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参考『NHKスペシャル 証言ドキュメント―永田町・権力の興亡』
第1回 1993~1995年より

【はじめに】
 今年は、消費税増税、衆議院解散をめぐって、去年同様政局が繰り広げられると予想される。さて、今年は良くも悪くも「小沢一郎」という人の政治生命最後の年だと思う。小沢氏は今年4月に自身の裁判を控え、かつ今年9月には現在の衆議院の任期で最後の民主党代表選挙が行われる年でもある。
 今、小沢氏は「金権体質」や「政局重視主義」からしごく国民から嫌われている人物でもある。そこで、今日は「小沢一郎」という人の「業績」について考えてみたい。

●小沢一郎の「業績」とは?
私が考える小沢氏のずばり次の二点ではないかと思う。
①政権交代が比較的容易な「小選挙区制」の導入
②55年体制の象徴である「社会党」の崩壊、「保守的左派」勢力の衰退。

 なお、小沢一郎の「失敗」については、2月上旬くらいに詳しい資料を乗せて書こうと思うが、ずばり「新進党」ではないかと私は思う。ただ私が考える「業績」自体をここで論理づけて説明することはしない。単なる「一意見」ぐらいで構わない。皆様が以下の参考資料をご覧になられれば、せめてもの幸いである。

【内容】
・16年間にわたる戦いについて

小沢一郎「そりゃしんどいさ。自民党にいればね、個人的な政治生活としては、もう楽々ね、過ごしてこれたわけだから。もちろん政治の世界だから、権力闘争という一面があることは否定できないことだ。だけど、やはりその権力闘争の目的・目標が何なのかということなんだね。それは、政権を変えること自体が権力闘争であり、政局なんだからね」

・自民党と手を組み、小沢の非自民連立政権を倒した社会党最後の委員長村山富市。結果として自民党の延命を手助けしたと後悔する。

村山富市「自民党を延命させたかもしれない。結果としてはね。だから、僕を総理にしてだね、助けてきたというのはやっぱり政権に復帰するためだからね」

・戦後55年体制に変わる新しい政治を模索してきたこの16年間。私たちは何を選び、何が失われてきたのか

野中広務「高邁な政治なんて目指してませんよ。ただ今この難局をどう乗り切るか、そういう危機感があったから、早く収拾しようと。そういう気持ち以外何にもなかったですね」

・小沢一郎は、自ら担いだ細川政権の短命がその後の長い混迷につながったと語った。

小沢一郎「その16年前か、細川政権。これも政権交代のスタートになったわけだけど。うまくやれば、もっともっとはやく今日と同じような結果を出せたのかもしれないけども。細川さんが辞めないでね、頑張ればね、もう一年頑張ればね、自民党はバラバラになってたね。本当にその意味ではね、残念だったけども」

・冷戦終結、バブル崩壊。右肩上がりの経済成長の時代は終焉した。政界のドン金丸信の逮捕によって政官業の癒着が明らかとなり、戦後日本システムはあらゆるところで行き詰っていた。こうした中で政治の大きな地殻変動が起こった。政治改革を果たせなかった宮澤内閣への不信任決議。これに続く非自民連立政権の成立は、55年体制を一気に崩そうとした小沢一郎が仕掛けたものだった。小沢は、政権を担える政党を作り、2つの政党が競い合う体制を作ろうとした

小沢一郎「2つ以上の勢力が存在してはじめて、互いに競争し互いに切磋琢磨して政権を担っていく。その結果については責任を取る。そういう政治に移行していかなければならないと思います」

・政権をどう奪うのか。小沢の準備は離党の半年前から進められていた。元連合会長の山岸章。傘下に800万人の組合員を抱え、社会党に大きな影響力を持っていた。93年2月、山岸は小沢から極秘会談を持ちかけられた。非自民政権を作るため、社会党との関係を仲介してほしいとの話だった。小沢と山岸はNTT分割問題で対立した間柄だった。

山岸章「お開きになる寸前に、すっと下座の方へ行って、畳に手をついて、『会長、私たちの身柄は会長にお預けてします。だからよろしくお願いします』と。こういう挨拶をされたね。だから僕もこれは演技だとか外交辞令でやってるんじゃないと。これは真剣勝負だなと。こう思ったから、我々もまともに受けて立たなければならないと。こういう気持ちになったんです」

・社会党など5党に手を回し、政権を奪うつもりだった小沢。しかし、小沢が連携を期待した社会党は惨敗。5党合わせても過半数に足りなかった。鍵を握ったのは、35議席を獲得した日本新党の細川だった。

・右から左まで理念も政策も異なる8党派。細川をシンボルに掲げて一気にまとめ上げる。小沢のその政治力は自民党の中枢で磨かれたものだった。

・小沢は27歳で初当選、田中角栄に弟子入りした。利益分配と数の力で権力を掌握した田中政治を間近で学ぶ。47歳の若さで自民党幹事長にまで昇りつめた。竹下とともに経世会を旗揚げ、いずれは総理になる男と目されていた。この頃から、小沢は、根回しを重視する調整型の日本政治に疑問を持ち始める。冷戦終結後のグローバルな変化に対応できないと感じていたからだ。小沢は自民党の中枢にいながら、政権交代が起きやすい小選挙区制に変えるべきだと唱えた。

小沢一郎「55年体制というのは、自民党与党と万年野党の社会党という構図ですからね。これじゃあ、民主主義の機能を何も発揮できないという話で。何としてもこれを変えにゃくちゃいけない気持ちが強かったんですけどね。やっぱり、本来の民主主義というのは政権を変えるということだから。そのためには小選挙区がいいという主張を持ち続けてきた。ただやっぱり、自民党内ではね、まー中選挙区で政権取れてるのに、わざわざ利害調整を難しいしちめんどくさいことやってまで小選挙区やる必要なかろうという意見が圧倒的でね。そりゃ金丸さんだって、竹下さんだって、心の中じゃ反対だったからね。安全保障の問題だってこれも反対で。まー小沢が一生懸命言うから黙ってるっていう感じ。だから、その意味では、もっとも親しいそういう人達でさえも現状維持という考え方が強かったからね。だから結局自民党体制内改革というのは不可能だということを、自分としては認識したと。」

・92年経世会金丸会長の後継者争いで小沢は小渕恵三に敗北。翌年、政治改革という旗を掲げて党を割って出た。離党して何を目指すのか。直前に出版された「日本改造計画」に小沢の宣言が書かれている。

・小沢は、日本政治最大の問題は55年体制の「ぬるま湯構造」だと指摘。経済成長だけを追う万年与党自民党と抵抗を武器に分け前だけを要求する万年野党社会党の慣れあい政治。小沢はそれを壊すことが政治改革だと記し、政党が真っ向から競い合う形を作ろうとした。政権交代が起きやすい小選挙区制の導入。これこそが小沢の政治改革だった。

・細川連立政権は政治改革を旗印に掲げ、小選挙区制の導入を最大の使命と位置付けた。政治改革への強い意志。支持率は70%に達した。細川を旗に立て、自らは裏方に回った小沢の戦略は当たった。しかし、この後この政権の脆さが顕わになっていく。

・元さきがけ党首武村正義。小沢の説得で細川連立政権に参加し官房長官を務めた。同じ自民党出身同士であっても、経世会出身の小沢とは目指す政治が異なると当初から感じていた。

武村正義「横に経世会という伝統的な大きな集団があって。田中角栄さん、竹下登先生等等の流れを汲んでいる集団で。自民党の良い点も悪い点も象徴的に持っている派閥だと思うんですね。カネの問題についても経世会的な体質が問われているんだと、これを自民党からなくさなきゃいけないとこれが私たち若い仲間の考えだったものですから。経世会のど真ん中から出てきた人たちとすぐに政権を組むというのはありえないと、私は思ったんです」

・元々小沢とではなく自民党との連立を考えていた武村。官房長官として政府与党のまとめ役を果たさず、度々自民党の幹部と会っていると連立内で問題視されていった。

武村正義「情報収集も含めて、自民党がどんな雰囲気か、どういう考えか。だから竹下さんのとこに行ったことも1,2回あります。後藤田先生にも会ったりしてましたし。それはある種官房長官の務めだぐらいに私は思ってました。それがやっぱり反発や誤解を招いた面もあるんですね」

・12月小沢ら連立幹部との間で「武村を切れ」という声が強まった。政治改革と予算編成、どちらを最優先するかという対立だった。

武村正義「政治改革が優先だと。まず何が何でも政治改革を先に予算編成をやるんだと。その発想を全然聞いてないものですからね」

小沢一郎「うーん、だからそこが大きな目標というか理念を持っての権力闘争なのか、あるいは、現実を現実路線を踏まえながらの改革路線なのかということの若干の違いかもしれんね。予算編成はもちろん大事だけれども、予算編成が一月遅れたからって別に国民生活に大きな支障をきたすっていうわけじゃないんで。その意味では、政治改革の方がはるかに国の将来にとって大きいと。そう僕は今でも考えてるね。」

・小沢の周到な根回しと政権交代を求める世論の声に押され準備なく連立に参加した社会党。政治改革に対する党内の意見は統一されておらず、村山は小沢主導で改革が進むことに不安を感じていた。

村山富市「お互いに議論しあってね、そして合意点を見出していくという努力をしっかりしていくということが連立政権の中では大事なんでね。ありゃ意見が違うから排除するとしたんじゃ連立政権の意味がないわけだから。やっぱり二重権力支配という言葉が言われる使われてるような政治手法についてはね、良くないなと思ってましたね」

・94年1月、政治改革をめぐって小沢と村山の立場の違いが鮮明になる。小選挙区制は党の衰退につながると反対者が多かった社会党。参議院で左派20人が造反し、政治改革法案は否決された。直後に開かれた首脳会談で、党内をまとめきれなかった村山は小沢に向かって深々と頭を下げた。

村山富市「社会党の中にね、連立政権をしっかり支えていこうという層と、批判的な層とある訳ですよ。だから参議院で否決された時に「シメた」と思った層がおるわけだよね。僕らも含めて若干そうだけどね。小選挙区制に元々反対なんだからね」

・小沢に頭を下げながらも、内心では法案が否決されたことにほっとしていた村山

小沢一郎「対立的にね、所詮自社の55年体制なんだよね。そこでまあ、上手く仲良く裏ではね、やってるのにね、あえて対立的な制度にしたり、そういうことを目指したくないというね、悪く言い方をすれば「ぬるま湯」の方がいいと感じが強かったかもしれないね」

・先送りになると誰もが思っていた政治改革法案。ここで小沢が動く。細川総理と自民党の河野総裁のトップ会談で一気に成立に持ち込んだ。世論の反発を恐れた自民党から妥協を引き出したのだ。村山は社会党の意向を聞くこともなく決められたことに怒った。

村山富市「小選挙区制をね、参議院で否決されたものがね、こんな経過で生き返ってきてね。しかも前よりも悪くなるなんてことは許されんと。あの時に、僕はもうだんびら(日本刀)を振り上げてだね、もう委員長を辞めると言って抵抗してだねやったらどうなったかと思う。そりゃそんなことは無視されてやられたかもしれんけどね、それぐらい抵抗があったあの時にはね。僕には。いつまでも悔いが残るけどね」

・政治改革を成し遂げた細川内閣。しかし旗を失って政権は分裂していった。5日後、突然発表された税率7%の国民福祉税構想。高齢化社会に備え大胆な財源の転換を図ろうとした小沢が高い内閣支持率を背に進めようとしたものだった。しかし、武村や村山は政権内で合意ができていないと小沢を公然と批判。亀裂は尾を引き、2か月後さきがけと社会党は連立を離脱していった。

武村正義「連立全体が一回議論をして、直すとこは直して、総括をまずすべきだと主張をしたんです。そんなことする必要はないと言ってピシャっと答えが返ってきたものですから、それならもう外れますと。連立を離脱することになったんですけど。」

村山富市「ことごとに社会党が邪魔になったと。彼からすればね。足を引っ張ったと。上手くいかなかったと。向うからもう社会党はいらないと言って切られたような格好だからね。もうそこまでされたんだったらね、それはもうしょうがないじゃないかと」

細川護煕「政治改革の次の旗っていうのはないわけだから。まとまりようがないんですね。私は行財政改革を旗にすべきだと思っていましたけども。連立の中ではそんなことを思ってる人ばかりじゃありませんから。(小沢氏の存在について)そりゃあまぁ人間誰でも良いところもあれば悪いところもあるんでね。ただもうちょっとそこのところを与党の代表者会議などで上手にこなしていてくれたら良かったのになぁと思うことがありますね」

・なぜ自ら作った細川政権を壊すことになったのか、小沢に問うた。

記者「当時よく言われたのが「強引すぎる」と。ワンマンで、みんな嫌になって言うこと聞かなくなるということが言われたわけですが」

小沢一郎「そうだろうね。55年体制に変わる体制を我々は目指したんだから。それを懐かしがっている人にとって苦しい話だわね。政策的にもあらゆる意味で変えなきゃ、新政権の意味がないわけだから、同じことをやってたんじゃ。だからそこはそうだったかもしれない。ただもう少しね、説得しながらね、やる方法もあったかもしれないね」

・一刻も早く政権を奪い返さないと自民党はもたない。小沢に対する警戒感はなりふり構わぬ政権奪回劇につながっていく。目をつけたのは連立を離脱した社会党左派だった。利用したのは国際情勢。当時北朝鮮の核開発疑惑をめぐって米朝関係が緊張し、日本政府の対応が問われた。当時、積極的に国際的な責任を果たすべきだという「普通の国」論を展開していた小沢。社会党内から「タカ派」の主張だと警戒されていた。

亀井静香「考えが違うなんてそんなこと言ってたら、自民党の中だってさ考え方いろいろ違いがあるでしょ。社会党なんかでも同じだって。その程度の差だからそういう問題というのは。大きな面で一緒だから。一緒にやっていこうと。政策面でも一緒になってさ」

村山富市「55年体制の関係というかね、良いも悪いもね、お互いに噛みしめあって経験を積んできてるという意味ではね、全然知らぬ者より心が通じるものがあったかもしれない」

・94年6月、細川の後総理大臣となった羽田孜が政権運営に行き詰まり総辞職。政局の鍵を握ったのは、連立を離脱したさきがけと社会党がどちらにつくかだった。武村と村山はハト派政権を作るという構想で合意した。しかし小沢は受け入れなかった。

武村正義「進んで、喜んでというわけではなく仕方なくという思いで持ちかけたが、本当に門前払いという形で。ところが自民党がニコニコして「わかった、この通り、無条件で賛成する」と。こっちはにべもなく断って。それで瞬間的に自社さの流れが出来たというか。まー自民党がまた巧妙に乗ってきたと、全面的に乗ってきたと」

・ところが社会党は一枚岩ではなかった。小沢非自民連立政権への復帰を目指す右派は自社連立を野合だと批判、左右別々に集会が開かれるなど党は分裂寸前となった。そして自民党も割れていた。社会党とは組めないという議員たちが海部元総理を擁立しようと動き出したのだ。小沢は彼らを取り込み自民党を分裂させようとした。

小沢一郎「渡辺(美智雄)さんについては僕が話をしたんだけど、海部さんについては僕が話したわけじゃないんだ。ただ海部さんの周りの人が海部さんでいこうというから、いや本人が決断するならそれはそれでいいことじゃないかということになったんだがね。もうちょっと時間あったら絶対負けなかったんだけどね。時間があまりにもなさすぎた」

・社会党に総理の椅子まで差し出して政権奪回を目指す自民党の執念と海部擁立で自民党をかき回し分裂させようという小沢。261対214。自民党の執念が小沢を押さえた。小沢が作った非自民政権は10カ月で終わった。

森喜郎「幹事長室帰ったら亀井君が一人立ってましたよ。で私が入っていったら、亀井さんがもうみるみるに涙をいっぱい出して私にしがみついてね、泣きじゃくるんですよ。良かった、ありがとうありがとうって」

・自社さ連立に参加した武村。55年体制に変わるものを目指して自民党を飛び出しながら、最後は反小沢という人間関係や感情で動いたことを今複雑な思いで振り返る。

武村正義「政界全体に一定のインパクトを与えられるような存在になろうというのが志でした。にも関わらず現実にはそのなんとか好きだとか嫌いだとかという、分裂するとか対立するとか、そういう風なドラマに巻き込まれていったのは、そりゃもう大変恥ずかしくも思うし、残念にも思っています。そりゃ筋じゃないだろうと言われればそうですねと答えるしかないし。でも現実にそういう要素で政治の局面、いわゆる政局というものが、私どもが関わった政局が動いたことも認めざるを得ないように思います。これからもそういうことがまだまだあり得ると言わなければなりません」

・55年体制の破壊を目指した小沢。長年続いた55年体制に風穴を開けた10カ月に終った政権交代を今こう総括する。

小沢一郎「自社政権ができるということは、もう普通の常識から言ったら考えられないことが結果として出来たわけだ。ということはやっぱりその55年体制の維持ということでもって自社が一致したということだね。やっぱりね、既存の権力ね、いくら腐ってもね、やっぱり長い権力というのはね、非常に国民の生活の隅々にまで影響を持ってるからね。これを覆すというのは大変なことだよ。だから15年、丸々15年かかってもしょうがないなあと。しょうがなかったなあと」

・94年自社さ政権の総理大臣となった村山は、自衛隊合憲、日米安保維持など従来の社会党の主張を180度転換する見解を表明した。村山は国会内の控室で直前まで原稿に手を入れていた。その目が真っ赤に充血していたことを村山政権の自治大臣になった野中ははっきりと覚えている。

野中広務「いやなーあれを考えこれを考えしたらな昨夜は一睡もできなかったよと言いながら、しかし俺は受けたんだからしょうがねぇんだと言ってね、自分で独り言を言っておられた姿を今も生々しく覚えております。我々にとって政権復帰をしたことは良かったけれども、労働組合のトップを行き、社会党の委員長まで行った村山さんをこんな場所に出したのは残酷だったんだなと思いながら、やっぱりそうせざるを得ないのが政治なんだと。」

村山富市「まさに50年目。内政問題でもけじめをつける。始末のつけられなかい問題について、必要なものについての始末をつける。この内閣ならできるだろうというんでやってきた。戦後に与えられた歴史的な役割について自覚をしてそれを果たすと」

・政権参加の代償として路線転換を余儀なくされた村山。戦後50年の節目積み残された問題の解決にあたった。しかし96年初の小選挙区選挙で社会党は惨敗。戦後革新のシンボルだった社会党の看板は下ろされた。

・政権に復帰した自民党では与党であり続けることが至上命題となった。権力を握った野中広務は社会党にかわる連立の相手を次々と求めた。その相手は自民党を飛び出したはずの小沢一郎。小沢対野中、権力の興亡、第二幕が始まる。



ちなみに第二幕は自分で借りるなり、本買って見てねw

「芥川賞作家様のために早速読んでやった」(笑)

計70頁

情景描写は小説家志望の人がお手本にすべきぐらいの素晴らしさ。

それが芥川賞受賞の大きな理由と感じた。

しかし、ラスト一文が恐ろしく酷い(´Д`)(´Д`)

以下、ラスト

俺が継いじゃる、と言いたかった。養護施設から高校へ通うことになった、という話をしたところで、決められた時間がきた。

「差し入れ、出来るみたいやけど、ほしいもん、ない?」

「なあんもない。」


生理用品は拘置所が出してくれるのだろう、と遠馬は思った。





ないわーこのラストの一文


「生理用品は拘置所が出してくれるのだろう、と遠馬は思った。」



間違いなくこの一文で、この作品のかなり評価値が下がった。




俺なら、

「鰻はやめてや」と、母は言った


にするかな。





ラストで「生理用品」はないわー





まー、確かに「生理用品」で締めると、タイトルの「共喰い」に相応しいラストになるのは分かるけどさ…






やっぱないわー(´Д`)



























田中氏には悪いけど、まだあなたの嫌いな「都知事閣下」の方がずっと文章力上だわ(笑)





うん、芥川賞も落ちたもんだなw

■橋下市長「文科省と勝負になる」教育基本条例案
(読売新聞 - 01月26日 15:35)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1891499&media_id=20

橋下市長の挑戦自体は悪くない。

地方行政法のさらなる発展のためにも、判例の蓄積化のためにも、ご自身が考える条例案を出して、闘うこと自体は何ら否定されるべきものではない。


ただ、この条例案が仮に施行された場合に、憲法94条に定める「法律の範囲内」ではないとして、もし憲法訴訟が起こされた場合、この条例案では残念ながら負けると思うニコニコ


私がそう考えるのは以下の理由。

まず地方教育行政法の「職務上の義務違反」は、生徒への暴行等、いわゆる「法律で定められている一般的な違反行為」と読むのが通常の理解ではないかと思う。

この辺りの解釈については、上級行政機関である文科省と内閣法制局の見解にもよるが、少なくとも「職務上の義務違反」の内容を地方公共団体の長が独自に決めることができるという趣旨が、この地方教育行政法には含まれていませんよというのが、彼らの見解の核心部分だと思われる。


ところで、「知事が定める教育目標」は、恐らく行政法上、「行政規則」にあたると思う。

もし、「行政規則」と判断されるなら、「行政規則」とは、地方自治体の長が、その権限に属する事務に関し、「法令に違反しない限りにおいて」定めることができる(地方自治法15条1項、地方公務員法8条5項、教育委員会規則については「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」14条1項等)ものですから、

「法令違反の場合」は、定めることができないとなる訳です。


ちなみに、「法令違反」であるか否かについては、「徳島市公安条例判決基準」で審査されると思います。


この基準は、長いから、ご自身でググって頂きたい(http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7956/han/han67.html )のですが、要するに、文科省見解が「正しい」なら「条例は無効」になります。


私の見解としては、やはり文科省見解の方が法文の自然な解釈だと思うので、橋下市長は裁判で負けると思います。


ただ、橋下市長が反論する見解がないかと言えば、行政法上そうでもありません


具体的には、

①「行政規則」は、原則として、「国民の権利・義務に直接関係せず、下級機関や職員を拘束する行政組織の内部規範」であるから、上級行政機関はその有する組織法上の監督権に基づいて、「法律」の根拠を有することなく、随時「職務命令」を発令できるという判例・学説の主張。

→今回の教育基本条例の核心である「知事が定める教育目標」の内容自体に、裁判所は違法・合法等の司法審査をすることができないという反論(ただ、私は、今回の行政規則なら、憲法の「部分社会論」の議論からいっても、さすがに司法審査されると思いますが。あと他の根拠としては、裁量基準の判例で審査されてることかな)

②在来の法解釈が誤っていれば通達や行政規則によって解釈を改めるのは当然で、それが国民や職員に不利益に働くとしても許されると、1958年最高裁判決を解釈する。


まーそうは言っても、橋下市長にとって一番良い解決策は、みんなの党とかと協力して、根本の地方教育行政法自体を改正してしまうことですが。

ちなみに、みんなの党は、「地方教育行政法改正案」の大綱を作ったそうです。



最後はプチ知識

通達や職務命令に違反した職員には上司の命令に反したとして懲戒責任が課されます。ただ、下級機関や職員は、通達や職務命令が違法な場合でもなおこれに服従する義務を負うかについては争いがあります。

通説―下級機関の職員は、通達や職務命令が違法であっても、それが重大明白でない限り、これに拘束され、服従すべき義務を負う。職員が、通達や職務命令違反を理由に懲戒処分を受けた場合には、通達や職務命令の違法を主張しても、それが重大明白でなければ、懲戒処分の取消しを求めることはできない。

少数説―通達や職務命令を違法と考える場合には、これへの服従を拒否し、服従拒否を理由に懲戒処分を受けた場合には、その違法を主張し、懲戒処分の取消しを求めることができる。

判例―組織体の一員は、私的利益にかかわりのない職務上の行為に関しては、たとえ違法であっても、組織の責任者の命令に従い、組織の一体性を保持すべき義務がある(1974年 東京高裁判決)

以上、原田尚彦東京大学名誉教授の『行政法要論』(第7版,2010)42-43頁よりキラキラ



要するに、仮に橋下市長の条例案自体に反対ないしはおかしいと思っても、「悪法もまた法なり」みたいな考えを持って、従事する教職員自体は、粛々と上司の職務命令に従い、条例可決の動きや裁判の結果を見守るべきだと私は思いますがねニコニコ