戦後初の「ベストセラー小説」
「青い山脈」という言葉を思い浮かべた時、思い出す事は人それぞれである。
藤山一郎の「青い山脈」
今井正監督の「青い山脈」
などなど(^^)♪
私の場合は「百万人の作家」石坂洋次郎の「青い山脈」である。
さて、本書は戦後民主主義の啓発に努めた作品として名高い。
本書は決して「護憲、基本的人権の尊重」を手放しに推奨した作品ではない。本書では「戦前の価値観と戦後の価値観の衝突にどう向き合うか」が文学的主題になっている。作者自身も含めて、多くの人間の葛藤が展開されているのだ。確かに本書は、"戦前の価値観"、未成年の女性が未成年の男性に公衆の面前でアプローチしたり、いちゃついてはならないという価値観が否定され、最後に戦前の価値観と戦後の価値観を支持する者同士が手を携え合う「ハッピーエンド型」(そこが文学的欠点と言えば欠点だがww)である。しかし、結末に至るまでの作中人物の葛藤こそが本書の魅力である。
「ハイ。昔は恋愛は悪いことのように考えられておりましたけど、戦争に負けてからはいいことになったんだと思います」
「どうして昔は悪いことに考えられ、今はいいことに考えられているんですか?」
「いまは民主主義です」
(そうです、そうです)とそれに賛成する声が二つ三つ聞えた。
「さあ、そういう形式的な返答では困りますね」
雪子はくちびるを指先で抑えてちょっと考えこんだ。何故いろいろな物事が変わらなければならないのか、本質的なことは何一つ分からず、民主主義という言葉を、万能薬のように振り回しているのが、いまの世の中なのだと思う。(37頁)
そして、そういう暮し方の根底に横たわっているものは『要するに―』という、安易で消極的な人生観なんだよ。食事は"要するに"胃袋を満たせばいいんだし、男女は"要するに"夫婦となって家庭をつくればいい。むずかしいことはいわんで、間に合わせていけばいいという主義だね。(中略)
ただその場合、注意しなければならないことは、日本人は観念主義者だから、民主主義だの、恋愛だの、人間の基本的権利だのという言葉がもち出されると、それを迷信じみたものにしてしまい、それをうのみにしてしまえば、何もかもよくなるんだという、安易な考え方に陥りやすい。そこを警戒しなければならないわけだ…」(125頁)
こういう結果を総合して私が考えましたことは、彼等がそのころ政治運動に熱中したのは、理想を追求したいという一面もあろうが、危険とスリルと反抗に青春のはけ口を求めた―極端にいえば胸をドキドキさせるものなら何でもいい。そういう心理が底強く働いておったのだと思います。(中略)
もし、私共の生活にもっとたくさんの窓があけられておけば、政治運動にしても思想運動にしても一般的な教養にしても、もっと健全で自然な発展をとげるであろうと思われます。発散されないものが、頭に上って毒となるような、そういう生活の風習は、これから改められていかねばならないと思います…」(177頁)
なぜって、女と男の付き合いは、双方の家庭に根拠を置かないと、不健全なものになり易いからさ。…ぼくの両親など、男女七歳にして席を同じうせず、という教えで育てられ、新しい憲法が出た今日でも、感情の上ではやはりそう信じている。そこで息子のぼくが君を遊びに連れてくる。そしてきちんとした付き合いぶりを見てもらう。すると両親は、なあんだ、こんな事なら何でもないじゃないか、と思うようになる。オヤジ達だって決して野蛮人じゃないんだし、自分達が教え込まれてきた事と反対の事でも、それが正しいものだったら、だんだんに理解するようになる。
ぼくは子供として、両親が新しい時代に、少しずつでも目を覚ましてくれることがうれしいんだよ
また別な考え方をすると、各人が自分の身辺のことで、ぼくがやろうとするような、小さな心遣いを持ってこそ、新しい時代が築かれていくので、演壇で民主主義の演説をぶったり、頭に民主主義の知識を詰め込むだけでは、決して世の中の芯が変わっていくものではないと思うんだよ…」(187頁)
今日の書評はまさかの石原裕次郎\(^o^)/(笑)
そう、本書は石原裕次郎をモデルにして書かれた作品である
しかも、石原裕次郎は本書の映画化作品で北原三枝と共演し、後に結婚したのである♪
これぞ、偶然に偶然が重なる必然\(^o^)/
まさに「スターは運を持ってる」のですね(^^)♪
その意味でも本書「陽のあたる坂道」は名作であります♪
本書の魅力は何といっても主人公の田代信次なのですが、ここでは、タイトルの素晴らしさを挙げます。
タイトル「陽のあたる坂道」は田代家がある「陽のあたる坂道」からとられています。少し余談を言えば、最初にタイトルの意義を紹介できる作家はそれだけで素晴らしい。それだけで専業作家としての道は保証されたと言っても過言ではありません。
筆者は、田代家が「陽のあたる坂道」にあることを説明して、次のように述べています。
両側には大きな邸宅が並び、ヒバやサツキジンチョウゲなど、垣に植えられた樹々の緑が、目に沁みるように美しかった。将来、家庭をもち、子供を生み、年齢にして四十か五十になる頃には、自分もこの程度の家を住むようになりたいものだ―。たか子は、そんな思いで、両側の家を、一つ一つ念入りに眺めながら、明るい坂道を上っていった。(8頁)
つまり、「陽のあたる坂道」とは、うぶなヒロインたか子が「幸せな家庭」の象徴であると感じた家々が立並ぶ場所のことなのだ。しかし、それは所詮たか子のメルヘンにすぎなかった。本書は、そんなヒロインたか子が「恋愛とはなにか」「幸せな結婚とはなにか」を考えていく物語であると言えましょう。さらに言えば、たか子の登場をきっかけに起こる出来事を通じて、「幸せな家庭とはなにか」「幸せな家族とはなにか」を考えていく物語であるとも言えましょう。
蘊蓄はそれぐらいにして、好きな一節を♪
なんにも知らないトミ子は、踊ってる間に、信次と体が向き合うと、ニコニコ笑って、こっくりと頷いてみせたりした…。(人に踏みつけられたって…大していい目にもあわなくたって…人生はやっぱり楽しいものですよ…)とでも話しかけているようだ。(149頁)
「兄貴だってばかですよ。…彼はそんな生活をつづけることで、自分の中にある大切なものを、だんだんにすり減らしていってるんですからね…」
「いまの時代は、貴方の仰る『ある大切なもの』なんて必要のない時代だと思いますわ」
「―そうでもないでしょう…」
余韻をもたせて、それだけポツンと云う言葉には、ゆり子を身震いさせるような、ひそやかな力がこもっていた。(279頁)
「お前は最も私の痛いところをつきましたよ。そうなんだよ、信次。私にはそれができないんだよ。私は考えたんだけど、一人の人間のもっている可能性には、無限な一面もあるようだけど、同時に極めて浅い限界もあるような気がするんだよ。他人からみて、あんなことぐらいできないのかと思われそうなことが、本人にはどうしてもできないんだからね。…お前の場合でいえば、雄吉からそんな途方もない相談をもちかけられて、断りきれないところに、お前という人間の一面の限界があると思うんだよ。…私にもそれがあります。雄吉を暴き、雄吉を批判することは、私自身を暴くことのようで、私にはどうしてもそれができないんです…」(295頁)
私にとって、信次さんは、迷っている一匹の小羊のように思えるんです。九十九匹の恵まれた小羊はうっちゃっておいても、私は、迷っている一匹の小羊の傍らに行かなければならないという気がするんです。(366頁)
迷える小羊シリウスさんに来てくださる女性をいつの日か掴みたいものだ…
と妄想しつつ、書評を終えます(^^)♪
そう、本書は石原裕次郎をモデルにして書かれた作品である

しかも、石原裕次郎は本書の映画化作品で北原三枝と共演し、後に結婚したのである♪
これぞ、偶然に偶然が重なる必然\(^o^)/

まさに「スターは運を持ってる」のですね(^^)♪
その意味でも本書「陽のあたる坂道」は名作であります♪
本書の魅力は何といっても主人公の田代信次なのですが、ここでは、タイトルの素晴らしさを挙げます。
タイトル「陽のあたる坂道」は田代家がある「陽のあたる坂道」からとられています。少し余談を言えば、最初にタイトルの意義を紹介できる作家はそれだけで素晴らしい。それだけで専業作家としての道は保証されたと言っても過言ではありません。
筆者は、田代家が「陽のあたる坂道」にあることを説明して、次のように述べています。
両側には大きな邸宅が並び、ヒバやサツキジンチョウゲなど、垣に植えられた樹々の緑が、目に沁みるように美しかった。将来、家庭をもち、子供を生み、年齢にして四十か五十になる頃には、自分もこの程度の家を住むようになりたいものだ―。たか子は、そんな思いで、両側の家を、一つ一つ念入りに眺めながら、明るい坂道を上っていった。(8頁)
つまり、「陽のあたる坂道」とは、うぶなヒロインたか子が「幸せな家庭」の象徴であると感じた家々が立並ぶ場所のことなのだ。しかし、それは所詮たか子のメルヘンにすぎなかった。本書は、そんなヒロインたか子が「恋愛とはなにか」「幸せな結婚とはなにか」を考えていく物語であると言えましょう。さらに言えば、たか子の登場をきっかけに起こる出来事を通じて、「幸せな家庭とはなにか」「幸せな家族とはなにか」を考えていく物語であるとも言えましょう。
蘊蓄はそれぐらいにして、好きな一節を♪
なんにも知らないトミ子は、踊ってる間に、信次と体が向き合うと、ニコニコ笑って、こっくりと頷いてみせたりした…。(人に踏みつけられたって…大していい目にもあわなくたって…人生はやっぱり楽しいものですよ…)とでも話しかけているようだ。(149頁)
「兄貴だってばかですよ。…彼はそんな生活をつづけることで、自分の中にある大切なものを、だんだんにすり減らしていってるんですからね…」
「いまの時代は、貴方の仰る『ある大切なもの』なんて必要のない時代だと思いますわ」
「―そうでもないでしょう…」
余韻をもたせて、それだけポツンと云う言葉には、ゆり子を身震いさせるような、ひそやかな力がこもっていた。(279頁)
「お前は最も私の痛いところをつきましたよ。そうなんだよ、信次。私にはそれができないんだよ。私は考えたんだけど、一人の人間のもっている可能性には、無限な一面もあるようだけど、同時に極めて浅い限界もあるような気がするんだよ。他人からみて、あんなことぐらいできないのかと思われそうなことが、本人にはどうしてもできないんだからね。…お前の場合でいえば、雄吉からそんな途方もない相談をもちかけられて、断りきれないところに、お前という人間の一面の限界があると思うんだよ。…私にもそれがあります。雄吉を暴き、雄吉を批判することは、私自身を暴くことのようで、私にはどうしてもそれができないんです…」(295頁)
私にとって、信次さんは、迷っている一匹の小羊のように思えるんです。九十九匹の恵まれた小羊はうっちゃっておいても、私は、迷っている一匹の小羊の傍らに行かなければならないという気がするんです。(366頁)
迷える小羊シリウスさんに来てくださる女性をいつの日か掴みたいものだ…
と妄想しつつ、書評を終えます(^^)♪
大学卒業の日に気が狂って、プロレタリア文学を読んだ私(笑)
さて、今やストライキが話題になる日は皆無といって等しいですね。
さらに言えば、「春闘」や「メーデー」なんて今や「セレモニー」に過ぎないですね(^^)♪
その意味で、本書は若干時代遅れの感が否めないですね。
ところで、本書は、政府や軍部によるプロレタリア運動(文学)弾圧に際して絶版となり、戦後再出版されるわけですが、戦後再出版の同書の中で、著者は本書の欠点を自白します。
したがって、「太陽のない街」はいろいろと弱さを持っている。第一には、この闘争を指導した、当時非合法だった日本共産党の実体を詳しく知ることができなかったので、正確に描き出せないでいること。例えば、日本労農党との関係など特に不明瞭である。第二は、それと結びつくことだけれど、当時福本イズム的偏向が、この闘争にも如実にでており、作者がそれを批判的に描き出せないでいることである。第三に、それらの弱さが、作品の通俗性とあいまって、労働者が事実上もっている健康なリアリズムを、いくらか怪奇な、歪んだものとした傾きがある。
*福本イズム=運動を政治闘争に発展させるためには,理論闘争によって,労働者の外部からマルクス主義意識を注入すること
果たして本書の欠点は理論的見地から労働運動を描かなかった点なのか。的外れでしょう。本書の欠点は「重要なシーンでの心理描写の欠如」に尽きます。例えば、妹お加代を亡くした姉高枝が、大川社長の孫娘悦子を毒殺するに至るまでの心理描写の欠如を挙げることができましょう。さらに、理論的見地から本書の争議運動を描いた場合、本書の価値はさらに半減するでしょう。作中人物の心理描写が曖昧なところに、曖昧な理論を重ねるわけですから。
ゆえに本書は、文学的見地からではなく、歴史的見地から評価されるべき作品と言えましょう。左派的勢力に対する弾圧がいつ起こるともしれない中で、争議運動の実態を描いた作者の文学的使命感は評価されるべきでしょう。また作品自体の評価すべき点としては「タイトル」のネーミングセンスです。
「太陽のない街」=汚水が流れている谷底の街で、労働者が住んでいる。
で、タイトルと本書の文学的主題を結び付けるのが次の一節。
その千川どぶが、この「谷底の街」の中心であるように、それから距たり、丘陵に沿って上るほど二階建てもあり、やや裕福な町民が住んでいた。それは、洪水を避け、太陽に近づくことであり、生活の高級さを示すバロメーターのようなものであった。
●好きな一節
―諸君、俺達は、今日までどんな思いで闘ってきたか―そして君等が会社へ入っちまったら、俺達はどうなる?
黒岩は、目の色を変えて、一座の先鋒になっている柱の傍らの鳥打ち(鉄砲で鳥を打つ人)に詰め寄った。
―だが、ちょっとお前さん―
すぐ黒岩の足許にいる五十ばかりの昔仕込みの職人らしい青ざめた男が、手をあげて言った。
―俺だって、道楽に、なけなしの小口預金をはたいて電車に乗って、深川のくだりから来たんじゃねえや、おりゃあ、これで、半年も遊んでるんだ―嬶(かかあ)や子供を日干しにして、この正月が越せねえんだよ。
彼は、古いマントを蝙蝠のように動かした。
―おりゃあ、半年どころか、一年にもならぁい―背後の方でも新しい声が応じた。
―冗談じゃねえ、おだやかに帰して貰うぜ。つまんねえ、食うか食われるかの境目だ。
―そうだとも、スキャップ(代替要員雇入れ禁止)だか、シャベル(争議の武器)だか知らねえが―よう、争議団の人、威嚇しないで帰しとくれよ。
空気はますます悪くなった。失業者達は口々に喚きたてた。黒岩は、とうとう爆発したように怒鳴った。
-じゃあ、貴様達は、どこまでも我々を裏切って、スキャップ(会社側に再雇用されること)になるっていうのか?
萩村は出ていこうとしたが、人がいっぱいですぐ黒岩のところまで行けなかった。
―何だ、裏切りとは?
真ん中辺りにいた、釣鐘マントの苦学生風の若い男が、つと立ち上がって黒岩に詰め寄って行った。
―どうして僕達が裏切りだ。僕は君等とは何の関係もないんだ。僕が自由意思で会社に雇われることは、民法でも指定されてる通り、正当なんだぞ
苦学生は、見事言い負かした気であった。
―そうだとも、争議団は争議団、俺は俺だ。
失業者達は立ち上がりかけた。すると、
―このスキャップめっ。
黒岩が、いきなり、その苦学生の顔面にメリケンを入れた。釣鐘マントは不意をくらってひっくりかえった。室内は総立ちになった。
―待ってくれ、待ってくれ…。
取っ組み合いの黒岩や松本を、失業者達から引き離して萩村は言った。
*スキャップ=労働組合がストライキに入った場合、使用者が他から労働者を臨時に雇用して操業を継続すること
さて、今やストライキが話題になる日は皆無といって等しいですね。
さらに言えば、「春闘」や「メーデー」なんて今や「セレモニー」に過ぎないですね(^^)♪
その意味で、本書は若干時代遅れの感が否めないですね。
ところで、本書は、政府や軍部によるプロレタリア運動(文学)弾圧に際して絶版となり、戦後再出版されるわけですが、戦後再出版の同書の中で、著者は本書の欠点を自白します。
したがって、「太陽のない街」はいろいろと弱さを持っている。第一には、この闘争を指導した、当時非合法だった日本共産党の実体を詳しく知ることができなかったので、正確に描き出せないでいること。例えば、日本労農党との関係など特に不明瞭である。第二は、それと結びつくことだけれど、当時福本イズム的偏向が、この闘争にも如実にでており、作者がそれを批判的に描き出せないでいることである。第三に、それらの弱さが、作品の通俗性とあいまって、労働者が事実上もっている健康なリアリズムを、いくらか怪奇な、歪んだものとした傾きがある。
*福本イズム=運動を政治闘争に発展させるためには,理論闘争によって,労働者の外部からマルクス主義意識を注入すること
果たして本書の欠点は理論的見地から労働運動を描かなかった点なのか。的外れでしょう。本書の欠点は「重要なシーンでの心理描写の欠如」に尽きます。例えば、妹お加代を亡くした姉高枝が、大川社長の孫娘悦子を毒殺するに至るまでの心理描写の欠如を挙げることができましょう。さらに、理論的見地から本書の争議運動を描いた場合、本書の価値はさらに半減するでしょう。作中人物の心理描写が曖昧なところに、曖昧な理論を重ねるわけですから。
ゆえに本書は、文学的見地からではなく、歴史的見地から評価されるべき作品と言えましょう。左派的勢力に対する弾圧がいつ起こるともしれない中で、争議運動の実態を描いた作者の文学的使命感は評価されるべきでしょう。また作品自体の評価すべき点としては「タイトル」のネーミングセンスです。
「太陽のない街」=汚水が流れている谷底の街で、労働者が住んでいる。
で、タイトルと本書の文学的主題を結び付けるのが次の一節。
その千川どぶが、この「谷底の街」の中心であるように、それから距たり、丘陵に沿って上るほど二階建てもあり、やや裕福な町民が住んでいた。それは、洪水を避け、太陽に近づくことであり、生活の高級さを示すバロメーターのようなものであった。
●好きな一節
―諸君、俺達は、今日までどんな思いで闘ってきたか―そして君等が会社へ入っちまったら、俺達はどうなる?
黒岩は、目の色を変えて、一座の先鋒になっている柱の傍らの鳥打ち(鉄砲で鳥を打つ人)に詰め寄った。
―だが、ちょっとお前さん―
すぐ黒岩の足許にいる五十ばかりの昔仕込みの職人らしい青ざめた男が、手をあげて言った。
―俺だって、道楽に、なけなしの小口預金をはたいて電車に乗って、深川のくだりから来たんじゃねえや、おりゃあ、これで、半年も遊んでるんだ―嬶(かかあ)や子供を日干しにして、この正月が越せねえんだよ。
彼は、古いマントを蝙蝠のように動かした。
―おりゃあ、半年どころか、一年にもならぁい―背後の方でも新しい声が応じた。
―冗談じゃねえ、おだやかに帰して貰うぜ。つまんねえ、食うか食われるかの境目だ。
―そうだとも、スキャップ(代替要員雇入れ禁止)だか、シャベル(争議の武器)だか知らねえが―よう、争議団の人、威嚇しないで帰しとくれよ。
空気はますます悪くなった。失業者達は口々に喚きたてた。黒岩は、とうとう爆発したように怒鳴った。
-じゃあ、貴様達は、どこまでも我々を裏切って、スキャップ(会社側に再雇用されること)になるっていうのか?
萩村は出ていこうとしたが、人がいっぱいですぐ黒岩のところまで行けなかった。
―何だ、裏切りとは?
真ん中辺りにいた、釣鐘マントの苦学生風の若い男が、つと立ち上がって黒岩に詰め寄って行った。
―どうして僕達が裏切りだ。僕は君等とは何の関係もないんだ。僕が自由意思で会社に雇われることは、民法でも指定されてる通り、正当なんだぞ
苦学生は、見事言い負かした気であった。
―そうだとも、争議団は争議団、俺は俺だ。
失業者達は立ち上がりかけた。すると、
―このスキャップめっ。
黒岩が、いきなり、その苦学生の顔面にメリケンを入れた。釣鐘マントは不意をくらってひっくりかえった。室内は総立ちになった。
―待ってくれ、待ってくれ…。
取っ組み合いの黒岩や松本を、失業者達から引き離して萩村は言った。
*スキャップ=労働組合がストライキに入った場合、使用者が他から労働者を臨時に雇用して操業を継続すること