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うんちくコラムニストシリウスのブログ

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非当事者である一国民が日記にするほどのことでもないかもしれないが、関連日記やtwitterの反応が少なすぎたので、あえて筆を執ろうと思う。


【シリウスさんの祝辞】
改めまして、石川議員本当にご結婚おめでとうございます。


(以下、祝辞コラムということで、失礼を承知の上で、あえて「あなた」という表現を使用させて頂きます)


私が石川議員のことを知ったのは、あなたが故中川昭一先生と小選挙区で戦い、勝利したことでした。


しかし、あなたのことを深く知ったのは、やはりあなたがかつて秘書として仕えた小沢一郎氏の「陸山会事件」がはじまりでした。


今あなたの裁判や小沢氏の裁判でも現在問題におりますが、虚偽記載の報告や指示をめぐって、当時報道では、あなたが、「小沢先生に報告した」「虚偽記載を認めると小沢先生に怒られる」等等の証言をしたという内容が放送されていました。


それを見た私のあなたに対する最初の印象は「小沢の秘書にしては頼りなく弱い奴だ」という印象でした。



しかし、それは、私の大きな過ちであり、私はあなたの生き様や人生を何も知らぬまま評価をしていたわけであります。


私がそうした過ちを自ら悟ったのは、あなたの著書『悪党 小沢一郎に仕えて』を読んだからです。


あなたは本書の中で次のように述べておられます。



小沢グループの中には「すべて語るべきでない」と止めようとする先輩議員が多数いることも承知している。私がまだ民主党に属していたら、この告白譚(たん、話のこと)は焚書坑儒(始皇帝が行った思想弾圧政策のこと)のような扱いをされただろう。


それでも、私は筆を執った。


権力批判を超えた「集団リンチ」さながらの、子どもに見せられないドラマを平気で垂れ流す言論状況に一石を投じなければならないからである。


それで「悪党」と呼ばれようと、私はもう構わない。


(本書16-17頁より)



本書を読んでから、私のあなたに対する印象は「しっかりとした政治観を持った政治家石川知裕」に変わったのです。


それは、私の視点が明確に「小沢一郎の秘書石川知裕」ではなく、「政治家石川知裕」に変わった瞬間でもあったわけです。



さて、「政治家石川知裕」の人間性の魅力について話をしましょう。


私が石川議員の人間性の素晴らしさを再認識させられたのは、2011年8月30日のことでありました。


その日は第95代内閣総理大臣指名選挙の日であり、私は政治マニアですから漫然と国会中継を見ていたわけです。

この内閣総理大臣指名選挙というのは政治的には単なる「通過儀礼」にすぎないわけでして、選出される人も決まっていれば、投票される人も通常決まっておるわけであります。


野田佳彦君308、谷垣禎一君118、山口那津男君21、志位和夫君9、福島みずほ君6、渡辺喜美君5、平沼赳夫君4


事務総長は漫然とした結果を漫然とした口調で述べた後、次のように述べたのであります。


「小沢一郎君1」


と。


私は耳を疑うとともに、すぐさまいつもの自称政治評論家の頭になりまして(笑)、「誰が投票したのか」となったわけです。


小沢氏はバカでも分かる負け戦に自分で自分に投票用紙を書くような人物ではないというのは、至極当然分かっておりました。


当時菅内閣不信任案に松木氏が賛成票を投じたことが話題になっておりましたから、私、当初松木氏が投じたのかなと思ったわけです。


ですが松木氏は海江田万里氏に1票を投じていました。



そうです、小沢氏に1票を投じたのは石川議員その人だったわけです。


私がなぜこのエピソードを話すかと言えば、この行為は政治の常識を超えた行為であったからです。


「常識論」で言えば、当時無所属だった石川議員が投じるべきは、自分自身か野田総理が普通です。


つまり、「野田佳彦」と書いた小沢氏や「横粂勝仁」と書いた横粂氏が普通な訳です。


松木氏については、代表選で海江田支持を影で推進してきた者として、海江田氏への花向けをすることで、自身の政治的信条を貫きたいということでしょう。


しかし、石川氏の投票行為は上記の常識にはあてはらまないわけです。


少なくとも小沢氏のために逮捕された石川議員には、渡部恒三氏の言葉を借りれば「親分のためにそこまで尽くすことはない」し、「野田総理誕生の通過儀礼」で、わざわざ当時海江田氏敗北で落ち目だった「小沢一郎」と書く必要性も合理性もまったくないわけです。


では、なぜ石川議員は書いたのか。


私は、石川議員のそこはかとない人間性の魅力を感じるのであります。


「大したことじゃない」


そういう人にはこう問いたい。


「じゃあ、お前が同じ立場の時同じ事をできるのか」と。



最後になりましたが、石川議員が高校時代にはまったという遠藤周作先生のエッセイからこんな一節を引用して(実は私、たまたま遠藤周作先生の愛読者なのでw)、私の祝辞を終わります。


結婚生活とは、幻滅、失望、落胆の瞬間からはじまる。


それは結婚生活は人生そのものだからです。


人生は正直言って悲しいこと、苦しいこと、色あせたこと、魅力のないことの連続です。


しかしそれを放擲する者は愚かです。


なぜならその味けない人生を捨てずにしゃぶりにしゃぶれば、必ず生きる意味が見つかるからです。生きていてよかったと思うからです。


結婚と人生とはよく似ています。共に必ずしも悦びや楽しさの連続ではない。断絶がある。失意がある。幻滅がある。


にもかかわらず結婚もまた人生と同じようにそれを維持することによって光を放つものです。それは人生も結婚も「愛」をその対象にしているからです。


美しいもの、魅力あるものに心ひかれることが愛なんじゃない。それが魅力を失い、色あせても大事に大事にすることが愛である。


遠藤周作『かなり、うまく、生きた』「共に生きたということ」124-125頁より。



本当にご結婚おめでとうございます。

「ねじれ国会」や「国会の機能不全」等の問題を受けて、昨年話題になった新書。

以下は参考になると思ったところだけ記載。

●現在の国会審議手続
○委員会中心主義の国会
法案提出→所管の常任委員会に付託(国会法)
*緊急を要する議案については議院の議決に基づいて委員会審査を省略可

委員会審査の結果、本会議で審議する必要はないと委員会が判断した法案は、7日以内に議員20人以上が本会議での審議を要求した場合を除いて、廃案になる。

○本会議中心主義への部分的回帰
・本会議におけるあらかじめの法案趣旨説明
→趣旨説明が終わるまで法案を委員会に付託できないため、逆に審議引き延ばしの手段として用いられる。

・委員会審査に時間がかかっている場合にいきなり本会議で審議するのではなく、まず委員会から中間報告を求め、中間報告後、法案に緊急性があると考えられる時には委員会審査に期限をつける(事実上の委員会審査打ち切り手続)。

○国会の審議手続
・委員会審査
→提案者(発議者)による提案理由の説明→提案者に対する一問一答形式の質疑→採決→報告書を作成し、議長に報告
・本会議審査
→委員会審査終了議案が議事日程記載→採決

・内閣が、各議院の会議又は委員会において議題となった議案を修正し、又は撤回するには、その院の承諾を要する。また上記の議院で議決した後は、修正し、又は撤回することはできない(国会法59条)
→内閣提出法案の修正権の制約(なお修正例自体は少ない)

○国会審議の空洞化、形骸化
・衆議院本会議の年間開会時間
1947-1954:134時間→1975-85:55時間

○諸外国の制度
・あらかじめ審議割当時間を決定しておき、時間を超過した場合には審議を打ち切る「ギロチン」制度(イギリス)

●著者の改革案
・請願処理の見直し
→現在の慣行:請願の処理は会期末に一括して行う
→請願の内容が明らかになった時点で関連法案の審議はすでに終了していることが多い
→請願のすべてを詳細検討するのは不可能であるとしても、審理手続を工夫すべし
→私見:どう工夫するのか大いに疑問、また請願が国会審議の改革に与える直接的効果は乏しいと考える。

・会期不継続原則(会期中に議決に至らなかった案件は後会に継続しない=国会法68条)の見直し
→「同一議員の任期中」の解釈緩和(例:衆議院議員の任期4年なら、4年以内は継続)
→私見:趣旨自体は賛成だが、衆議院と参議院で任期が違う問題をどう法的にクリアするか少し疑問。

・会期制度(延長は常会1回、特別会・臨時会は2回まで)の見直し
→通年国会へ→私見:賛成
大学卒業ということで、私が大嫌いな大嫌いな日本社会党の研究w
●参考文献
岡田一郎『日本社会党―その組織と衰亡の歴史―』(2005年)
森裕城『日本社会党の研究―路線転換の政治過程』(2001年)

●まとめ
・日本社会党の伝統的な選挙対策・選挙基盤の弱さ
・日本社会党=自民党を監視するための政党という役割
・安保闘争の高まり≠日本社会党支持の拡大
・日本社会党内の構造的な左右対立、思想対立

●今後の研究課題?
・なぜ日本社会党と日本共産党は合併できないのか
→そもそも野党同士の大型合併は難しいものなのか?
55年体制以降の成功例―94年新進党、03年民主党による自由党の吸収合併
→「社会主義」と「共産主義」はなぜ相容れなかったのか?
→まー、共産党に興味はないから調べないけどねw

●岸内閣と社会党
1958年4月 岸首相と鈴木茂三郎委員長による話し合い解散
→政党機関紙『月刊社会党』「社会党政権」特集
→江田三郎組織委員長「党の現状は国会議員だけが多数をしめ、地方議会での議席数は全然比例がとれず、党務専従者やオルグ(労働運動の組織者等)は問題にならない少数である。…われわれはふたたびブルジョア第三党のピエロの役割についてはならない(片山政権の二の舞を演じてはならない)」
→社会党政権が樹立されても、政権を担ったことで党の方針と違う政策を実行するよう妥協を強いられ、党の支持層が離反するという片山政権の二の舞を演じることを、社会党は恐れた。

●1958年当時の党組織の実態
1955年    社会党統一大会党員目標 10万人
1957年11月 56544人
→党員における若者や学生党員の少なさ、党員管理の杜撰さ
→信託者投票制度導入せず(浅沼書記長、社会主義協会の反対)
→田口富久治(政治学者,名古屋大学名誉教授):「幽霊政党」

●政治学評価における社会党の党内構造
・党内で正当に主導権を獲得するには、まず自己のイメージを左寄りにして政党内競争空間で勝利しなければならない。
・政党内競争空間で評価されるほど、政党間競争空間での自由度がなくなる。

●1958年総選挙事実上の敗北
・過半数(234議席)に対し、246人擁立
→社会党政権の樹立の不可能は総選挙の前から明らかと言われていた。
→社会党は20~30議席増を目論み(独自の過半数獲得は見込まず)、自民党分裂による解散・総選挙、社会党政権樹立を目指す。
→「朝日新聞」世論調査:自民党283議席、社会党175議席
→結果:自民党287議席、社会党166議席(社会党歴代最高の議席)

●1959年知事選10連敗と参議院選挙敗北
・浅沼書記長「アメリカ帝国主義は中日人民共同の敵である」発言
・社会党勢力の鳥取・宮城・栃木知事選敗北
→浅沼発言と自民党の強力な選挙活動
→「選挙の時だけしかカネと組織を動かさない支援労組、戦前の小作争議は指導しても、戦後の農村の新経営には指導力をもたない農民組合、それらの上に立っている国会議員、こんなことでは大衆のエネルギーを汲み上げることは到底できない」
・6月参議院選挙:自民党71議席、社会党:38議席
→自民党:+10議席、社会党:-11議席
→社会党躍進のきっかけとなった「護憲」政策の行き詰まり
→田口富久治「平和が規定事実と感じられ、憲法が一応生活の中に定着し、生活の安定が曲がりなりにも獲得されたと実感されている現在の政治的気候においては、自民党政府がすでに獲得されたものに明白でドラスティックな攻撃を加えない限り、社会党の政治的資産(護憲)は有休状態に置かざるを得ない」

●右派西尾の離党と民社党結成
・1959年9月15日 『朝日新聞』「西尾、新党結成もやむなし」の一面
→社会党支援を続けてきた朝日新聞、左傾化から中立化を図るための支援
・1960年1月24日 民社党結成(委員長 西尾末広) 西尾派+河上派一部

●第三回社会党委員長選挙
1960年 鈴木茂三郎委員長辞任、浅沼書記長と河上丈太郎の一騎打ち

浅沼稲次郎(河上派)―鈴木派(左派)、松本派(左派)
   VS
河上丈太郎(河上派)―河上派(右派)、和田派(左派)、野溝派(左派)、総評

→結果:浅沼228票VS河上209票
→敗れた河上が浅沼支持を打ち出したため、分裂回避

●江田書記長誕生と佐々木更三
・鈴木派の江田三郎、書記長選挙で満場一致で当選(無投票)
→当初、鈴木派の佐々木更三が有力だったが、西尾離党の責任問題で不出馬
→鈴木茂三郎、佐々木更三「書記長は2年で交代」と公言
→江田は暫定書記長という見方

●安保闘争と世論
1959年7月 総理府調査「安保条約改定知らない 50%以上」
1960年3月 『毎日新聞』世論調査:「新安保条約についてどう思うか?」
→関心がない:15.3%、わからない:26.5%
1960年5月19日 自民党強行採決、衆議院通過と安保闘争の盛り上がり
1960年6月15日 全学連国会突入デモ
1960年6月19日 新安保条約自然承認
1960年6月23日 岸首相辞任
→江田三郎「今国民の大部分が考えているのは、岸が憎いということ。だが、それはそのまま意識した民主主義とは言えないわけです。したがって、岸に代わってかりに池田でも石井でも出て、ちょっと進歩的なよそおいをすれば、一般の国民はもう19日のことを忘れてしまうというおそれもあるわけです」
→「キミ日本人は反米になれっこないよ。西部劇が好きだろ、プロ野球をみたまえ…」
→安保闘争が国民の反米意識の高まりの現れではないことを把握していた江田

●沈黙化する世論
・青森、群馬などの県知事選挙での敗北
→社会党の伝統的な選挙対策の不備
→岸退陣、池田首相後の国民の自民党支持への回帰

●浅沼委員長刺殺と江田人気
1960年10月12日 浅沼委員長刺殺
1960年11月12日 自民・社会・民社党首テレビ討論会
→ニューリーダー江田委員長代行の認知度高まる
1960年11月20日 衆議院選挙
→自民党296議席、社会党145議席、民社党17議席
→社会党躍進、しかし自民党絶対安定多数

*以降の話、江田三郎の話については省略。

●1986年衆議院選挙の惨敗と土井たか子委員長の誕生
・1986年衆参同日総選挙
→衆議院:自民党304議席、社会党86議席、民社党26議席、公明党57議席、共産党27議席等
→参議院:自民党143議席、社会党41議席、民社党12議席、公明党24議席、共産党16議席等
→民間労組、官公労の衰退
→「社会民主主義政党」への路線転換によって、逆に自民党に大きく票を奪われる
→土井たか子委員長の誕生

●「マドンナブーム」と1989年参議院選挙大勝
・1987年参議院岩手選挙区補欠選挙の勝利
・1989年東京都議選勝利
→結果:自民党20議席減少、社会党:18議席躍進。都議会第2党へ
・1989年参議院選挙大勝
→参議院:自民党109議席、社会党67議席、連合の会11議席、民社党8議席、公明党22議席、共産党14議席
→自民党、参議院過半数割れ
→政治学の評価―消費税争点による投票行動が躍進最大の要因
→政党支持無し、自民党支持からの大量の票の流入

●1990年総選挙での政権奪取の失敗
・結果:自民党286議席、社会党139議席、民社党14議席、公明党46議席、共産党16議席等
→候補者:当初180人擁立の方針→実際は149人
→候補者の当選率史上最高

●社会党の政権担当能力と期待したもの(『毎日新聞』世論調査より)
・「社会党は自民党に代わり政権を担えるか?」:期待しない(77%)
・「今後社会党がとるべき道」:政権を目指すよりも自民党の暴走をチェックする政党として役割を果たす(41%)、自民党だけで勝手なことをしないように監視してもらいたい(45%)