三代目三遊亭圓歌さんは、若い頃歌奴の高座名で「やまのあなあな…」(授業中)を流行らせた人です。晩年は圓歌という高座名になりました。今回高座にその名と同じ圓歌さんと歌奴さんが上がりました。兄弟弟子です。すなわち四代目三遊亭圓歌と四代目三遊亭歌奴です。圓歌さんは「工事中」と言う創作落語を演じました。歌奴さんは初天神でした。三代目圓歌さんも新作落語の他、古典落語にも長じていて万能の感じです。この2人の弟子も両方やるそうです。ただ、圓歌さんは「ゴーンは運動が得意。高跳び」など独特なしゃべりで沸かせます。歌奴さんのこの日の演目は「初天神」でした。持ち時間が短いようで、息子がせがんだ蜜の団子を「垂れる」と言って舐めてしまうので、息子が「これだから、おっとうを連れてくるんじゃあなかった」として、落ちにしてしまいました。長いバージョンでは、凧を買ってやりますが自分が夢中になってしまい、息子に同じ言葉を掛けられるというものです。

 この日は高座に上がりませんでしたが立花家橘之助は以前、小圓歌という名前で同じく三代目圓歌の弟子です。三味線の色物を演じます。三代目は幅広い弟子を育てたといえるでしょう。

(左:三遊亭圓歌、右:三遊亭歌奴)

 高校の時に習った漢詩を思い出しました。何か言葉の響きが良いので覚えていたのです。

渭城朝雨浥輕塵

客舍青青柳色新

勸君更盡一杯酒

西出陽關無故人

 書き下し文は次のようになります。

渭城(いじょう)の朝雨(ちょうう) 軽塵(けいじん)を浥(うるお)し

客舎(かくしゃ)青青(せいせい)として 柳色(りゅうしょく)新たなり

君に勧(すす)む 更(さら)に尽くせ 一杯の酒

西のかた 陽関(ようかん)を出ずれば 故人(こじん)無からん

 作者の王維は友の元二を長安(都。今の西安)から都の外れ渭城(今の咸陽市)まで送ってきました。元二とはここでお別れです。「朝雨が降って埃も静まっている。宿屋の周りの柳は青々と鮮やかだ。陽関(キルギスに近いところにあり、唐王朝の西の果て。支配も不安定な安西への入り口)を出たらもう戻ってこれないかもしれない。別れの酒を酌み交わそう」と王維が詠んだ詩です。元二は陽関の先の安西都護府に国の命令で赴任していくのです。

 高校生の頃は表面ずらしか見ていなかったような気がします。今、その場所がどんなところでどこに何をしに行くところなのか深く考えなかったような気がします。今はネットで地図もだせ、どこからどこに行くところだったのか、AIに訊くと旅の目的は何だったのかとかいろいろなことを知ることができます。果たして高校の漢文の先生はそういう背景まで知っていたのでしょうか。

 旦那が本妻に送り出され、権助が提灯をもって妾の所に行くが、妾には「本妻に申し訳ない」と言われて追い返される。戻ると本妻にも追い返され、そのたびに権助は提灯に火を点けなおす。そんなことをしているうちに夜が明けてしまったという噺です。以前に桃花さんは「湯屋番」を演じましたが、男声、女声が混乱してしまった記憶があります。若旦那が、女の人の話し声をまねて話す場面ですが、それを女性の桃花さんが演じたので混乱してしまったのです。今回の落語では、本妻や妾が女性なので違和感なく演じられました。

 以前の記事で、歩く姿を膝で立って歩いているように演じるのに、ベテランは両足を交互に動かすしぐさをしたので歩いているように見えましたが、新人さんはそれをやらなかったのでこっくりこっくりしているように見えました。桃花さんの歩く演技もこっくりさんの方でした。

 浅草へのアクセスが楽なので、最近落語は浅草演芸ホールばかりに行っていました。この日は久しぶりに上野の鈴本演芸場に行ってきました。浅草演芸ホールよりゆっくりに始まるので、油断してかなり遅くになってしまいました。ロケット団とすず風にゃん子・金魚は観たかったのですが、ちょうど終わってしまったところでした。ここの係員はなんとなく厳しそうな感じです。以前は、途中で入場すると、係員が「会場のドアの外で待って」と言われましたが、今は、「入っても席に着かず、演者が交代するときまで後ろで待って」と言われるようになっていました。また、落語では通常トリの高座の時は途中退室しない約束になっています。鈴本演芸場では、トリの高座になる直前に係員が入り口のドア付近に折り畳み椅子を持ってきて座りました。途中退室をとがめるために配置されているようでした。何か圧力を感じました。

 現在の庶民の団地は郊外にあります。江戸の長屋も町はずれにあったものだと思っていました。しかし、調べるとイメージとは異なっていました。この絵は江戸の町のイラストです。道に面して店が並んでいて、店で囲まれた内部に長屋が並んでいます。どうやら長屋はこんなふうに町の真ん中にあったようです。お店とお店の間に入り口の戸があり、そこを開いて入ると長屋が並んでいるという構造のようです。落語「粗忽長屋」では、浅草に行き倒れがあり、それを見た八五郎が、同じ長屋の熊五郎だと感違えして、本人を連れて来ます(死んだ人が本当に熊五郎ならそんなことはできませんが)。現在の郊外の団地の住民ならそんなにすぐに連れてくることはできませんが、長屋がこういう所にあったのなら、わかります。

(博物館の「江戸に水を配る」のタイトルの上水道の配置を示した絵を基にAIに描かせた)

 落語ではいろいろな長屋の情景が出てきます。「青菜」では、植木屋がお得意様の所で酒と鯉のあらいをいただき、家に帰って真似をします。お得意様の所では奥方が奥の部屋から出てきますが、植木屋の家では奥の部屋がないので、かみさんを押し入れに隠れさせ、呼ぶとそこからでてきます。金持ちの家は奥の部屋がありますが、植木屋は押し入れしかありません。「長屋の花見」では、押し入れもありません。一間だけです。畳んだ布団は部屋の隅に重ね、枕屏風で隠します。下の写真の右隅のものです。日雇いのような庶民はこういう家に住んでいました。植木屋は定職があるので、押し入れのある部屋に住めたようです。「三軒長屋」では、お妾さんの両側に道場と鳶頭が住んでいました。それなりの収入と仕事場のため、2階建ての長屋に住んでいました。落語をきくとき、そのような情景を思い浮かべてきくと想像はさらに広がると思います。

 理由不明ですが、いくつかの水源からの水道が禁止になったそうです。当初、地下水の水質が悪いという理由で大規模な上水道が設置されたのです。ですから、上水道が使えなくなると、地下水井戸を使わざるを得なくなり、飲み水が困りました。こんな中、水売りと言う商売が起こったということらしいです。「冷たいおいしい水」と言って売って歩くのですが、売って歩いているうちにぬるくなってしまっているのではないかと思います。また、砂糖や白玉を入れて売っているものもあったそうです。(私は落語が好き)落語でも水売りはいくつか登場します。水屋の富は水屋が富くじに当たり、その金が盗まれるのではないかと不眠症になる噺です。

 やはり金のある東京都の施設だと感じたことがあります。先ずは、入場料が無料と言うことです。また、それぞれの展示に番号が付いていて、音声ガイドを借りてその番号を入力すると音声で説明が聞けるというシステムがあることです。私が借りたときに「おいくらですか」と尋ねると無料とのことでした。また、タブレットも貸しているとのことでした。これは江戸の庶民の暮らしの展示の場所でしか使えませんが、うまくできていました。この領域でタブレットのカメラを向けるとアイテムが重ねて表示されます。それをクリックすると、アイテムのあった位置の説明を聞けるものでした。これも無料でした。お金を掛けていることが分かります。

 ただ、いくつか腑に落ちないことがありました。江戸の庶民の暮らしを展示してある場所でタブレットのことを知り、受付に借りに行くと「今の時間は貸出していない」とのことでした。後で係員が私の所までわざわざ来てくださり、「今から借りられますよ」と教えてくれました。また、何か所か黒い布で覆われていて見ることができないものがありました。後でわかりましたが、団体の見学と関連していました。多分、タブレットは団体がいるところで使うとぶつかったりしてトラブルになりうるので中止していたのだと思います。また、黒い布で覆われていたのは、個人が動作させてしまうと、団体向けの説明に支障がでるので、一時的に布をかけて一般の人が使えないようにしていたのだと思います。タブレットの貸し出し場所や、布の掛けられている展示物には、「今の時間、団体向けの説明のため、一般の利用を停止しています」というような掲示を付けておいてほしかったと思います。

 川の上流から引いてきた水は江戸の町で共同で使う上水井戸に配られました。この分岐に使われていたのが枡です。


 生徒さんの団体が来ていて、職員が団体向けに説明をしていました。そこでは、もう一つの枡の役割を説明していました。水を引くのに木樋はある勾配を持たせて引く必要があります。しかし、そのまままっすぐに引くと地面の奥深くになってしまって敷設が不可能です(図の黒い波線)。そこで、ある間隔で枡を置き、木樋の先を枡の下の方に入れ、そこから先に行く木樋は上の方から取るような構造にしているそうです。木枠は必要な勾配を持たせられます。先は上から取るので深さが回復します。つまり、木樋は常に地表に近いところを通すことができます。この後は私の解釈ですが、木樋はある勾配を持っているので固形物が入っても木樋中にとどまりにくくなります。そういったものは枡に溜まるので掃除が楽です。また木樋中にとどまっていても上から棒で押してやれば下の枡まで送ることができます。

 

 川の上流から江戸城下まで水を送るのに鉄管やセメントがなかった時代工夫が必要だったでしょう。この時代に使われたのは木材です。腐食しにくい松や楠が使われたとのことです。それを管にするため、彫った木材を組み合わせて作っていたとのことでした。鉄釘は使われていたそうです。組み合わせて作った管が漏れないように苦労したことでしょう。隙間には木の皮を詰めていたそうです。この管を木樋(もくひ)と呼ぶそうです。つなげて長い管にするため相当の数の木樋が必要だったことでしょう。多くの大工さんがかかわったものと思われます。また、その管を漏れずに接続する技術なども発達したことと思います。