へ(15)

テーマ:龍馬と志士の土佐の主要街道

[短命に終わった乗合馬車]

松屋跡から徒歩2分ほど土佐東街道を東進した所の、南北の歩道が交差する十字路北東角の民家沿いに、「江見町馬車立場跡」の看板が建っている。藩政期、「立場(たてば)」とは駕籠を置いて休止する所の意味として使用されていたが、明治に入ると人力車や乗合馬車についても使用されるようになった。但し、人力・馬車の場合は、ターミナル的意味も含む。

 

高知県に乗合馬車が導入されたのは明治20年だが、赤岡には明治末、導入され、江見町馬車立場南東向かいの今西菓子店西隣に馬車会社が設立された。

 

高知城下や下田方面行きの立場(下街道馬車立場)は以前触れたかも知れないが、香宗川橋北東角にあった「待合茶屋」の東隣にあった。

 

この江見町馬車立場は和食(わじき)方面行きで、下街道馬車立場同様、一日三往復の便があった。

馬車は10人乗りで、座席が木製だったため、長距離乗車時は腰が痛くなったという。

 

しかし乗合馬車の歴史は短かった。大正13128日、土佐電鉄の前身、高知鉄道が後免-手結間を開通させたため、馬車会社は大正末までに廃業したのである。

 

そこから更に2分ほど行った所が赤岡町と香我美町岸本(かつての岸本村)の境界なのだが、なぜか境界線が歪になっている。街道から北はグループホーム「香美安心ハウス」の西側が境界なのだが、街道から南の境界線は西にずれており、南北に連なる豪家である二軒の橋本家の西側が境界で、二軒目の橋本家を過ぎると境界線はまた東に戻っている。

 

これは近代以降、境界線上に橋本家が建設されたため、境界線をずらしたのではないだろうか。その証拠に、街道に面する橋本家の門の所に秋葉神社の祠がある。この祠の東沿いが香美安心ハウス西側の境界線の延長になる。

秋葉神社は火除けの神なので、以前触れた赤岡大火後に防火のため、建立したものだろう。同様の祠の秋葉神社は岸本にもある。

 

香美安心ハウスの駐車場を挟んだ東には旧家(上の写真)があるが、ここは中沢医院跡。岸本出身の中沢氏と言えば、中沢薬業()の創業者、中沢寅吉氏(1879-1965)が有名だが、その親戚筋かも知れない。

 

その東方を流れる香宗川放水路は以前陸地で、明神橋北側に土佐勤王党結成の地であり、武市瑞山も足繫く通っていた佐田屋があった(下の写真)ことは以前詳しく解説した。

佐田屋主人の本家(明神橋より東方)は橋本姓なので、前述の橋本氏はその分家かも知れない。

 

次回は佐賀の乱首謀者の江藤新平が護送時に宿泊した屋敷跡を紹介する。

赤岡同様、岸本の各史跡や伝承地にも期待する、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリック

にほんブログ村

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

油未使用のヘルシーフライヤー 無煙無油の卓上遠赤グリルで何でも焼ける HDD&ブルーレイレコ内臓小型テレビ レコードをCD以上の音質で聴くにはこれ

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。