古典学習会 No.4『空想から科学へ』読書会③サン・シモン、フーリエ、オーウェン | kmhamのブログ

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マルクス・エンゲルス古典学習会 No.4         2023/07/12
エンゲルス著:『空想から科学へ』読書会③
1.サン・シモンの社会主義(p39)
・(「社会科学辞典」新日本出版社1972年)の解説では、サン・シモン(1760~1825)
 は「フランスの空想的社会主義者。産業者即ち、「働くもの」(銀行家・工場主・商人
 ・職人・労働者・農民)の立場から、「なまけもの」(貴族・軍人・官僚・地主・金利
 生活者たち)の支配に反対し、新しい社会では人間に対する人間の支配としての政治
 の代わりに、物的財貨の管理と生産の指導が行われるべきだと考えた。しかしそれら
 の管理や指導は、銀行家・工場主・商人たちに期待された。彼の社会主義は、資本家
 階級と労働者階級との対立がようやく発生したばかりの時代の反映に他ならなかった。」
・エンゲルスは、サン・シモンをフランス大革命の子であったとしている。革命とは、
 生産と商業で働く国民大衆即ち、第三身分のこれまでの特権的な有閑身分、即ち、
 貴族と僧侶に対する勝利であった。だが第三身分のこの勝利は、・・・社会的に特権を
 与えられていた有産ブルジョアジーという層が政権を獲得したにすぎない事がまも
 なく暴露された。
・p40サン・シモンにとっては、第三身分と特権身分との対立は「働く人」と「有閑
 者」との対立の形をとった。「有閑者」とは旧来の特権者だけでなく、生産や商業
 に従事しないで、財産収入で生活する者たちであった。また「働く者」とは賃金労働
 者には限らず、銀行家・工場主・商人の事でもあった。
・これらの有閑者は精神的指導と政治的支配の能力がないことは明らかであったが、
 無産者もまたこうした能力を持たないことは恐怖時代の経験が証明しているとサン・
 シモンには思われた。彼によれば科学と産業がそれをやるべきである、と。
 産業とはブルジョアとして働いている人、即ち工場主・商人・銀行家の事であった。
 特に銀行家は信用の調節によって社会的生産全体を規制すべき使命をもつものとさ
 れた。しかるにサン・シモンは特に強く自分の心にかかるものは「最も多数で最も
 貧乏な階級」の運命だと言ったのである。
・p41サン・シモンは、『ジュネーブ書簡』の中で、恐怖時代は無産大衆の支配であっ
 た事をすでに知っていた。彼がフランス革命を階級闘争と把握し、それも単に貴族
 とブルジョア階級とのそれにとどまらず、貴族、ブルジョア階級と無産者との間の
 階級闘争として把握したこと、しかも1802年にそういう把握をしたことは極めて
 天才的な発見であった。
・1816年経済的状態が政治的制度の基礎であるという認識はまだ萌芽でしかないが、
 人間に対する政治的支配が物の管理と生産過程の指導とに切り替えられること、
 言い換えれば、近頃宣伝されている「国家の廃止」ということが、極めて明瞭に表示
 されているのである。
・1815年百日戦争の最中に英仏との同名、ついでこれら両国とドイツとの同盟がヨー
 ロッパの繁栄と平和の唯一の保障であると宣言したが、時流をぬく卓見であった。
2.フーリエ(1772~1837)(革命とそれがもたらした文明の偉大な批評家)
・p42サン・シモンにおいて見たものは1つの天才的な視野であり、後の社会主義者
 たちの思想のほとんどが萌芽の形で含まれていた。これに対してフーリエに見る
 のは、現在の社会状態に対する純フランス式の機知に富んだ批判で、しかもそれは
 相当深刻である。
・彼はブルジョア社会の物質的、精神的な貧困を容赦なく摘発する。そしてブルジョア
 思想家たちや人間能力の無限の完成を許す万全の文明社会を対照させて、その現実が
 その言葉をいかに残酷に裏切っているかを痛烈に皮肉っている。
・フーリエは偉大な批評家であるだけではなく、風刺家、しかも古今を通じて最大の
 風刺家の一人たらしめている。革命の退潮とともに栄えた詐欺的投機や小商人根性
 についての描写は、この上なく見事で面白い。
・そしてそれらよりなお見事なのは、男女関係のブルジョア的形式とブルジョア社会
 における婦人の地位に対する彼の批判である。ある社会における婦人解放の程度は
 その社会の一般的解放の自然的尺度である、と。p42
・p43フーリエの社会の歴史見解は構想雄大である。彼は、これまでの社会の全過程
 を、未開、野蛮、家父長制、文明の4つの発展段階に分ける。この最後の段階は、
 今日のいわゆるブルジョア社会、即ち、16世紀に始まる社会制度にあたる。
 「文明社会なるものは、野蛮時代に簡単な形で行われていたあらゆる罪悪を、複雑
 であいまいな、不明瞭で偽善的な形に作り上げる。」また「文明は『悪循環』を
 繰り返すものであり、文明自身が絶えず新たに矛盾を生み出しつつ、それを克服で
 きないまま前進する結果、それが達成しようとするものあるいは獲得しようと見せ
 ているものとはまさに正反対のものとなる。」と。p43
・このように、フーリエの弁証法の駆使は彼の同時代人ヘーゲルに比べて決して劣ら
 ない。彼は、この弁証法を使って・・・すべての歴史的段階には興隆期もあれば衰退期
 もあるとし、その考え方を全人類の将来にも適用した。カントは自然科学の中に将来
 の地球の破滅を導入したが、それと同じく、フーリエは歴史観のうちに人類の没落を
 取り入れたのである。p43
3.ロバート・オーウェン(1771~1858)(産業革命の最初の実践的批評家)
・(社会科学辞典:彼の生涯は、産業革命と資本主義の発展がもたらした窮乏と退廃

 から労働者階級を解放する為の改良と実験の歴史であり、その成功と失敗の歴史で
 あった。p18)
・フランスで革命の嵐が吹きまくっていたとき、イギリスでは静かにそれでいてその
 激しさでは決してそれに劣らない変革が進行しつつあった。(産業革命)蒸気と新し
 い作業機とが工場制手工業(マニュファクチュア)を近代的大工業に変え、それに
 よってブルジョア社会の全根底を変革した。
・マニュファクチュア時代ののろのろの歩みは生産の真の狂瀾怒濤時代に変わった。
 大資本家と無産プロレタリアへの社会の分裂は、絶えず加速度的に進行し、両者の
 中間にはこれまでの安定した中流階級の代わりに、今や手工業者と小商人の不安定
 な大衆が現れて不安な生活をするようになり、それが人口の動揺部分となった。
・p44この新しい生産方法は、まだ漸くその上昇期に入ったばかりであったが、それ
 は早くも恐るべき社会的弊害を生み出していた。--大都市の貧民窟には浮浪民が
 密集していた、家系や家父長的従属や家族制度といったあらゆる伝統的紐帯は弛緩
 していた。
・とくに婦人や子供は恐るべき過労に陥っていた。労働者階級は完全に堕落していた。
 というのは、彼らは、農村から都会へ、農業から工業へ、安定した生活条件から
 日々変化する不安定な生活条件へと、突如投げ込まれた階級であったからだ。
・p44この時、29才の1工場主が改革者として現れた。彼ロバート・オーウェンは、
 人間の性質は一方では、もって生まれた体質の産物であり、他方では、その生涯
 特に発育期の個人の産物であるという、唯物論に立つ啓蒙主義者の学説を信奉して
 いた。
・彼と同じ階層の人々にとっては、産業革命とは混乱に乗じて漁夫の利を占め、一挙
 に成金となるに適したものであったのに、彼にとっては、それは、彼のモットーと
 するところのものを社会に提起して、混沌の中に秩序を作り出すべき機会であった。
・p45彼は、1800年から1829年にわたって、スコットランドのニュー・ラナーク村の
 大紡績工場で、業務監督として経営を行い好成績をあげた。・・・はじめは種々雑多な
 著しく堕落していた住民を、完全な模範コロニーに作り替えた。そこでは、泥酔、
 警察沙汰、裁判沙汰、救貧、慈善の必要が全くなくなった。
・そうなったのは、ただ彼が人間を人間らしい状態におき、特に青少年を注意深く
 教育したというだけのためであった。彼は、幼稚園の発案者であり、2才になると
 幼稚園に入れられたが、幼稚園があまり楽しいところであったので、子供たちは
 家に帰るのをいやがった、という事であった。
・彼の競争者は、毎日13時間~14時間も職工を働かせていたが、ここでは10時間半
 しか働かなかった。綿花恐慌のために4ヶ月間の休業の時でも休業労働者に対して
 賃金全額が支払われた。それでいてこの会社は価値を倍増させ、所有者には豊かな
 利益が配当された。
・p45(彼は実践を通じて社会主義者となった)(オーウェンの計画)
・p47オーウェンの共産主義とは、純然たる事務的方法のもので、いわば商人的打算
 の結果であった。彼は、徹頭徹尾実際的性格を持っていた。例えば1823年アイル
 ランドの窮乏を根絶するために、彼は、共産主義コロニーを提案し、それにはその
 建設予算や年度の支出、収入の見込みを添えている。彼の明確な未来計画は、・・・
 専門的知識でできており、オーウェンの社会改良の方法の細目については、専門家
 にも批判の余地はほとんどないようなものであった。
・しかし、共産主義への前進によってオーウェンの生涯は転換した。・・・特に彼の
 社会改良の障碍と思われた、私有財産、宗教、現在の婚姻形式について攻撃した
 とき、彼は、公的社会からの追放、新聞による黙殺、社会的地位の喪失などにより
 ・・・零落した。そのとき彼は、労働者階級の見方となり彼らのうちで活動を続けた。
・p48イギリスで労働者の利益のために行われた一切の社会運動、一切の現実の進歩は
 すべてオーウェンの名前に結びついている。1819年工場における婦人および児童
 労働の制限に関する最初の法律、また彼はイギリス全国の労働組合が単一の大組合
 連合体となった時の第一回大会の議長であった。
・彼はまた、完全な共産主義的社会組織ができるまでの過渡的方策として、一方に
 おいて協同組合(消費組合及び生産組合)を始めた。これはそれ以来商人も工場主
 も必ずしも必要がないという証拠となった。他方では、労働バザー即ち、労働時間
 を単位とする労働貨幣によって労働生産物を交換する施設を作った。
・この施設は必然的に失敗したが、後にプルードンの交換銀行の完全な先駆となった。
 プルードンとの違いは、これは一切の社会的害悪の万能薬ではなく、単に一層根本的
 な社会改造へのほんの第一歩にすぎないものと考えられていた。
・p48(空想より科学へ)
・これら空想家の考え方は19世紀の社会主義思想を久しい間支配し、部分的には今
 もなお支配している。・・・彼らすべてにとって、社会主義とは絶対的真理、理性と
 正義の表現であって、それを発見しさえすれば、それ自身の力によって世界を征服
 するものである、そしてまた、絶対的真理というものは、時間や空間はもとより、
 人間の歴史的発展とも無関係なものであるから、それがいつどこで発見されるかは
 単なる偶然である。
・p49それゆえ、絶対的真理や理性や正義は、各派の提唱者によってそれぞれに違って
 おり、従って・・・互いに排斥しあうことになり、ここにできあがってくるのは一種の
 折衷的な平均社会主義となる外にはない。今日までフランスとイギリスにおける大概
 の社会主義的労働者を支配している社会主義はそれであった。
・しかし、こういう社会主義を1つの科学とするためには、まずもって、それを現実の
 地盤の上に据えなければならない。
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「空想から科学へ」学習会   -補足資料-
ここでは、マルクスが空想的社会主義をどのように捉えていたのかについて、補足
資料を参考に掲載しておく。(1.2.3は社会科学辞典参照)
(不和哲三:綱領・古典の連続教室レジメp21~22※)から引用です。
※1871年4月~5月に執筆した『フランスにおける内乱』第一草稿(全集⑰p526)


(社会主義的宗派の始祖たち・・・マルクス)
(1).サン・シモン(1760~1825)はフランスの空想的社会主義者。p111
(2).シャルル・フーリエ(1772~1837)はフランスの空想的社会主義者。p272
(3).ロバート・オーウェン(1771~1858)はイギリスの空想的社会主義者。p18

1.「社会主義的宗派の始祖たちはみな、労働者階級それ自体が資本主義社会そのもの
の行程によってまだ十分に訓練され組織されていなかったため、世界の舞台に歴史の
動因として登場するまでになっておらず、また旧世界そのものの内部に彼らの解放の
物質的諸条件がまだ十分に成熟していなかった時期に生きていた。
・・・労働者の窮乏は存在していたが、労働者自身の運動の条件がまだ存在していな
かったのである。」

2.「諸宗派〔社会主義運動の諸宗派-不破〕の始祖であるユートピア主義者
〔空想的社会主義者〕たちは、現在の社会を批判するさい、社会運動の目標-賃金制度
と、それにともなう階級支配のいっさいの経済的諸条件とを廃止すること-を明瞭に
述べはしたが、社会そのものの内部に社会改造の物質的諸条件を見いだすことも、また
労働者階級のうちに運動の組織的な力と意識を見いだすこともしなかった。彼らは、
運動の歴史的諸条件の欠如を、新社会の空想図や計画で補おうと試み、そういう空想
図や計画の宣伝を真の救済手段とみなした。」

3.「労働者階級の運動が現実となったその瞬間から、空想的なユートピアは消え失
せたが、これは、これらのユートピア主義者がかかげた目標を労働者階級が放棄した
からではなく、それを実現する現実の手段を労働者階級が見いだしたからであり、
それらのユートピアにいれかわって、運動の歴史的諸条件に対する真の洞察が生ま
れ、労働者階級の戦闘組織がますますその力をくわえてきたからであった。」

 「空想的社会主義」了。 次回は第2章・弁証法的唯物論です。   2023/07/12