【書評】石坂洋次郎『陽のあたる坂道』 | うんちくコラムニストシリウスのブログ

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今日の書評はまさかの石原裕次郎\(^o^)/(笑)
そう、本書は石原裕次郎をモデルにして書かれた作品であるぴかぴか(新しい)
しかも、石原裕次郎は本書の映画化作品で北原三枝と共演し、後に結婚したのである♪

これぞ、偶然に偶然が重なる必然\(^o^)/exclamation & question
まさに「スターは運を持ってる」のですね(^^)♪

その意味でも本書「陽のあたる坂道」は名作であります♪
本書の魅力は何といっても主人公の田代信次なのですが、ここでは、タイトルの素晴らしさを挙げます。

 タイトル「陽のあたる坂道」は田代家がある「陽のあたる坂道」からとられています。少し余談を言えば、最初にタイトルの意義を紹介できる作家はそれだけで素晴らしい。それだけで専業作家としての道は保証されたと言っても過言ではありません。

筆者は、田代家が「陽のあたる坂道」にあることを説明して、次のように述べています。

 両側には大きな邸宅が並び、ヒバやサツキジンチョウゲなど、垣に植えられた樹々の緑が、目に沁みるように美しかった。将来、家庭をもち、子供を生み、年齢にして四十か五十になる頃には、自分もこの程度の家を住むようになりたいものだ―。たか子は、そんな思いで、両側の家を、一つ一つ念入りに眺めながら、明るい坂道を上っていった。(8頁)

 つまり、「陽のあたる坂道」とは、うぶなヒロインたか子が「幸せな家庭」の象徴であると感じた家々が立並ぶ場所のことなのだ。しかし、それは所詮たか子のメルヘンにすぎなかった。本書は、そんなヒロインたか子が「恋愛とはなにか」「幸せな結婚とはなにか」を考えていく物語であると言えましょう。さらに言えば、たか子の登場をきっかけに起こる出来事を通じて、「幸せな家庭とはなにか」「幸せな家族とはなにか」を考えていく物語であるとも言えましょう。

蘊蓄はそれぐらいにして、好きな一節を♪

 なんにも知らないトミ子は、踊ってる間に、信次と体が向き合うと、ニコニコ笑って、こっくりと頷いてみせたりした…。(人に踏みつけられたって…大していい目にもあわなくたって…人生はやっぱり楽しいものですよ…)とでも話しかけているようだ。(149頁)

「兄貴だってばかですよ。…彼はそんな生活をつづけることで、自分の中にある大切なものを、だんだんにすり減らしていってるんですからね…」
「いまの時代は、貴方の仰る『ある大切なもの』なんて必要のない時代だと思いますわ」
「―そうでもないでしょう…」
 余韻をもたせて、それだけポツンと云う言葉には、ゆり子を身震いさせるような、ひそやかな力がこもっていた。(279頁)

「お前は最も私の痛いところをつきましたよ。そうなんだよ、信次。私にはそれができないんだよ。私は考えたんだけど、一人の人間のもっている可能性には、無限な一面もあるようだけど、同時に極めて浅い限界もあるような気がするんだよ。他人からみて、あんなことぐらいできないのかと思われそうなことが、本人にはどうしてもできないんだからね。…お前の場合でいえば、雄吉からそんな途方もない相談をもちかけられて、断りきれないところに、お前という人間の一面の限界があると思うんだよ。…私にもそれがあります。雄吉を暴き、雄吉を批判することは、私自身を暴くことのようで、私にはどうしてもそれができないんです…」(295頁)

 私にとって、信次さんは、迷っている一匹の小羊のように思えるんです。九十九匹の恵まれた小羊はうっちゃっておいても、私は、迷っている一匹の小羊の傍らに行かなければならないという気がするんです。(366頁)


迷える小羊シリウスさんに来てくださる女性をいつの日か掴みたいものだ…

と妄想しつつ、書評を終えます(^^)♪