これまで何度も『枕草子』を取り上げてきました。

 

今回は趣向を変えて、中宮定子の生涯について濃厚にまとめてみたいと思います。

 

まず、定子という人はもの凄く可愛くて美人だったそうです。

今でいうと女優の今田美桜ちゃんが個人的なイメージですが、まあそれぞれ好きにイメージしてください。

 

さて真面目な話。

 

定子に関わる簡略化した家系図です。

 

では、定子の人生を見ていきましょうビックリマーク

※出てくる年齢は数え年です。

 

🔵目次

①定子、入内

②定子、中宮になる

③道隆死す・・・

④定子まさかの・・・

⑤定子、再入内

⑥定子、第一皇子出産

⑦定子みたび懐妊そして・・・

⑧定子の遺児たち

 

【参考文献】

・新編日本古典文学全集『枕草子』(小学館)
・『枕草子 全訳注』(講談社)
・Wikipedia

①定子、入内

定子が生誕したのは977年。

当時備中権守だった藤原道隆とその正妻・高階貴子(高内侍)の間に生まれた長女でした。

 

道隆・道兼・道長(みちみち3兄弟)のうち、最初に父・兼家の跡を継いで政権を掌握したのは道隆でした。

内大臣の位に就いていた(関白就任の直前)道隆は、990年に定子を入内、一条天皇と結婚させます。

一条天皇11歳、定子14歳でした。

 

定子に与えられた殿舎は登花殿だったそうです。

一説によれば梅壺とも言われ、また最初は梅壺で後に登花殿に移ったという説もあるようです。

↓は内裏の見取り図です。

※Wikipediaより内裏図拝借

②定子、中宮になる

最初、定子は女御にょうごという位でした。

その後(といっても入内と同じ990年)関白→摂政に就任した道隆は、定子を中宮の地位につけたのですが、このやり方が強引でした。

 

后の位は、皇后(=中宮)・皇太后・太皇太后の3つと決まっており、「三后」とか「三宮」などと呼ばれています。

現代の感覚だと、天皇の妻(正妻)は自動的に皇后というイメージですが、当時は違ったようで、一条天皇が即位した時点で、三后はすべて埋まったままでした。

  • 中宮藤原遵子(円融院の后)
  • 皇太后藤原詮子(一条天皇の生母)
  • 太皇太后昌子内親王(冷泉院の后)

*皇太后詮子は道隆の妹/道長の姉であり、また遵子と同じく円融院の后です。

 

定子の立場を盤石にしたかった道隆は、どうしても定子に后の地位を与えたかったので、強引な奇策を打ちます。

 

奇策とは、皇后の別名であった「中宮」を、皇后とは別の地位として分離・独立させる、というものでした。

こうして、定子を中宮の地位につけ、以下のようになりました。

  • 中宮藤原定子(一条天皇の后)
  • 皇后藤原遵子(円融院の后)
  • 皇太后藤原詮子(一条天皇の生母)
  • 太皇太后昌子内親王(冷泉院の后)

Wikipediaによると、「四后並立」という前代未聞の事態をつくり出し、伊周や隆家など自分の子の地位を躍起になって引き上げていった道隆は相当な反感を買ったそうです。

ただ、酒飲みで豪放磊落、冗談好きだったそうなので、政治家としてはともかく、

いわゆる “人たらし” なおっさんだったのではないでしょうか。

 

そして、993年ごろから清少納言が女房に加わって仕え始めたと言われています。

 

その頃の中宮定子の和歌を2首ほど。

 

いかにしていかに知らまし偽りを空にただすの神なかりせば
〔どうやってあなたの本心を知ったらいいのかしら。あなたの言葉がうそか本当か、すべてお見通しの糺の森の神がいなかったなら〕

 

『枕草子』で定子の歌として記録されているものです。 

宮にはじめてまゐりたるころという長い章段の最後の方で、定子と清少納言のやり取りの中で出てきます。

 

いかにして過ぎにしかたを過ぐしけん暮らしわづらふ昨日けふかな

〔私はどのようにしてこれまでの日々を過ごしてきたのかしら。一日を終えるだけでも難儀してしまう今日この頃だわ〕

 

こちらは『枕草子』「三月ばかり物忌しにとて」のほか、『千載和歌集』に採録されている歌です。

里帰りしていた清少納言に「あなたがいないと物足りないから早く帰ってらっしゃい」という意味で詠み送ったものです。

③道隆死す・・・

清少納言を女房に加え、宮中で知的で明るく華やかなサロンを開いていた中宮定子ですが、その栄光は長く続きません しょぼん

 

定子の最大の後ろ盾であり、良くも悪くも自分の一族を強力に盛り立ててきた藤原道隆が予想外に早くこの世を去ってしまうのです。

先述の通り大酒飲みだったらしく、そこから身体を壊したとされています。

 

西暦995年、享年43歳でした。

 

まだ定子は19歳、一条天皇(16歳)との間に子ができていませんでした。

天皇と定子との間に男の子が生まれたら、その子を皇太子→天皇にする、これこそが道隆の思い描いたシナリオでした。

当時としてはごくごく普通のプランです。

道隆は外祖父として孫である天皇を補佐し、また後ろ盾として守る立場になるはずでした。

 

隙あらば政敵を追い落とす、時には罠にはめてでもライバルを蹴落として上位に行くことが横行していた時代で、皇太子すら謀略で退かされることがありました。

道隆がいなくては定子が男子を生んでも皇太子→天皇になることはほぼ絶望的です。

 

みちみち3兄弟の弟2人が親戚で健在なんだから協力して・・・・・というのは現代の感覚で、むしろ兄弟ゆえに激しく骨肉の争いを繰り広げることも珍しくありません。

 

というわけで安心ならないのは定子も同じ。

中宮という立場にあるからといって、後ろ盾を失ってしまっては、いつその座を追いやる策略にはめられるか分かりません。

道隆亡き後、定子を守る立場の筆頭は兄・内大臣伊周(22歳)と弟・権中納言隆家(17歳)ですが、まだ若い2人に道隆ほどの力があろうはずもありません。

 

道隆の死後、後継として道隆の弟・道兼が関白に任じられますが、流行病のため何と就任から僅か1週間ほどでこの世を去ってしまい、更にその後継を決めることになりました。

 

その後継争いで、伊周は叔父の道長(30歳)と政争を繰り広げましたが、これは道長に軍配が上がります。

道隆が死んだ時点では、伊周は内大臣、道長は権大納言でしたが、道長が右大臣に出世し、伊周の上に立つことになりました。

④定子まさかの・・・

見た通り、995年が大きなターニングポイントでしたが、トドメは翌996年です。

この年、「長徳の変」と呼ばれる大事件が起こります。

前の天皇で、既に出家していた花山法皇の暗殺未遂事件が起きたのです。

 

その首謀者こそが、定子を守る立場にあった伊周(23歳)と隆家(18歳)でしたポーン

 

長徳の変については以前に書いたのでそちらを参照してください。

 

この大事件を引き起こした伊周と隆家は逮捕され、流罪の判決を受けました。

伊周と隆家は自業自得ですが、定子の運命も急降下⤵

 

兄弟のしでかした事件の責任を取る意味なのか、あるいは兄弟を逮捕することに対する異議申し立ての意味なのか、屈辱に耐えきれなかったのか、立て続けに降りかかる不幸に自暴自棄になったのか、はたまたその全てなのか分かりませんが、とにかく定子は髪を切って出家してしまいます

 

ウワァァ-----。゚(゚´Д`゚)゚。-----ン!!!!

 

定子はまだ20歳でした😢

 

出家した人が中宮として内裏にとどまることはできませんが、ちょうど(?)この時の定子は一条天皇の第一子を身籠もっていた時期だったので、内裏を離れて自邸に戻っていました。

 

伊周・隆家が定子の邸宅に匿われている、という情報をもとに、当時の警察組織である検非違使けびいしが定子の邸に強制捜査で踏み込んできたその時、定子はその場でハサミを取り自ら髪を切ってしまったと言われてます。

 

また、更に同じ996年、伊周・定子・隆家の生母である高階貴子が亡くなっています。

 

またまた同じころ、定子に仕えていた清少納言が、敵である道長方と内通しているという噂が流れました。

確かに、清少納言は赤染衛門(=道長の正室・源倫子&その娘・彰子に仕えた女房)と交流がありました。

その交流がいつ頃から始まったのかは知りませんが、仮にこの996年時点で既に交流があったとして、それが「内通」とか「裏切り」というものであったとは到底思えません。

堅い信頼で結ばれていた主従にとって、この噂の流布は大変なショックだったでしょう。

このことから、一時的にではありますが、清少納言はボイコットして自宅に引き籠もってしまいました。

 

定子にとってこの年は最悪中の最悪、生き地獄のような年だったことでしょう。

 

それにしても、中宮の立場にある方が突然髪を切って出家してしまう、というのは非常にショッキングな出来事です。

『源氏物語』「賢木」巻にて、中宮である藤壺の宮が突然出家を宣言するシーンがありますが、紫式部はこの事件にインスピレーションを得たのかもしれません。

⑤定子、再入内

先述の通り、定子は一条天皇の第一子を身籠もって里帰りしている間に髪を切って出家してしまいました。

その子が生まれたのが長徳の変の翌997年、定子21歳、一条天皇18歳でした。

生まれたのは女宮の脩子内親王です。

 

一条天皇は定子のことが大好きでした ラブ

伊周と隆家の逮捕のために定子宅の強制捜査を許可したのは一条天皇でしたが、まさか定子が出家してしまうとは予想だにしていなかったことでしょう。

定子出家の報せを受けた時のショックは想像に難くありません。

しかも、その定子が第一子を無事に出産したとなれば、一条天皇は会いたい気持ちを抑えることができませんでした。

 

そこで一条天皇は定子に内裏に帰ってくるよう説得します。

定子としてはふたつ返事で承諾するわけにもいかず、悩んだことでしょう。

しかし、伊周・隆家の罪も許され(再入内の交換条件だったかは知りません)定子は内裏に戻ることにしました。

出家したままというわけにはいかないので、還俗げんぞくしていたはずです。

 

四后並立といい、出家後の再入内といい、定子という人は異例づくしの方ですね。

 

内裏に戻るとはいっても、「じゃあもとの登花殿に」というわけにはいきません。

花山法皇暗殺未遂事件の犯人の妹ですし、一度は出家した身ですから、登花殿という格が高く目立つ殿舎に住まわせては、他の后や女御へのしめしがつかないうえに、嫌がらせを受け、後ろ指を指されるに決まっています。

 

ということで、定子の御所は内裏を東に出た北側、職の御曹司しきのみぞうしと定められました。

 

※旺文社古語辞典より拝借した大内裏図

 

苦肉の策ですね。

内裏の中に置くと嫌がらせを受けるかもしれないということで、内裏の外です。

しかしこの職の御曹司、内裏の北東つまり鬼門の方向ということもあってか、「鬼(霊)が出る」という噂のある所でした。

 

まあしかし、職の御曹司の「職」とは、「中宮職」のことを指すので、后(特に中宮)の雑務・事務を担当する役所だったわけですから、色々と便利だったかもしれません。

というか、内裏の外に御所を設けるとしたら、ここが最も合理的だったのでしょう。

 

この頃の中宮定子の和歌を1首。

 

元輔が後と言はるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる

〔大歌人清原元輔の娘と名高いあなたに限って、今夜の歌会に参加しないでしれっとやり過ごすつもりなの?〕

 

『枕草子』の「五月御精進のほど」という章段に掲載されている歌です。

 

清少納言の父親は清原元輔きよはらのもとすけで、2番目の勅撰和歌集『後撰和歌集』の撰者に任命される程の歌人でした。

 

ある晩、太宰権師・藤原伊周(内大臣から左遷されていた)がやってきて、女房たちに歌を詠ませている時、清少納言だけが参加せずに中宮定子と話をしていました。

伊周が「どうしてお前だけ参加しないんだ。詠みなさい」と清少納言に言ってくるのですが、清少納言は「私は中宮様から歌は詠まなくて良いと免除されておりますので」と返事をします。

伊周が定子に「妹よ、本当かい?どうしてそんなことを許したのだ。まあ良い、とにかく今夜は詠め」と清少納言を促すのですが、しらばっくれて相変わらず参加しない清少納言。

そこで定子が清少納言に詠み送ったのが上記の歌です。

 

清少納言が定子から歌を詠まなくて良いと免除されていたのが本当なら裏切りですが、主従のいつもの軽い冗談です。

 

この章段は楽しげで、道隆が死に、長徳の変が起こり、定子は出家し、伊周・隆家は逮捕され・・・などという悲惨な出来事が起きた後とはとても思えません。

『枕草子』では、そういう憂き目にあった辛く悲しい雰囲気はひた隠しにされているのです。

⑥定子、第一皇子出産

かつてのように名実ともに栄華を極める、ということが不可能になった定子でしたが、一条天皇に愛されていることが救いでした。

そして999年、定子(23歳)は再び一条天皇(20歳)の子を身籠もります。

 

長女・脩子内親王の出産の時もそうでしたが、内裏では出産できないので、一時的に内裏を退くことになります。

脩子内親王を出産したのは定子の自邸でしたが、その後焼失してしまっており、出産できる邸宅を借りなければなりません。

しかし、自身の権力を確固たる物にするべく躍起になっている道長に忖度し、定子のために邸を提供する上級貴族はいませんでした。

結局、かつて中宮職で定子のために働いていた平生昌たいらのなりまさが邸を提供することになります。

生昌は中級貴族で、本来なら中宮を迎え入れることができる身分ではありませんが、上記の理由により、定子はここで出産するのでした。

 

そして生まれたのが敦康親王です。

一条天皇の第一皇子でした。

 

道隆が生きていたら・・・・・という気持ちにならざるを得ません。

敦康親王は第一皇子ではありましたが、天皇になることはありませんでした。

 

清涼殿から遠く離れた御所に住まう妃が天皇の寵愛を一身に受け、他の妃からの恨みを買いながらも皇子を出産する。しかしその皇子は力強い後ろ盾がいないため、天皇になることはできなかった。

 

こんな話をどこかで聞いたことがありませんか?

そう、『源氏物語』です。

この設定はあまりにも定子の状況に酷似しています。

光源氏は第一皇子ではないですし、桐壺更衣の御所はまさに桐壺ですが、もちろんそこまで完全に同じにしてしまったらあからさま過ぎますからね。

というわけで、桐壺更衣のモデルは中宮定子、光源氏のモデルは敦康親王、という推測が古くからなされてきました。

あまりにもドラマティックな定子の人生が、同時代の作家・紫式部の感性にまったく影響しなかった、と考える方が不自然です。

よって、単に桐壺更衣のモデルというだけでなく、先述しましたが、藤壺中宮が突然出家を断行する、というシーンにも影響を与えていると思います。

 

話を現実の歴史に戻しましょう。

 

この敦康親王出産の1週間ほど前、藤原道長は娘・彰子(12歳)を入内させ、出産同日に彰子は女御の宣下を受けています

 

明らかに、道長は定子が脚光を浴びることを退け、定子への祝賀ムードが半減するように計算して動いています。

道隆が世を去っているとはいえ、一条天皇の第一皇子が定子から生まれるのは道長にとって恐怖だったのでしょう。

もちろん、今と違って生まれてくるまで男の子か女の子かは分かりませんが。

 

しかも、先述した生昌邸への定子のお出ましの日、ちょうどその日を狙って道長は上級貴族を大勢引き連れて宇治に遊びに出かけます。

そのため、定子に同行する貴族はほとんどおらず、中宮の御幸にしては極めて寂しいものになりました。

 

道長、許すまじ パンチ!

⑦定子みたび懐妊そして・・・

実は、定子が敦康親王を出産する少し前(999年)、内裏が火事で焼失してしまい、一条天皇の生母である藤原詮子が所有していた一条院という邸宅を仮の御所(里内裏/今内裏)としていました。

ちなみに、この時すでに詮子は皇太后を下りていたそうです。

 

そして出産の翌年(1000年)、定子(24歳)は敦康親王とともに内裏に戻ってきます。

天皇(21歳)はさぞかし喜び、可愛がったことでしょう。

 

そんな中、にっくき道長は娘の彰子の地位を女御から中宮に引き上げます ムキー

それに伴い、后は次のようになりました。

  • 中宮藤原彰子(一条天皇の后)
  • 皇后藤原定子(一条天皇の后)
  • 皇太后藤原遵子(円融院の后)
  • 太皇太后: - - - - - -

※太皇太后・昌子内親王は999年に崩御。

 

ということで、彰子が中宮の座につくと同時に、中宮だった定子が皇后に、皇后だった遵子が皇太后になりました。

一帝二后、という前代未聞の状況がまたしても生まれました。

つくづく定子は規格外です。

この状況を作ったのは、もとはといえば道隆が中宮と皇后を別々の地位に分離したことに起因します。

 

この頃の定子の和歌を2首。

 

みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける

〔人々がみなこぞって花だの蝶だのと慌ただしく追いかける今日この頃、私の心を知っているのはやはりあなたですね〕

 

『枕草子』の「三条の宮におはしますころ」という章段です。

彰子が中宮、定子が皇后になったあと、定子は三条の宮すなわち生昌邸をふたたび訪れており、その時の歌です。

「君」というのは清少納言を指します。

ちょっと難しい(学者の間でも解決していない)部分がある章段なのですが、この「花や蝶やといそぐ」人々、というのは、定子が置かれている状況を考えれば、藤原道長・中宮彰子の勢力に靡く人々を揶揄している、という説に一票ですね。

 

あかねさす日に向かひても思ひ出でよ都は晴れぬながめすらむと

〔日向の地で晴れ渡る空の太陽に向かっても思い出すのですよ。都では私が長雨のなか憂鬱に物思いをしているだろうということを〕

 

やはり『枕草子』から「御乳母の大輔の命婦、日向へくだるに」という章段です。

大輔の命婦という女性、おそらく定子の乳母なのでしょうが、その人が宮仕えをやめて日向国へ下るというので、餞別の扇を渡しており、その扇に書かれていた和歌です。

「日に向かひ」という表現の中に、行く先である「日向」が詠み込まれており、「ながめ」は「長雨/眺め」の掛詞になっています。

 

この2首は『枕草子』中の定子の和歌では素晴らしい出来映えであるように思います。

やはり和歌は悲しみが発露になっているものにグッときます。

 

くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる

 

さて、この状況でも一条天皇は相変わらず定子皇后が大好きでして、定子はまたも懐妊し、前回と同じく生昌邸に赴きました。

 

ただし、今紹介した2首の和歌も生昌邸で詠んだものでしたが、いったん今内裏に戻っており、その後出産準備のためまた生昌邸に赴いたのです。

 

そして女二の宮、媄子内親王を出産。

産後の状態が悪く、定子は翌日崩御・・・

 

最悪の結末。

立て続けの出産に身がもたなかった皇后定子様は24歳の若さで亡くなってしまうのです・・・

 

自らの死を予感していた定子の残した辞世の歌が3首伝わっています。

 

夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき

〔夜通し交わした愛の誓いをもしお忘れでないなら、主上様は死んだ私を恋しく思って、きっと深い悲しみによる血の涙を流してくださるはず・・・・・・。願わくば、その涙の色を見てみたいものです〕

 

この歌は『後拾遺和歌集』のほか、多くの作品に掲載されているそうです。

定子様渾身のまさに「白鳥の歌」ですよね。

 

その多くの作品の中で、『無名草子』は読んだことがあり、この歌を目にした一条天皇の返歌(決して届くことのない返歌😢)は次のように載っています。

 

野辺までに心ひとつは通へども我がみゆきとは知らずやあるらむ

〔あなたが荼毘に付される野辺にまで、雪の降る中を我が心はあなたにぴったりと寄り添って通うのですが、私の行幸だとはお気づきでないのでしょうか〕

 

定子様のご意向により、火葬ではなく土葬になったらしいのですが、一条天皇は身分の制約もありその葬送に加わることはなかったようです。

でも心だけは最後まで寄り添っていくよ、ということです。

 

さて、定子様の辞世の歌、残りの2首。

 

知る人もなき別れ路に今はとてこころぼそくも急ぎたつかな

〔死出の旅路の道中には誰一人として知る人もいない、そんな別れ路に、もうこれまでと私は心細く思いながら急いで旅立つのです〕

 

煙とも雲ともならぬ身なれども草葉の露をそれとながめよ

〔火葬されない私は煙となることもなければ雲となることもありませんが、草葉の上に置く露を私と思って眺めてください〕

 


 

『枕草子』からうかがえるどこまでも明るいお人柄は信じて良いと思いますが(信じたい!)『枕草子』は、藤原定子に仕えた清少納言という女房が、主家の栄光を語るために残した文学作品であり、凋落した主家の悲惨な姿はありません。

むしろ、清少納言はそれを隠すことを己の使命と受け止めていたのかもしれません。

 

これまで長々と語ってきましたが、ここで定子と清少納言の人生を表にして一気に見渡してみましょう。

 

定子に忠誠を誓っていた清少納言は、定子が崩御した後、一定期間喪に服し、その後宮仕えを辞したのでしょう。

⑧定子の遺児たち

さて、エピローグです。

 

定子の遺児である脩子内親王・敦康親王・媄子内親王は宮中で養育されますが、末子の媄子内親王は9歳の幼さで亡くなってしまいました。

この遺児たち、当初は定子の妹が養育していましたが、その方も亡くなってしまいました。

その後、敦康親王は祖父道隆が亡くなっているとはいえ、将来の天皇候補から完全に外れたわけでもなく、また、新中宮である彰子にまだ子が生まれていなかったこともあり、中宮彰子に養育されることになりました。

道長にとって敦康親王は、彰子が男児を産まなかった場合の保険程度にしか考えていませんでしたが、彰子は愛情をこめて養育したそうです。

結果、彰子が男児を産むと(後の後一条天皇・後朱雀天皇)、道長にとって敦康親王は邪魔な存在でしかなくなりますが、道長の長男であり彰子の弟である頼通は敦康親王と非常に仲が良かったそうな。

 

敦康親王が20歳で崩御すると、正妻隆姫との間に子がいなかった頼通は、敦康親王の娘を養女に迎えています。

 

脩子内親王は一条天皇が溺愛していたこともあり、宮中で尊重されていたそうです。

また、この脩子内親王には相模という女房がお仕えしましたが、この相模はかの清少納言の長男・則長の嫁です。

意図が働いているのだとは思いますが、「縁」の強さというものを感じずにはいられません。

 

この辺りを簡略化して系図にするとこうなります。

 

 

藤原定子の人生を詳しく整理してきましたが、波乱に満ちていますよね。

大河ドラマの主役にするには亡くなるのが早すぎるような気がしますが、詳細なドラマ化を希望します。

三英傑(信長・秀吉・家康)と幕末はやり尽くしたでしょうから、検討して欲しいものです。

 

以上、今回は趣向を変えて、『枕草子』の中心人物である中宮定子のドラマティックな生涯についてでした。

 

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