教育ニ関スル勅語

教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)または教育勅語(きょういくちょくご)は、明治天皇勅語として発布された、近代日本教学の最高規範[1]1890年明治23年)10月30日発布、1948年昭和23年)6月19日廃止。

教育ニ関スル勅語(教育勅語)https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/A_copy_of_the_Imperial_Rescript_on_Education_distributed_to_various_schools_in_Japan_by_the_Department_of_Education.jpg/220px-A_copy_of_the_Imperial_Rescript_on_Education_distributed_to_various_schools_in_Japan_by_the_Department_of_Education.jpg



作成日1890年10月30日所在地
大日本帝国

作成者井上毅元田永孚

署名者明治天皇

概要編集



「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)は、教育基本方針を示す明治天皇勅語である。1890年(明治23年)10月30日付で発表され、翌31日付の官報[2]などで公表された。大日本帝国憲法の発布直後、第一回帝国議会開会直前、という時代背景において、大日本帝国における国民道徳の基本と教育の根本理念を明示するために発布された[1]。公式文書においては「教育ニ関スル勅語」と表現するが、一般的には「教育勅語」と表現される。全文315字[1]

形式的には、1890年10月30日、宮中において、明治天皇山県有朋内閣総理大臣芳川顕正文部大臣に対して与えた勅語、という体裁を採る。ただし実際は井上毅元田永孚らが起草した[1]

その趣旨は、家族国家観による忠君愛国主義儒教道徳であり、教育の根本は皇祖皇宗の遺訓とされた[1]。忠君愛国を国民道徳として強調しており、学校教育国民に強制され、天皇制の精神的・道徳的支柱となった[1]

日本国憲法1947年昭和22年)5月3日に施行された後、衆議院参議院の双方において、「神話的国体観」「主権在君」を標榜する教育勅語は「民主平和国家」「主権在民」を標榜する日本国憲法に違反しているとみなされ、参議院では憲法の最高法規性を規定した日本国憲法第98条に基づいて、また衆議院では日本国憲法の施行に先行する形で教育基本法が施行された結果として、教育勅語は『既に失効していること』が明示的に確認され、それぞれ「教育勅語等排除に関する決議」と「教育勅語等の失効確認に関する決議」により、1948年(昭和23年)6月19日に教育勅語の廃止が決議された。

日本国憲法下の日本国においては、詔勅に代わる国民国家の法規としては、まず日本国憲法自身が最高法規として存在する(日本国憲法第98条、憲法の最高法規性)。また、国民道徳の指導原理としては、日本国憲法に基づいて出された「教育基本法」などの各種の法令が存在する。

歴史編集

発表までの経緯編集

発布までには様々な教育観が対立した[1]学制公布(1872年)当初は文明開化に向け、個人の「立身治産昌業」のための知識・技術習得が重視されたが、政府自由民権運動を危険視・直接弾圧し、また自由民権思想が再起せぬよう学校教育の統制に動き、1879年の「教学聖旨」で仁義忠孝を核とした徳育の根本化の重要性を説いた[1]

前史には「教学聖旨(きょうがくせいし)」の起草(1879年)や「幼学綱要(ようがくこうよう)」の頒布(1882年)等、自由民権運動・欧化政策に反対する天皇側近らの伝統主義的・儒教主義的な徳育強化運動がある[1]

1890年(明治23年)10月30日に発表された教育勅語は、山縣内閣の下で起草された。その直接の契機は、山縣有朋内閣総理大臣の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる[1]。また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚文部大臣に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山県は腹心の芳川顕正を推薦した。これ対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた。文部大臣に就任した芳川は、天皇による箴言編集の命を請け[1]、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。

編集作業は初め中村正直委嘱され、法制局長官井上毅に移り、枢密顧問官元田永孚が協力する形で進行した[1]。内容は第1段(天皇の有徳臣民忠誠が「国体精華(せいか)」にして「教育ノ淵源(えんげん)」である)、第2段(「父母ニ(中略)天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ」)、第3段(これらは「皇祖皇宗(こうそこうそう)ノ遺訓」に発し永遠に遵守さるべき普遍妥当性を持つ)からなる[1]政治上の一般詔勅と区別するため大臣副書が無い[1]

この中村原案について、山県が井上毅内閣法制局長官に示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村原案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。

一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年(明治12年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた[3]。元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。

1890年(明治23年)10月30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。


(原文は「―顕彰スルニ足ラン」までと日付と署名捺印のみが分けられ全てつながっている)

朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器󠄁ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又󠄂以テ爾祖󠄁先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽
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現代語訳編集

多くの訳があるが、公的な根拠を持つ訳としては以下の文部省図書局による昭和15年(1940年)『聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告書』中の「教育に関する勅語の全文通釈」がある。研究者の間では「全文通釈」と呼ばれる。(現代仮名遣いに改めて引用。)

 朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。

 汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。

 ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。
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