大学卒業ということで、私が大嫌いな大嫌いな日本社会党の研究w
●参考文献
岡田一郎『日本社会党―その組織と衰亡の歴史―』(2005年)
森裕城『日本社会党の研究―路線転換の政治過程』(2001年)
●まとめ
・日本社会党の伝統的な選挙対策・選挙基盤の弱さ
・日本社会党=自民党を監視するための政党という役割
・安保闘争の高まり≠日本社会党支持の拡大
・日本社会党内の構造的な左右対立、思想対立
●今後の研究課題?
・なぜ日本社会党と日本共産党は合併できないのか
→そもそも野党同士の大型合併は難しいものなのか?
55年体制以降の成功例―94年新進党、03年民主党による自由党の吸収合併
→「社会主義」と「共産主義」はなぜ相容れなかったのか?
→まー、共産党に興味はないから調べないけどねw
●岸内閣と社会党
1958年4月 岸首相と鈴木茂三郎委員長による話し合い解散
→政党機関紙『月刊社会党』「社会党政権」特集
→江田三郎組織委員長「党の現状は国会議員だけが多数をしめ、地方議会での議席数は全然比例がとれず、党務専従者やオルグ(労働運動の組織者等)は問題にならない少数である。…われわれはふたたびブルジョア第三党のピエロの役割についてはならない(片山政権の二の舞を演じてはならない)」
→社会党政権が樹立されても、政権を担ったことで党の方針と違う政策を実行するよう妥協を強いられ、党の支持層が離反するという片山政権の二の舞を演じることを、社会党は恐れた。
●1958年当時の党組織の実態
1955年 社会党統一大会党員目標 10万人
1957年11月 56544人
→党員における若者や学生党員の少なさ、党員管理の杜撰さ
→信託者投票制度導入せず(浅沼書記長、社会主義協会の反対)
→田口富久治(政治学者,名古屋大学名誉教授):「幽霊政党」
●政治学評価における社会党の党内構造
・党内で正当に主導権を獲得するには、まず自己のイメージを左寄りにして政党内競争空間で勝利しなければならない。
・政党内競争空間で評価されるほど、政党間競争空間での自由度がなくなる。
●1958年総選挙事実上の敗北
・過半数(234議席)に対し、246人擁立
→社会党政権の樹立の不可能は総選挙の前から明らかと言われていた。
→社会党は20~30議席増を目論み(独自の過半数獲得は見込まず)、自民党分裂による解散・総選挙、社会党政権樹立を目指す。
→「朝日新聞」世論調査:自民党283議席、社会党175議席
→結果:自民党287議席、社会党166議席(社会党歴代最高の議席)
●1959年知事選10連敗と参議院選挙敗北
・浅沼書記長「アメリカ帝国主義は中日人民共同の敵である」発言
・社会党勢力の鳥取・宮城・栃木知事選敗北
→浅沼発言と自民党の強力な選挙活動
→「選挙の時だけしかカネと組織を動かさない支援労組、戦前の小作争議は指導しても、戦後の農村の新経営には指導力をもたない農民組合、それらの上に立っている国会議員、こんなことでは大衆のエネルギーを汲み上げることは到底できない」
・6月参議院選挙:自民党71議席、社会党:38議席
→自民党:+10議席、社会党:-11議席
→社会党躍進のきっかけとなった「護憲」政策の行き詰まり
→田口富久治「平和が規定事実と感じられ、憲法が一応生活の中に定着し、生活の安定が曲がりなりにも獲得されたと実感されている現在の政治的気候においては、自民党政府がすでに獲得されたものに明白でドラスティックな攻撃を加えない限り、社会党の政治的資産(護憲)は有休状態に置かざるを得ない」
●右派西尾の離党と民社党結成
・1959年9月15日 『朝日新聞』「西尾、新党結成もやむなし」の一面
→社会党支援を続けてきた朝日新聞、左傾化から中立化を図るための支援
・1960年1月24日 民社党結成(委員長 西尾末広) 西尾派+河上派一部
●第三回社会党委員長選挙
1960年 鈴木茂三郎委員長辞任、浅沼書記長と河上丈太郎の一騎打ち
浅沼稲次郎(河上派)―鈴木派(左派)、松本派(左派)
VS
河上丈太郎(河上派)―河上派(右派)、和田派(左派)、野溝派(左派)、総評
→結果:浅沼228票VS河上209票
→敗れた河上が浅沼支持を打ち出したため、分裂回避
●江田書記長誕生と佐々木更三
・鈴木派の江田三郎、書記長選挙で満場一致で当選(無投票)
→当初、鈴木派の佐々木更三が有力だったが、西尾離党の責任問題で不出馬
→鈴木茂三郎、佐々木更三「書記長は2年で交代」と公言
→江田は暫定書記長という見方
●安保闘争と世論
1959年7月 総理府調査「安保条約改定知らない 50%以上」
1960年3月 『毎日新聞』世論調査:「新安保条約についてどう思うか?」
→関心がない:15.3%、わからない:26.5%
1960年5月19日 自民党強行採決、衆議院通過と安保闘争の盛り上がり
1960年6月15日 全学連国会突入デモ
1960年6月19日 新安保条約自然承認
1960年6月23日 岸首相辞任
→江田三郎「今国民の大部分が考えているのは、岸が憎いということ。だが、それはそのまま意識した民主主義とは言えないわけです。したがって、岸に代わってかりに池田でも石井でも出て、ちょっと進歩的なよそおいをすれば、一般の国民はもう19日のことを忘れてしまうというおそれもあるわけです」
→「キミ日本人は反米になれっこないよ。西部劇が好きだろ、プロ野球をみたまえ…」
→安保闘争が国民の反米意識の高まりの現れではないことを把握していた江田
●沈黙化する世論
・青森、群馬などの県知事選挙での敗北
→社会党の伝統的な選挙対策の不備
→岸退陣、池田首相後の国民の自民党支持への回帰
●浅沼委員長刺殺と江田人気
1960年10月12日 浅沼委員長刺殺
1960年11月12日 自民・社会・民社党首テレビ討論会
→ニューリーダー江田委員長代行の認知度高まる
1960年11月20日 衆議院選挙
→自民党296議席、社会党145議席、民社党17議席
→社会党躍進、しかし自民党絶対安定多数
*以降の話、江田三郎の話については省略。
●1986年衆議院選挙の惨敗と土井たか子委員長の誕生
・1986年衆参同日総選挙
→衆議院:自民党304議席、社会党86議席、民社党26議席、公明党57議席、共産党27議席等
→参議院:自民党143議席、社会党41議席、民社党12議席、公明党24議席、共産党16議席等
→民間労組、官公労の衰退
→「社会民主主義政党」への路線転換によって、逆に自民党に大きく票を奪われる
→土井たか子委員長の誕生
●「マドンナブーム」と1989年参議院選挙大勝
・1987年参議院岩手選挙区補欠選挙の勝利
・1989年東京都議選勝利
→結果:自民党20議席減少、社会党:18議席躍進。都議会第2党へ
・1989年参議院選挙大勝
→参議院:自民党109議席、社会党67議席、連合の会11議席、民社党8議席、公明党22議席、共産党14議席
→自民党、参議院過半数割れ
→政治学の評価―消費税争点による投票行動が躍進最大の要因
→政党支持無し、自民党支持からの大量の票の流入
●1990年総選挙での政権奪取の失敗
・結果:自民党286議席、社会党139議席、民社党14議席、公明党46議席、共産党16議席等
→候補者:当初180人擁立の方針→実際は149人
→候補者の当選率史上最高
●社会党の政権担当能力と期待したもの(『毎日新聞』世論調査より)
・「社会党は自民党に代わり政権を担えるか?」:期待しない(77%)
・「今後社会党がとるべき道」:政権を目指すよりも自民党の暴走をチェックする政党として役割を果たす(41%)、自民党だけで勝手なことをしないように監視してもらいたい(45%)