『栄華物語』は平安時代に書かれた歴史物語で、赤染衛門が執筆に関わっていたという説があります。
ここでいう“栄華”とは主に藤原道長の栄華であり、従って歴史を客観的に見た史書のようなものではなく、藤原道長の栄華を中心に据えた主観的な物語です。
執筆者に推定されている赤染衛門は藤原道長の正妻・源倫子および道長の娘・藤原彰子に仕えた女房です。
ブログタイトルにある長徳というのは元号で、西暦でいうと995年~999年となり、一条天皇の治世でした。
その長徳年間に起きた政治上の事件が「長徳の変」です。
故藤原為光の女君たちは鷹司のとある所に住んでいらっしゃったのですが、そこに内大臣・藤原伊周が密かに通っていらっしゃいました。
“寝殿の上”とは三の君のことを申し上げた呼び名です。
寝殿の上は御容貌も気立てもこの上なく素晴らしくいらっしゃるので、父大臣が非常にかわいがって大切にお育て申し上げなさっていた方でした。
女の子は容貌こそが何よりも、というお考えで溺愛なさっていたのです。
その寝殿の御方のもとに内大臣殿はお通いなさっていたのでした。
その頃、花山法皇は同じ邸宅に暮らす四の君の御もとにお手紙などを差しあげなさり、好意を寄せていらしたのですが、とんでもないことだと、四の君はお聞き入れにならなかったので、たびたび法皇御みずからお出かけになり、好色な振る舞いをなさっていたのを、内大臣殿は、まさか四の君だとは思わず、自分と恋仲になっている三の君にちょっかいを出しているのだろう、と邪推なさって、弟君の中納言・藤原隆家に、
「とうてい黙って見過ごすことなどできぬ。どうしてくれようか」
とご相談申し上げなさると、
「まあ、お任せください。容易いことです」
といって、しかるべき者を二、三人ほどお連れになり、月がとても明るい夜、法皇が鷹司殿から御馬でお帰りになっていたところを、脅し申し上げる計略を定めていらっしゃったもので、法皇めがけて弓を射かけなさると、矢は御衣の袖を射貫いたのでした。
いくら猛々しくいらっしゃる院であっても、このような目に遭えば、どうして恐ろしく思わずにいらっしゃれるでしょうか。
言葉に出来ないほどの恐怖をおぼえなさり、御所にお帰りになると、正気を失って茫然としていらっしゃいました。
この件について、帝にも、時の権力者である道長殿にも、決してお話し申し上げなさらなかったのですが、それというのもこの事件がもとはと言えば法皇自身のふしだらな行為に起因するものだったので、さすがに気恥ずかしくお思いになって、このことは世間に広めまい、末代までの恥だと思ってお隠しになっていたのですが、どこからか漏れ出た噂を、道長殿も帝もお聞きになって、この当時の人の話題にのぼることといったらこの事件ばかりでした。
「法皇というのは非常に立派なものだが、この院のお心の持ちようが軽薄でいらっしゃるからこんな事件が起きるのだ。そうではあるが、非常に畏れ多く恐ろしいことだから、このまま何の処分もなく済まされることはまさかないだろう」
と世の人は思ったり言ったりしていた。
「長徳の変」とは簡単に言うとこの花山法皇暗殺未遂事件のことです。
まあ、殺意は無かったのかも知れませんが。
Wikipediaによる説明です。
中関白家なかのかんぱくけというのは藤原道隆の一族で、今回の話に出て来た藤原伊周これちかや藤原隆家らです。
中関白家で最も有名なのは、『枕草子』の作者・清少納言のご主人様である藤原定子(中宮定子)でしょう。
定子は伊周の妹、隆家の姉にあたる人で、一条天皇の中宮≒皇后です。
藤原道隆が早逝してしまったのが中関白家の不幸の始まりなのですが、伊周と隆家が早まって上のような事件を起こしたのが中関白家が一気に凋落していく直接の原因となりました。
伊周と隆家が流罪となるのは当然ですが、定子までもが出家してしまうのでした。
定子の出家は自尊心を傷つけられたことに加え、兄弟のしでかしたことへの謝罪の意味もあったろうと言われています。
当然、出家をしたら内裏にとどまるわけにいかないので、定子は正式に内裏を退きます。
しかし、定子が大好きだった一条天皇は、伊周らの罪を許し、定子を還俗げんぞくさせ内裏に呼び戻します。
還俗とは、俗世を捨てて仏門に入った人が再び俗世に戻ってくることを言います。
その後、道長の愛娘・藤原彰子が中宮となり、定子は皇后となるのでした。(二后並立)
それにしても、花山法皇は困った人です。
性欲が強すぎるお方だったようで、今回のエピソードもまさに性欲にまつわるものですね。
当時は仏門に入ったら異性と関係を持つことは厳禁でした。
僧侶の結婚は、鎌倉新仏教の浄土真宗によって初めて認められたものです。
僧侶の結婚を認めるという大胆な改革は、仏教界にとっては天変地異に等しかったのではないかと思います。
※親鸞聖人は妻帯者でした。
しかしまあ、それは今回の「長徳の変」からおよそ200年も後のこと。
ですから、花山法皇が出家した身でありながら女性のもとに通っていた、というのは破戒以外の何物でもなく、実にヤバいことだったわけです。
だから、花山法皇は自分が殺されかけたにも関わらず、口外できなかったのですね。
調べられれば自分が破戒行為をしていたことが露顕してしまいますから。
花山法皇は出家する前にもとんでもないことをやらかしています。
今回と同じかそれ以上にやばいことを。
それはもうここに書くのも憚られるようなハレンチ極まりないことです。
気になる方は「花山天皇 女性関係」とでも検索してみてください。
藤原兼家らの陰謀で出家させられた気の毒な天皇、というイメージを持っている方は、「いや、ひょっとして兼家が正解なんじゃないか」と思いが改まるかもしれません
ちなみに、「花山院の出家」については、当ブログでも過去に紹介しています(こちら)。
花山天皇が出家したという元慶寺(花山寺)
:
(原文)
かの殿の女君たちは鷹司なる所にぞ住み給ふに、内大臣殿、忍びつつおはし通ひけり。
寝殿の上とは三の君をぞ聞こえける。
御かたちも心もやむごとなうおはすとて、父大臣いみじうかしづき奉り給ひき。
女子はかたちをこそといふことにてぞ、かしづき聞こえ給ひける。
その寝殿の御方に、内大臣殿は通ひ給ひけるになむありける。
かかるほどに、花山院、この四の君の御もとに御文など奉り給ひ、気色だたせ給ひけれど、けしからぬこととて聞き入れ給はざりければ、たびたび御みづからおはしましつつ、今めかしうもてなさせ給ひけることを、内大臣殿は、よも四の君にはあらじ、この三の君のことならむと推しはかり思いて、わが御はらからの中納言に、
「このことこそやすからずおぼゆれ。いかがすべき」
と聞こえ給へば、
「いで、ただおのれにあづけ給へれ。いとやすきこと」
とて、さるべき人、二、三人具し給ひて、この院の鷹司殿より、月いと明きに、御馬にて帰らせ給ひけるを、おどし聞こえむと思しおきてけるものは、弓矢といふものしてとかくし給ひければ、御衣の袖より矢は通りにけり。
さこそいみじう雄々しうおはします院なれど、こと限りおはしませば、いかでかは恐ろしと思さざらむ。
いとわりなういみじと思し召して、院に帰らせ給ひて、ものもおぼえさせ給はでぞおはしましける。
これを公にも殿にもいとよう申させ給ひつべけれど、ことざまのもとよりよからぬことの起こりなれば、恥づかしう思されて、このこと散らさじ、後代の恥なりと忍ばせ給ひけれど、殿にも公にも聞こし召して、大方この頃の人の口に入りたることは、これになむありける。
「太上天皇は世にもめでたきものにおはしませど、この院の御心おきての重りかならずおはしませばこそあれ。さはありながら、いといとかたじけなく恐ろしきことなれば、このこと、かく音なくてはよもやまじ」
と世人言ひ思ひたり。
【語釈】
●かの殿
ここでは藤原為光のこと。この事件のころにはすでに他界していた。
●鷹司なる所
平安京にあった鷹司小路のどこか。そこに為光の邸宅があったということ。
●内大臣殿
ここでは藤原伊周これちかのこと。上述した通り、中宮定子の兄にあたる。『枕草子』にもよく登場し、大納言殿と呼ばれることが多いが、やはり内大臣殿と呼ばれている章段もある。
●花山院
花山天皇は第65代の天皇で、在位は984~986年と2年たらず。「院」というのは退位した帝の総称。
●中納言
ここでは藤原隆家のこと。伊周と中宮定子の弟にあたる。伊周ほどではないが『枕草子』にもやはり登場する。
●殿
ここでは藤原道長のこと。藤原伊周と政権争いを繰り広げていたが、この「長徳の変」で道長の勝利が完全に決定した。
●音なくては
三省堂詳説読解古語辞典で「音」を引くと、①耳に聞こえる音のすべてをいう。響き。音。物音。②声。とくに、鳥や獣の鳴き声。③うわさ。風聞。評判。④便り。音さた。訪れ。⑤答え。返事。と出てくる。ここでは文脈から、「伊周に○○の罰が下った」というような騒ぎや噂が立たないで済まされることを言っているのだと思われる。