https://takasaki.keizai.biz/photoflash/4561/
だそうです。JR東日本の”大人の休日倶楽部”のCMでよく知られています。
さて、相変わらずの【にわか独りよがり考古学】です。
偶然かもしれませんが、保渡田古墳群の築造時期と大室古墳群の間に、榛名山の二ッ岳の噴火が起こっています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/27/4/27_4_297/_pdf
6世 紀前と6世 中葉~後半 の2回と言われています。日本のポンペイと言われる黒井峰遺跡は、2回目の噴火で埋没(HR-FPの軽石層の下)したそうです。
http://www.ohoka-inst.com/kuroimine_iseki2015.pdf
因みに金井東裏遺跡(鎧の武人)は、1回目の噴火で埋没(HR-FAの火山灰層の下)したそうです。
この火山噴火という自然災害がもたらした社会的な影響としては、
噴火をさけて東に経済基盤を移す必要があったと思われます。
榛名山南東麓で行われていた馬の育成が一時的に不可能になったことから牧を、東すなわち赤城山南面に移す必要があった。
その結果として1度目の噴火の後に、大室古墳群が造られています。周辺には、榛名山南東麓から移した牧もあったのでしょう。
榛名山南東麓は、地形を利用した牧の条件(柵代わりの利根川、井野川等の河川)が揃っていましたが、赤城山南面では、ちょっと様子が異なります。
従って、人工的に牧を作る必要もあったと思います。要は、土木技術の進歩が必要です。
例えば、保渡田古墳群の石室は、竪穴式ですが、大室古墳群では横穴式になっています。
また、行政区分にも影響が出ています。
https://ameblo.jp/kissam59/entry-12475100029.html
毛野の国が、上毛野と下毛野に分かれています。
六世紀後半以降は、再び上野毛の行政・経済基盤の中心は、榛名山南東麓に移動することになります。具体的には、前橋市の総社古墳群(総社二子山古墳、愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳)、吉岡町に存在する後期古墳群(三津屋古墳、南下古墳群)が築かれています。
このことから、牧も再び榛名山南東麓に戻ったのでしょう。
またこの時期は、仏教色による中央集権化が進んだ時期でもあります。やがてその地(前橋市総社地区周辺)には、上毛野国分寺が建立されています。
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