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うんちくコラムニストシリウスのブログ

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大阪府教委、起立斉唱を命令
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1880323&media_id=2

■君が代訴訟判決、都教委「不起立繰り返される」
(読売新聞 - 01月17日 10:40)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1880202&media_id=20

■国旗・国歌訴訟 最高裁判決で混乱収まるのか
(読売新聞 - 01月17日 01:22)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1879855&media_id=20

■停職・減給は重すぎ違法…君が代不起立で最高裁
(読売新聞 - 01月16日 18:30)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1879535&media_id=20

君が代処分「裁量権の範囲内」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1879345&media_id=2

「事情必要」君が代訴訟で最高裁が初の判断
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1879750&media_id=88

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1879861&media_id=2



まず、結論から言うと

①今回の最高裁判決については、積極的に支持する訳ではないが、さしたる反対論を唱える訳でもない


②「起立による国歌斉唱」については、一公務員として、一法学部生として、この前の最高裁判決が示しているように、「式の円滑な進行を図るために」も、当然すべきことだと思うほっとした顔ぴかぴか(新しい)


③「君が代」の歴史については知っているが、思想抜きにして、純粋に「音楽」として「君が代」好きだし、カッコいいとうちは思っているので、「愛国心」なんて大それた言葉を使うつもりもさらさらなく、うちは「君が代」好きだし、いつでも歌う。



結局、公務員として、法学部生として、うちの中でのこの問題は、「評論する次元」の問題ではないというのが雑感かな。



ただ①の判決については、たぶん裁判所は苦しみに苦しんで判決出したと思うほっとした顔


で、うち自身のことに関して言えば、もしうちが君が代起立して歌うことについて、人事の方に嫌がらせ受けたとしても(一応想定w)うちの起立斉唱するという信念は変わらないから、堂々と起立斉唱したいと思いますほっとした顔ぴかぴか(新しい)
「向こう傷を恐れるな」

この言葉を聞いたことのある人なら必ず次のことを思い出すであろう。

そう、かつて「最強の頭取」と呼ばれた磯田一郎と、日本一の都市銀行の権威を誇っていた「住友銀行」である。


そして、本書の主人公である西川善文と言えば、郵政民営化後の日本郵政社長というイメージが強いが、元々はこの磯田一郎氏の薫陶を受けた住友銀行の頭取で、現在の三井住友銀行を創った人物でもある。



本書の特質すべき点は、何と言っても著者西川氏が行ってきた「不良債権処理」や安宅産業や日本郵政といった企業の「破綻処理や再建」の過程や具体的な取組みが描かれている点にある。

そして、そうした過程や取組みが、かつて「乾いた雑巾を絞るに絞りきった銀行」と言われた住友銀行のDNAを体現したかのような「徹底した合理化」に基づいて、事業の「選択」と「集中」が行われていることである。


上記の特徴が現れているのは次のあとがきの部分である。


「傷んだ企業の傷んだ事業と傷んだ資産を建て直すとは、雇用と事業をどこまで守るべきなのかを痛みを持って決断することである。

私たちは全能の神ではない。一人の人間としては一人でも多くの従業員の雇用を守り、一円でも多い利益につながるような事業にしたいと願う。だが、その願いを聞いてもらえるほど世の中は寛容ではない。

したがって血を流すことはあっても、何を最後の一線として守るかの決断を、神ではないただの人間の集団がしなければならない。」


「これは本書を書くにあたってのささやかな願いであったのだが、本書を読んでくださった皆さんが、私たちが合理性と現実の間で悶々としながら決断を繰り返してきたことを感じ取ってもらえたならば幸いだ。


ビジネスはドライで、合理的なものである。これを否定する人は誰もいない。マスコミの記者も会社に属しながらビジネスとしての報道を続けているのだから、この合理性と無縁でいることはできない。

では、なぜビジネスの現場における合理性を、合理性ではなく根拠なき情緒で批判するのであろうか。このような態度が誠実ではないことは、当のマスコミを含めた誰の目にも明らかであろうと思う」

300頁



そして、西川氏は、「徹底した合理主義に基づく経営者」としての自己の人生について、次のように述べる

新月経営者として
「諸先輩と私とでは、同じ頭取といっても似て非なるものがあった。私よりも数代前までの頭取は、「雅楽の首席奏者」というもう一つの優美な意味そのものの、まさに屏風を背に座っているような頭取で、お公家様の品を備えた頭取も少なくなかった。」
1頁

「私が銀行員として働いてきた時代が、穏やかで上品で屏風の前の頭取でいることを許さなかった。」
2頁


「大手銀行の頭取を務めた人間の自叙伝であるならば、大規模プロジェクトへの融資による日本産業への貢献とか、組織の飛躍的な拡大をもたらした経営策の実践とか一つや二つは華やかな話題があるものだが、本書ではそうしたことには触れていない。そういうことがなかったのではない。それを懐かしむのんびりした時代ではなかったのだ。」299頁


新月自身について
「一刻も安穏とすることは許されなかった。スピード力と力のある決断がつねに求められた。ただただ、ひたすら全力で走ってきた」
2、3頁

「私自身はむしろ、銀行を取り巻く社会や経済の環境が根底から変わり続ける中で、従来の枠に囚われずに、思いの丈をためらわずに発し、実行できた幸せな時間であったと感じている」299頁




思えば、西川氏が退陣した後の日本郵政グループは、再び赤字に転落し、西川氏が第6章、7章で明らかにしている日本郵政再建の具体策が、斎藤次郎社長の下で進んでいるとは言い難い



日本郵政グループの経営実態のヤバさぶりから、日本郵政グループの実質破綻を避けるための再建手段として郵政民営化に賛成した筆者としては、現在の日本郵政グループでは、近いうちに事実上経営破綻すると見ている。


西川氏については、確かにかんぽの宿の事業評価および譲渡価額自体は適正ではあったものの、決定プロセスの透明性や情報開示が適正とは言えない面があり、辞任は正当であったかもしれないが、

どう見ても、「小沢一郎による恩情人事」でしかない斎藤次郎氏と、「経営者としての手腕」で比較すれば、結果は明らかである。


小沢支持者でもある筆者は、以前この恩情人事の指摘があったツイッターに対し、「ご指摘は誠にその通りです」と回答したことがある。


小沢支持者としては「情緒的に」支持できる斎藤社長ではあるが、果たして「日本郵政グループを率いる経営者」として「適格」だったかという問いについては、いつも疑念が尽きない。

新年一発目から、さっそく空気を読まずに、つまらない、いつもの日記と言わんばかりの新年一作品目。

内容は、作家村上春樹氏のデビュー作で、群像新人賞を受賞し、芥川賞の選考にも上がった『風の歌を聴け』と、村上春樹氏の文学というか、『風の歌を聴け』以降に出された作品との関係性についての論評です。


という訳で、書評に入る訳ですが、

私の『風の歌を聴け』の評価は、5段階で言えば、
2/5です。

理由としては、

①とりわけ前半部分において、独自の"文章論"(文章を書くということの意味で)やハートフィールドの仕掛けを作りながら、そうした文章論や仕掛けと、同書で描かれる僕等の登場人物の最後との関連性が希薄であり、前半で文章論を書いた意義がなくなった結びとなっている

②上で述べたこととも関連するが、結にあたる部分は、確かに、後のあらすじが言うように「青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた」と言うべき表現と言えるのかもしれないが、この結びまでいけば、もはや「乾いた表現」というより、「無味乾燥な表現」と言わざるを得ず、デビュー作の時点から無味乾燥な表現良しとも言っているとも取れる著者の価値観も含めると、一種の抵抗感を感じざるを得ない

要するに、

前半部分の主張を表現したいなら、「小説」ではなく、「コラム」や「エッセイ」として本来は出すのが望ましいと言える作品であり、「小説」にしては、小説が人を惹きつける魅力の一つである「登場人物の心情の変化に伴う行動の過程」の題材がいかんせん物足りなく、より厳選された行動の過程を書くべきであったというのが、私の読後感です。


さて、普段ならば、この後、理由を本書の部分に照らし合わせて述べる訳ですが、

今回は、最初に書いたように、『風の歌を聴け』と、『風の歌を聴け』以降に出された作品との関連性や、違いについて述べながら、好き嫌いの評価が最も分かれるとも言われる日本を代表する小説家である村上春樹氏について考えてみたいと思います。

<上の議論をするために>
『風の歌を聴け』についての文壇の評価、すなわち他の小説家の選考評価を中心に見たいと思います。

既に述べたように、この『風の歌を聴け』は、歴史ある群像新人賞第22回受賞作品であり、芥川賞第81回選考作品でもあります。

紙幅の関係から、芥川賞選考意見を見て、その後、議論の中心に合わせて、群像新人賞の選考意見を載せます。

<第81回芥川賞選考意見>
①大江健三郎(代表作:『万延元年のフットボール』)
「今日はアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向づけにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。」

②遠藤周作(代表作:『沈黙』)
「憎いほど計算した小説である。しかし、この小説は反小説の小説と言うべきであろう。そして氏が小説のなかからすべての意味をとり去る現在流行の手法がうまければうまいほど私には「本当にそんなに簡単に意味をとっていいのか」という気持にならざるをえなかった。こう書けば村上氏は私の言わんとすることを、わかってくださるであろう。とにかく、次作を拝見しなければ私には氏の本当の力がわかりかねるのである。」

③吉行淳之介(代表作:『驟雨』(しゅうう))
「今回、票を入れた作品はなかった。しいてといわれれば、村上春樹氏のもので、これが群像新人賞に当選したとき、私は選者の一人であった。芥川賞というのは新人をもみくちゃにする賞で、それでもかまわないと送り出してもよいだけの力は、この作品にはない。この作品の持味は素材が十年間の醗酵の上に立っているところで、もう一作読まないと、心細い。」

④丸谷才一(文芸評論家、代表作:『年の残り』)
「アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしています。もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでしょう。それに、作品の柄がわりあい大きいように思う。」

⑤瀧井孝作(俳人、私小説作家)
「このような架空の作りものは、作品の結晶度が高くなければ駄目だが、これはところどころ薄くて、吉野紙の漉きムラのようなうすく透いてみえるところがあった。しかし、異色のある作家のようで、私は長い眼で見たいと思った。」

 この芥川賞選考委員の意見と自分の読後感を重ね合わせた時、自分が伝えたいこの本の書評に一番近いのは、やはり遠藤周作氏の選考意見だと思う。


●なぜ村上春樹氏は好き嫌いが分かれるのか~村上春樹氏をどう評価するか~

 ところで、この芥川賞選考意見、そして群像新人賞選考意見で、おおむね共通しているのではないかと思われる意見がある。

 それは、「村上春樹氏の評価は『風の歌を聴け』以降の作品を見なければできないということ」「そして、この『風の歌を聴け』という作品は、以降の作品次第で評価が変わるということ」ではなかろうか。

実際に、全文を引用しなかった群像新人賞の選考意見でも

吉行淳之介
「この人の危険な岐れ目は、その「芸」のほうにポイントが移行してしまうかどうかにある。」

佐々木基一(文芸評論家)
「こういう作品はかなり手間ひまかけて作らないと、軽くて軽薄になるおそれがあることに、作者が留意してくれることを望む。」

という意見がある。

 つまり、村上春樹氏という人の小説を論じる場合には、『風の歌を聴け』単体だけで論じるべきではないというのが、正しき文芸評論のあり方だと思うし、またそれ以降の彼の作品との比較で言えば、以降の作品では、間違いなく『風の歌を聴け』の表現技法の良いところだけが活かされ、かつ悪いところは確実に剥ぎ落されている、それは「彼が一流の小説家である、あるいは、になった証である」と言えるのではなかろうか。

 例えば、この『風の歌を聴け』の最大の良さは、デレク・ハートフィールドとタイトル『風の歌を聴け』が織りなす仕掛け(125~127頁)(もっとも、この仕掛けについては、私はバカなのでまったく気付けず、webで知ったのだがw)なのだが、このような仕掛けが、『風の歌』以降の作品では、ふんだんに、しかも私のようなバカの読者にも理解できるように構成されているのは、村上氏を単なるアメリカ小説の「メッセンジャー」ではなく、日本を、いや世界を代表する小説家に押し上げた一因であったであろう。


●最後に
 以上評論してきたものの、村上春樹氏という著者の評価を別に、「風の歌を聴け」という作品を読んだ時、村上春樹氏の支持者には申し訳ないが、私は、やはり選考委員がこの「風の歌を聴け」を「芥川賞」に与えなかったのは正しい判断だと思う。
 年が変わったので2年前、市川真人『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか-擬態するニッポンの小説』(幻冬舎新書)という新書が出たが、その問いを『なぜ村上春樹は「風の歌を聴け」で芥川賞を与えられなかったか』に変えれば、その答えは簡潔明瞭一つだと私は思う。

 『風の歌を聴け』は、その3年前に芥川賞をとった村上龍の『限りなく透明に近いブルー』とは違い、単に「芥川賞受賞向きの若者小説」ではないからだと。

 戦後、登場人物が若者であり、日本の芥川賞を受賞した作品の特徴と言えば、石原慎太郎の『太陽の季節』しかり、村上龍しかり、いずれも「登場人物が若者ならではの読後感」を誰もがありありと感じられる作品であったのではなかろうか。無論、感受性や読後感が小説のすべてだとは言うまい。しかし、これらの作品は、明らかに「若者」を中心に焦点があてられ、それらの登場人物の行動や心情に、作家が出しうるすべての感受性を体現したかのような表現でもって描かれており、「若者小説」特有の本質とも言うべき「常識からの脱却」「常識の破壊」がしっかりと誰もが分かるように表現されている。

 その意味では、村上春樹の小説は好き嫌いが分かれるという現象は、「典型的な若者小説らしくない若者小説」という意味で、本質を物語っているのかもしれない。ちなみに、うちが村上春樹さんの本で一番好きなのは、小説ではなくエッセイの『やがて哀しき外国語』(その次は『スプートニクの恋人』だけど、あれは典型的な若者小説と結構親和感あるしねw)だから、やっぱりうちはあまり村上さんの小説が好きではない部類なのだろうと思う。