この言葉を聞いたことのある人なら必ず次のことを思い出すであろう。
そう、かつて「最強の頭取」と呼ばれた磯田一郎と、日本一の都市銀行の権威を誇っていた「住友銀行」である。
そして、本書の主人公である西川善文と言えば、郵政民営化後の日本郵政社長というイメージが強いが、元々はこの磯田一郎氏の薫陶を受けた住友銀行の頭取で、現在の三井住友銀行を創った人物でもある。
本書の特質すべき点は、何と言っても著者西川氏が行ってきた「不良債権処理」や安宅産業や日本郵政といった企業の「破綻処理や再建」の過程や具体的な取組みが描かれている点にある。
そして、そうした過程や取組みが、かつて「乾いた雑巾を絞るに絞りきった銀行」と言われた住友銀行のDNAを体現したかのような「徹底した合理化」に基づいて、事業の「選択」と「集中」が行われていることである。
上記の特徴が現れているのは次のあとがきの部分である。
「傷んだ企業の傷んだ事業と傷んだ資産を建て直すとは、雇用と事業をどこまで守るべきなのかを痛みを持って決断することである。
私たちは全能の神ではない。一人の人間としては一人でも多くの従業員の雇用を守り、一円でも多い利益につながるような事業にしたいと願う。だが、その願いを聞いてもらえるほど世の中は寛容ではない。
したがって血を流すことはあっても、何を最後の一線として守るかの決断を、神ではないただの人間の集団がしなければならない。」
「これは本書を書くにあたってのささやかな願いであったのだが、本書を読んでくださった皆さんが、私たちが合理性と現実の間で悶々としながら決断を繰り返してきたことを感じ取ってもらえたならば幸いだ。
ビジネスはドライで、合理的なものである。これを否定する人は誰もいない。マスコミの記者も会社に属しながらビジネスとしての報道を続けているのだから、この合理性と無縁でいることはできない。
では、なぜビジネスの現場における合理性を、合理性ではなく根拠なき情緒で批判するのであろうか。このような態度が誠実ではないことは、当のマスコミを含めた誰の目にも明らかであろうと思う」
300頁
そして、西川氏は、「徹底した合理主義に基づく経営者」としての自己の人生について、次のように述べる

「諸先輩と私とでは、同じ頭取といっても似て非なるものがあった。私よりも数代前までの頭取は、「雅楽の首席奏者」というもう一つの優美な意味そのものの、まさに屏風を背に座っているような頭取で、お公家様の品を備えた頭取も少なくなかった。」
1頁
「私が銀行員として働いてきた時代が、穏やかで上品で屏風の前の頭取でいることを許さなかった。」
2頁
「大手銀行の頭取を務めた人間の自叙伝であるならば、大規模プロジェクトへの融資による日本産業への貢献とか、組織の飛躍的な拡大をもたらした経営策の実践とか一つや二つは華やかな話題があるものだが、本書ではそうしたことには触れていない。そういうことがなかったのではない。それを懐かしむのんびりした時代ではなかったのだ。」299頁

「一刻も安穏とすることは許されなかった。スピード力と力のある決断がつねに求められた。ただただ、ひたすら全力で走ってきた」
2、3頁
「私自身はむしろ、銀行を取り巻く社会や経済の環境が根底から変わり続ける中で、従来の枠に囚われずに、思いの丈をためらわずに発し、実行できた幸せな時間であったと感じている」299頁
思えば、西川氏が退陣した後の日本郵政グループは、再び赤字に転落し、西川氏が第6章、7章で明らかにしている日本郵政再建の具体策が、斎藤次郎社長の下で進んでいるとは言い難い
日本郵政グループの経営実態のヤバさぶりから、日本郵政グループの実質破綻を避けるための再建手段として郵政民営化に賛成した筆者としては、現在の日本郵政グループでは、近いうちに事実上経営破綻すると見ている。
西川氏については、確かにかんぽの宿の事業評価および譲渡価額自体は適正ではあったものの、決定プロセスの透明性や情報開示が適正とは言えない面があり、辞任は正当であったかもしれないが、
どう見ても、「小沢一郎による恩情人事」でしかない斎藤次郎氏と、「経営者としての手腕」で比較すれば、結果は明らかである。
小沢支持者でもある筆者は、以前この恩情人事の指摘があったツイッターに対し、「ご指摘は誠にその通りです」と回答したことがある。
小沢支持者としては「情緒的に」支持できる斎藤社長ではあるが、果たして「日本郵政グループを率いる経営者」として「適格」だったかという問いについては、いつも疑念が尽きない。