【長編コラム】「風の歌を聴け」と村上春樹「文学」の正しき評論 | うんちくコラムニストシリウスのブログ

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新年一発目から、さっそく空気を読まずに、つまらない、いつもの日記と言わんばかりの新年一作品目。

内容は、作家村上春樹氏のデビュー作で、群像新人賞を受賞し、芥川賞の選考にも上がった『風の歌を聴け』と、村上春樹氏の文学というか、『風の歌を聴け』以降に出された作品との関係性についての論評です。


という訳で、書評に入る訳ですが、

私の『風の歌を聴け』の評価は、5段階で言えば、
2/5です。

理由としては、

①とりわけ前半部分において、独自の"文章論"(文章を書くということの意味で)やハートフィールドの仕掛けを作りながら、そうした文章論や仕掛けと、同書で描かれる僕等の登場人物の最後との関連性が希薄であり、前半で文章論を書いた意義がなくなった結びとなっている

②上で述べたこととも関連するが、結にあたる部分は、確かに、後のあらすじが言うように「青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた」と言うべき表現と言えるのかもしれないが、この結びまでいけば、もはや「乾いた表現」というより、「無味乾燥な表現」と言わざるを得ず、デビュー作の時点から無味乾燥な表現良しとも言っているとも取れる著者の価値観も含めると、一種の抵抗感を感じざるを得ない

要するに、

前半部分の主張を表現したいなら、「小説」ではなく、「コラム」や「エッセイ」として本来は出すのが望ましいと言える作品であり、「小説」にしては、小説が人を惹きつける魅力の一つである「登場人物の心情の変化に伴う行動の過程」の題材がいかんせん物足りなく、より厳選された行動の過程を書くべきであったというのが、私の読後感です。


さて、普段ならば、この後、理由を本書の部分に照らし合わせて述べる訳ですが、

今回は、最初に書いたように、『風の歌を聴け』と、『風の歌を聴け』以降に出された作品との関連性や、違いについて述べながら、好き嫌いの評価が最も分かれるとも言われる日本を代表する小説家である村上春樹氏について考えてみたいと思います。

<上の議論をするために>
『風の歌を聴け』についての文壇の評価、すなわち他の小説家の選考評価を中心に見たいと思います。

既に述べたように、この『風の歌を聴け』は、歴史ある群像新人賞第22回受賞作品であり、芥川賞第81回選考作品でもあります。

紙幅の関係から、芥川賞選考意見を見て、その後、議論の中心に合わせて、群像新人賞の選考意見を載せます。

<第81回芥川賞選考意見>
①大江健三郎(代表作:『万延元年のフットボール』)
「今日はアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向づけにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。」

②遠藤周作(代表作:『沈黙』)
「憎いほど計算した小説である。しかし、この小説は反小説の小説と言うべきであろう。そして氏が小説のなかからすべての意味をとり去る現在流行の手法がうまければうまいほど私には「本当にそんなに簡単に意味をとっていいのか」という気持にならざるをえなかった。こう書けば村上氏は私の言わんとすることを、わかってくださるであろう。とにかく、次作を拝見しなければ私には氏の本当の力がわかりかねるのである。」

③吉行淳之介(代表作:『驟雨』(しゅうう))
「今回、票を入れた作品はなかった。しいてといわれれば、村上春樹氏のもので、これが群像新人賞に当選したとき、私は選者の一人であった。芥川賞というのは新人をもみくちゃにする賞で、それでもかまわないと送り出してもよいだけの力は、この作品にはない。この作品の持味は素材が十年間の醗酵の上に立っているところで、もう一作読まないと、心細い。」

④丸谷才一(文芸評論家、代表作:『年の残り』)
「アメリカ小説の影響を受けながら自分の個性を示さうとしています。もしこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでしょう。それに、作品の柄がわりあい大きいように思う。」

⑤瀧井孝作(俳人、私小説作家)
「このような架空の作りものは、作品の結晶度が高くなければ駄目だが、これはところどころ薄くて、吉野紙の漉きムラのようなうすく透いてみえるところがあった。しかし、異色のある作家のようで、私は長い眼で見たいと思った。」

 この芥川賞選考委員の意見と自分の読後感を重ね合わせた時、自分が伝えたいこの本の書評に一番近いのは、やはり遠藤周作氏の選考意見だと思う。


●なぜ村上春樹氏は好き嫌いが分かれるのか~村上春樹氏をどう評価するか~

 ところで、この芥川賞選考意見、そして群像新人賞選考意見で、おおむね共通しているのではないかと思われる意見がある。

 それは、「村上春樹氏の評価は『風の歌を聴け』以降の作品を見なければできないということ」「そして、この『風の歌を聴け』という作品は、以降の作品次第で評価が変わるということ」ではなかろうか。

実際に、全文を引用しなかった群像新人賞の選考意見でも

吉行淳之介
「この人の危険な岐れ目は、その「芸」のほうにポイントが移行してしまうかどうかにある。」

佐々木基一(文芸評論家)
「こういう作品はかなり手間ひまかけて作らないと、軽くて軽薄になるおそれがあることに、作者が留意してくれることを望む。」

という意見がある。

 つまり、村上春樹氏という人の小説を論じる場合には、『風の歌を聴け』単体だけで論じるべきではないというのが、正しき文芸評論のあり方だと思うし、またそれ以降の彼の作品との比較で言えば、以降の作品では、間違いなく『風の歌を聴け』の表現技法の良いところだけが活かされ、かつ悪いところは確実に剥ぎ落されている、それは「彼が一流の小説家である、あるいは、になった証である」と言えるのではなかろうか。

 例えば、この『風の歌を聴け』の最大の良さは、デレク・ハートフィールドとタイトル『風の歌を聴け』が織りなす仕掛け(125~127頁)(もっとも、この仕掛けについては、私はバカなのでまったく気付けず、webで知ったのだがw)なのだが、このような仕掛けが、『風の歌』以降の作品では、ふんだんに、しかも私のようなバカの読者にも理解できるように構成されているのは、村上氏を単なるアメリカ小説の「メッセンジャー」ではなく、日本を、いや世界を代表する小説家に押し上げた一因であったであろう。


●最後に
 以上評論してきたものの、村上春樹氏という著者の評価を別に、「風の歌を聴け」という作品を読んだ時、村上春樹氏の支持者には申し訳ないが、私は、やはり選考委員がこの「風の歌を聴け」を「芥川賞」に与えなかったのは正しい判断だと思う。
 年が変わったので2年前、市川真人『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか-擬態するニッポンの小説』(幻冬舎新書)という新書が出たが、その問いを『なぜ村上春樹は「風の歌を聴け」で芥川賞を与えられなかったか』に変えれば、その答えは簡潔明瞭一つだと私は思う。

 『風の歌を聴け』は、その3年前に芥川賞をとった村上龍の『限りなく透明に近いブルー』とは違い、単に「芥川賞受賞向きの若者小説」ではないからだと。

 戦後、登場人物が若者であり、日本の芥川賞を受賞した作品の特徴と言えば、石原慎太郎の『太陽の季節』しかり、村上龍しかり、いずれも「登場人物が若者ならではの読後感」を誰もがありありと感じられる作品であったのではなかろうか。無論、感受性や読後感が小説のすべてだとは言うまい。しかし、これらの作品は、明らかに「若者」を中心に焦点があてられ、それらの登場人物の行動や心情に、作家が出しうるすべての感受性を体現したかのような表現でもって描かれており、「若者小説」特有の本質とも言うべき「常識からの脱却」「常識の破壊」がしっかりと誰もが分かるように表現されている。

 その意味では、村上春樹の小説は好き嫌いが分かれるという現象は、「典型的な若者小説らしくない若者小説」という意味で、本質を物語っているのかもしれない。ちなみに、うちが村上春樹さんの本で一番好きなのは、小説ではなくエッセイの『やがて哀しき外国語』(その次は『スプートニクの恋人』だけど、あれは典型的な若者小説と結構親和感あるしねw)だから、やっぱりうちはあまり村上さんの小説が好きではない部類なのだろうと思う。