後円部には4基の埋蔵施設があって、第1主体部※が初めの被葬者用のものと思われます。残りの3つの施設もその後50年間ほどに作られたそうです。家族のものなのでしょう。
後円部頂上では、埋め戻された石室と出土品が発掘された当時の平面図が人工石に刻まれて土中に埋め込まれています。
を参照願います。
気になったのが、古墳自体の主軸と第1主体部を中心とする竪穴式石室群の主軸がズレていることです。何故だろう?
この寒い中、再び現場まで行く気にはなりません。そこで地図と
を参考にして推論しました。
各主軸が一致しないで微妙にズレている理由として考えられることは以下のとおりです。
○古墳自体の主軸の延長(西南西)上には富士山が位置しています。古墳からみると丹沢山系の向こう側に見えます。自然崇拝の象徴ですね。
○石室の主軸の延長は、富士山よりも左側になります。東京の冬至の日の入りの方角としては、240度になります。まさに冬至の日の入りの方向です。これは、暦の意味があります。冬至の翌日からは、再び日照時間が増えます。
ちなみに、秋分の日では270度です。
更に、後円部から見る前方部の左端延長(石室の主軸方向と一致)が、冬至の日没の方向であり、前方部の右端延長が秋分の日の日没の方向(270度)の様です。
【2017.12.20追記】
270度の方向には、高尾山が位置しています。高尾山からは、富士山が羨望出来て、冬至を挟んで日の入り時はダイアモンド富士になるそうです。これも偶然ではありませんね。
更にです。後円部からみて前方部の更に右に”造出”(祭壇説が有力)があります。この造出は300度の方向であり、夏至の日没の方向にあたるのですね。
死者を祭る行事が、その様に季節の節目で行われていたのですね。きっと。
○それぞれの主軸が西方向を向いていることは、日の入り ( = 死とその後の復活)を意味するのかもね。
以上の様に何故何故してみると、歴史って面白いです。そうです、ロマンなのです。また古代日本人は、文字を持たなかったのですが、文字の変わりに自然(地形、天文)に意味を込めて後世に伝えているのですね。
野毛大塚古墳に関しては、多数の方が調査資料をネットで公開しているので、ここで私が唱えた持論ではく、公知なのかも知れません。
※ 私の持論だと、ここからは銅鏡が出土していないハズです。後で調べてみます。
【2017.12.17追記】
第1主体部の出土品のみに銅鏡が含まれていました。。。また、当然ですが第1主体部の出土品が最も歴史的に価値があり、種類、数が群を抜いているそうです。
江戸城から見て240度の方向(冬至の日の入り方向)には、江戸幕府初代将軍の徳川家康(駿府城の城主でもあった。家督を秀忠に譲った後は駿府城に隠居)が祭られている久能山があります。これも偶然ではないと思いますね。
更に、東京から240度の方向には大山も位置します。更に更にです。300度(夏至の日の入り方向)には、埼玉県秩父市の三峰神社が鎮座しています。