【にわか独りよがり考古学】の続きです。

 
河岸(かし)とは、
河岸とは、狭義では河川や運河、湖、沼の岸にできた港や船着場のことである。しかし「魚河岸」などというように、商品売買を行う市場や市場のある地名を意味する場合もある。江戸時代に入ると河岸には問屋を商う商人やその蔵が集まり、一つの商業集落を形成していた。このため広い意味で町村を表す言葉でもあった。 
ウィキペディア
 
で朝倉・広瀬古墳群が作られた背景を妄想して書きました。この辺りにも河岸があったハズですね。地形的に言っても古利根川が山間部から平野部に入り、水上交通も利用出来る様になる場所です。
広瀬とは、瀬が広いという意味でしょうしね。
 
朝倉・広瀬古墳群を形成する古墳は4世紀から6世紀にかけて造られた。最も古い八幡山古墳は4世紀後半に造られた前方後円墳で全長130mあり東日本最大の規模である。前橋天神山古墳も4世紀頃に造られた古墳で全長129mある。6世紀には全長104mの天川二子山古墳が造られ、その他にも前方後円墳や円墳がひしめくように造られ群馬県最大の古墳群が形成されている。ウィキペディア
 
同様に考えると、倉賀野河岸(歴史的にその様に呼ばれる様になったのは後世だと思います。)周辺でも同じことが言えます。
その1つめが、倉賀野駅と烏川の間に位置する古墳群(倉賀野古墳群 築造年代 4世紀末~5世紀初頭)です。
その2つめが、烏川(利根川の支流のひとつ)が、前橋台地に入る地点です。この辺りは、井野川(烏川の支流)両岸に、古墳群が存在します。群馬県立歴史博物館の北側で井野川に沿った古墳群(綿貫古墳群 築造年代 5世紀初頭~7世紀初頭(推定))です。
因みに井野川を上流に向かうと、保渡田古墳群(築造年代は、5世紀代の後半も終わりに近い頃から6世紀前半代)があります。
 
倉賀野古墳群は前期の古墳群ですね。井野川水系の綿貫古墳群は、後期古墳が多い様です。
 
群馬の二大産業都市(前橋市、高崎市)の起源は、古墳時代からなのですね。
 
【参考】
・太田天神山古墳(ウィキペディアより) 5世紀中葉
中国の永寧2年(302年)に定められた「晋尺」(骨尺とも、1尺 = 24センチメートル)を使用して、25尺(6メートル)を基準尺としたと推測される。上毛野地域ではこの晋尺の使用が多く、天神山古墳以前の築造の浅間山古墳(4世紀後半)大鶴巻古墳(4世紀後半)別所茶臼山古墳朝子塚古墳においても使用が推定される
しかし設計企画においては、浅間山古墳が佐紀陵山古墳(奈良県奈良市)の5分の4相似形であるのに対し、天神山古墳は誉田御廟山古墳大阪府羽曳野市)の2分の1相似形であり、佐紀王権でなく河内王権と結んだ意味で天神山古墳以前の古墳とは一線を画している