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1957年下半期の第38回芥川賞は受賞作をめぐって熾烈を極めた。
受賞で判断が分かれたのは、大江健三郎「死者の奢り」と開高健「裸の王様」であった。
そして、大江の「死者の奢り」は川端康成、井上靖、舟橋聖一が推薦するも敗れる。

そして、翌年の1958年上半期の第39回芥川賞をむかえる。
この時の争点はただ一つ。
それは、大江健三郎を「新人作家」と見なせるかどうかだけであった。
つまり、大江の「飼育」の出来栄えに関しては、そもそも芥川賞の選考において問題なかったのである。

ということで、「死者の奢り」は前に書いたので「飼育」

●内容について
芥川賞受賞に相応しい作品。文句無し。むしろ、さしたる文句も許さない作品。
この間、田中慎弥氏の芥川賞受賞作品「共喰い」のラストがひどすぎると酷評したが、それと比較すれば、「飼育」のラストは神懸かったように秀逸である。

「飼育」の良さを語るだけの時間が今の私にはないので、あえて二番煎じの書評にします(^^)♪

・黒人兵の暴力的な死によって生ずる、「敵か味方か」という二律背反の選択肢だけが存在する戦争の構造と、「同質性」と「排他性」が絶えず共存する共同体意識の再認識

・戦前に日本人が黒人兵の捕虜に与えた屈服感や、村と町の上下関係を描くことで、優越感に浸る者が劣等感を抱く者に対して向ける「軽蔑」

ところで「大江健三郎」と言うと、よく「左翼」というイメージで語られることが多いが、直接的な答えではないけれど、「戦争」という文学的テーマ を背負った小説家なのだろうと思う。もっとも、大江自身が「左翼的イデオロギー」を全面に押し出した小説家かと言うと、そこまでは言い切れない気がするけ どね。

私の大江健三郎評は、「安保闘争」とか「学生運動」とかにすぐ馴染めないけど、「敗戦」の総括を自分自身がよく消化できないままに画一的に終わらされ、経済最優先で復興が突き進んだことに、不満と諦観の目で見てきた小説家という感じかな。

この評が正しいとすれば、しばしば言及される村上春樹氏は大江健三郎氏と似ている説は、こういうところにルーツがあるのではないかなと思う。

ちなみに、私は、政治思想に関しては、「革新的保守主義」(矛盾した造語だねw)という立場です。憲法改正、9条改正は賛成ですw

●その他
農作物とか動物とか難解な漢字多しw
まさにクイズ番組によく出てくる語句多しw
大江健三郎が東大文学部在学時代に書いた第38回芥川賞候補作品[m:66]
読後感なら3/5だが、それはひとえに私が無知ゆえの数字である。
作品的価値としては、十分に4/5の作品である。

●同作品の文体について
よく大江の文体は難しいと言われる。
しかし、同作品と芥川賞受賞作の「飼育」は、少なくとも私自身に関して言えば、そんなことはなかったというのが感想。

ただ同作品については、「覆われてい、」とする意味がまったく分からない(笑)
ぶっちゃけ、最初「誤植ktkr!」とか思ったwww
なぜ「覆われていて」ではダメなのかとリアルに思うw

●同作品の内容について
同作品は、はっきり言えば「普通に読書すると、表現したいことは大体分かるし、文章も洗練されている。でもどこか物足りない、だから何?と感じる」作品だと思う。

この意味は、何も差別的な意味で言ったのではない。
私自身無論上記の「普通に読書した人」の部類に入る。

何が言いたいかというと、同作品は、「表層的にすぐ見える内容以上に伝えたい何かがある。しかし、その何かを掴めるほど私たちは創造力豊かな生物ではない」ということをまざまざと見せつけられる作品だと思う。

以下では、「私たちが掴むことのできない何か」について述べたい。

「私たちが掴むことのできない何か」、それはずばり「タイトル」だと思う。

これが同作品の最大にして最高の難問だと私は思う。
同作品のタイトルは、普通に読めば、「死者の奢り」ではなく、「生者の奢り」でもあてはまるものだと思う。

「生者」としての登場人物は、「僕」、女子学生、管理人、教授、助教授、医学生など。
そして、これらの登場人物は、程度の差はあれ、いずれも「<物>としての死者」あるいは「死者の側にいる生者」の存在を拒絶したり、賤しい目で軽蔑している。

では、なぜ「生者の奢り」ではなくて、「死者の奢り」なんだろう。

①後に「生者」の側としてではなく、「死者」の側の人間として見なされた主人公「僕」が、"死体アルバイト"の昼休憩まで、死者に対して奢っていたことを表現したいのか?

②(兵隊の死体) 戦争を起すのは今度は君たちだ。俺たちは評価したり判断したりする資格を持っているんだ。(中略)
ところが(兵隊)の眼には、確信がなくて、ひどく卑劣だったかもしれないな。(26頁)

という死者の側からの生者に対する判断・評価、とりわけ地下の死体処理室という閉ざされ、監禁された状態に存在する、意識が終わった<物>であるはずの死体が、生者を評価したり、判断する象徴を「死者の奢り」と表現しているのか?


もし多数決という手段で、タイトルの意味を決めるなら、②に近い解釈が一般的ではないかと、ルール違反ながら解釈者として思う。

しかし、仮に②のように理解したとしても、何かしっくりこない、どこか手から水が漏れて滴り落ちているような気がしてならない。

とこれまた私は思うのだ。

では漏れている原因は何であろうか。

以下は完全に私の解釈である。

今生きている人間、すなわち私を含めた「生者」は、実は肉の塊りを持つにすぎない<物>としての「死者」である。私たちはいついかなる時でも 「死者」の側に足を踏み入れてしまう存在なのである。いや、もうすでに私たちは「死者」であるのだ。それなのに、私たちはひたすら「生者」でありたいと他 者を蔑み、「死者」や<物>として見なし、自己を肯定し続けるのだ。それこそ他ならぬ「死者の奢り」にすぎない、と。

根拠部分は次の箇所です。

「するとね」と女子学生は自分も声だけ笑いながら粗い睫を伏せていった。「私のおなかの皮膚の厚みの下にいる、軟骨と粘着質の肉のかたまり、肉の紐につながって肥っている小さいかたまりが、この水槽の人たちと似ているように思えてくるのよ」

「君はとても疲れているんだな」と僕は女子学生をもてあましていった。
「両方とも人間にちがいないけど、意識と肉体との混合ではないでしょ? 人間ではあるけれど、肉と骨の結びつきにすぎない」

<物>であるという事だな、人間でありながら、と僕は思ったが、女子学生の言葉を理解できないふりをし、手袋と作業衣とを着け始めた。僕は女子学生が、おそらくは疲れのせいで饒舌になり、馴れなれしすぎるのを厄介に感じていた。

「思いつきにすぎないけど」と自分も作業衣の袖に腕を差しこみながら興味をなくした声で女子学生はいった。
「思いつきさ」と僕も冷淡にいった。
(38-39頁)


しかし、この小説が教えてくれるのは、思想や解釈ではない。

"一つの思想や解釈で小説を決め付けようなんて横暴だよ"

それこそが"奢り"じゃないのかい

大江の朴訥とした語りが聞こえる。
俺の親父は本を読まない。

あいつの本の粗末な扱いは完全に本に失礼だと思う。

そんな親父とある日仕事に出掛けたわけ。

で、仕事暇になってさ、親父が手持ちぶさたにしてるわけ。

俺、マンガでも買ってきてやるかってことで、本屋に行った。

そしたら急に何でか分からないけど、この本が頭に浮かんだ。


そういえば親父矢沢永吉好きで、成りあがりの話してたっけ。

親父に渡した。

元々本を粗末に扱うからあいつ、バイブル失くしちゃったのなきっと、そりゃ嬉しそうに貪り読むわけよ。
それから、あの本の行方を俺は知らない。

あいつに本、と言ってもマンガだけど、本貸したら、いつもボロボロになって返ってくるんだけど、成りあがり、返ってこないね一度も

でも、親父今度は失くしてない気がする。

だって、親父の人生そのもんだもん、「成りあがり」

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読者へ

 オレは、昔のことを思い出すとマジになる。これは素晴らしいことだ。二十八歳。スーパースターと呼ばれ、所得番付に出るようになっても怒っている。怒ることに真剣になる。

 銭が正義だ。こう思ってしか生きてこれなかった。ほんとは銭が正義だなんてウソなんだ。それは良く判ってる。でも、そう思わなければ生きてこれなかった自分に腹が立つ。

 攻撃することが生きることだ。負い目をつくらず、スジをとおして、自分なりのやり方でオトシマエをつけてきた。休むわけにはいかない。やらねばならぬことは、まだある。

 この本に書いたことは、あくまでもオレ自身の背景だ。読者は、特殊な例だと感じるかもしれない。でも、オレは、だれもがBIGになれる"道"を持っていると信じている。

五十三年六月                 矢沢永吉
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そんな親父の生き様を息子は生きたい。