おはようございます。

GWの前半に群馬に帰省した帰り道で、前々から行きたかった古墳3基※を見学してきました。

 

【にわか独りよがり考古学】

前期の古墳の石室は竪穴式であり、後期は横穴式(黄泉の国のイメージですね。)になります。群馬の古墳の場合は、榛名山二ツ岳の噴火(5世紀末と6世紀前半)の前後でその様式が変化した様に思われます。

  • 489年 二ッ岳渋川噴火で大規模なマグマ水蒸気噴火と泥流。
  • 525年から550年 大規模マグマ噴火、マグマ水蒸気噴火、マグマ噴火泥流。

偶然かも知れませんが6世紀前半の噴火の直後に、朝鮮半島にあった任那(みまな)は滅亡(562年)しています。軍馬の供給基地でもあった当時の群馬県(上毛野)からの支援(ロジスティクス)力が、二ッ岳の噴火で弱まったことが滅亡の一要因であったかも知れません。

また任那には日本府がありましたから、滅亡後に大勢の現地の人々が帰化したと思います。

その人たちが、持ち込んだ当時の朝鮮半島の文化や建築/土木技術は、旧東山道経由で上毛野に持ち込まれて、噴火という災害の復旧支援活動に貢献したのではと思っています。これは、当時の古墳の築造技術(石室)や副葬品にも影響を与えました。

というのが私の持論ですが、その分野では公知なのかも知れません。

 

①保渡田古墳群の井出二子山古墳

5世紀末の榛名山二ツ岳の噴火頃に築造された。

保渡田古墳群を訪れるのは2回目ですが、前回は時間がなくて遠くから眺めた程度でした。

今回は、じっくりと見学出来ました。

下差し後円部頂上にある竪穴式石室と船形石棺のレプリカです。残念ながら盗掘にあっていたそうです。埋葬者の頭は東側にあり、その足元である西側に副葬品を収めた郭があります。

下差し後円部(東)から前方部(西)を望む

下差し前方部(西)から後円部(東)を望む

下差し手前が前方部です。北西方向の外堤(がいてい)跡上からのショットです。主軸は、東北東(後円部)~西南西(前方部)になります。

   以下ここを起点に外堤跡を、時計回りに一周してみました。

下差し向かって左が後円部/東

下差し向かって右が後円部/東 向こう側には、榛名山系が写っています。

 

②同じく、八幡塚古墳

5世紀末の榛名山二ツ岳の噴火直前?に①の次に築造された。

今回は、後円部にある船形石棺を撮ってきました。残念ながら盗掘にあっていたそうです。二子山古墳と同様に、埋葬者の頭は東側にあり、その足元である西側に副葬品を収めた郭があります。盗掘の際に割られた石棺の蓋が右上に写っています。

下差し主軸は、ほほ南北です。北(奥)が、後円部になります。その背景には、榛名山系が写っています。

①も②も古墳の主軸とは無関係に、石棺はその被葬者の頭が東で足が西になります。これは日の沈む方向(西)= 死 を向かせたとか、当時の大和朝廷の権力への抵抗(東国)の意味で、西南西方向に足を向けて、その足元に副葬品を収めた郭を設置する(持ってけ、くれてやる的?)とか、諸説がある様です。

文字を持たなかったと言われる当時は、自然や造形物に意味を託したというのが一般的な考え方です。なので、歴史はロマンなのです。後世の私の様な人間が、自由に当時の様子に思いを巡らすことが出来ますからね。てへぺろ

 

③綿貫観音山古墳

TBC 左差し 論文へのリンクです。クリックするとPDFファイルがダウンロードされます。

綿貫観音山古墳を見学される前の予習になります。

 

【参照記事】

 

 

 

 

 

 

※ 古墳の数え方のユニットは、基 です。