良い事ばかりじゃないですよね。

時にはがっかりする事もあり、

大失敗する事も。

信用していた人に裏切られたり、

大切なものを奪われる事もあるかも。

どうしてこんな目に

あわないといけないのと考えてしまいます。

それは仕方ありません。

どれだけ立派な信仰を持っていたって

やっぱり少しはそう思います。

人間そんなに強くありません。

だけど知っておくべき事があります。

神様はそんな私たちにとっては

耐えがたい経験すら

最終的には益になるように

計らってくださるという事。

愚痴りそうになっても

この約束を思い出して

クリスチャンは

試練を乗り越えるのです。

「神を愛する人々、すなわち、

神のご計画に従って

召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて

益としてくださることを、

私たちは知ってます。」

(ローマ 8:28 新改訳)



真面目に信仰生活をはじめて

四半世紀以上の時が流れました。

年もとり老けました。

無理すると直ぐに体調不良。

体は結構ガタが来てます。

しかし霊的にはどんどん強くなってます。

若い頃なら折れていたであろう信仰心も

ビクともしないくらい頑丈になりました。

自分でそんな強さをゲットしたわけでは

ありません。

私は昔からずっと変わらず

弱くてボロボロな人間です。

存在しているのが申し訳ないぐらい

取り柄の何もない人間です。

多くの大失敗を繰り返してばかりの私。

しかしその失敗の繰り返しが

私の信仰を成長させてくれました。

自分の弱さを知った時、

主がその弱いところで働いて

下さったからです。

「たとい私たちの外なる人は衰えても、

内なる人は日々新たにされてます。」

(第二コリント 4:16b 新改訳)











海外での生活が結構長かったので、

このみことばの大切さが

分かる気がします。

私はもてなされた回数の方が

もてなした回数より

絶対に多いように思います。

受けた恩を返すためにも

私もまた土地に不慣れな人や

外国からいらっしゃった方々を

親切にもてなしたいと思います。

思えば〈おもてなし〉って

日本の大切な文化習慣の1つでも

ありますよね。

兄弟愛をいつも持っていなさい。 

旅人をもてなすことを

忘れてはいけません。

こうして、ある人々は御使いたちを、

それとは知らずにもてなしました。」

(ヘブル13:1-2 新改訳)






私たち人間は弱いです。

救われた私たちクリスチャンも

相変わらず弱いです。

罪の奴隷にはならなくなっても

気をつけないと影響は受けます。

弱い私たちが強くなるには

みことばを生きることで

罪を離れ続ける必要があります。

気をつけていても失敗はします。

それは仕方ありません。

そういう時に必要なのが悔い改めです。

ヨハネは悔い改めると

神様は清めてまで下さると

使徒ヨハネは教えています。

悔い改めのない信仰生活などあり得ません。

「自分の罪を公に言い表すなら、

神は真実で正しい方ですから、

罪を赦し、あらゆる不義から

わたしたちを清めてくださいます。」

‭‭(第一ヨハネ 1:9‬  新共同訳)


思い違いをしてはいけません。

神は侮られるような方ではありません。

人は種を蒔けば、

その刈り取りもすることになります。

自分の肉のために蒔く者は、

肉から滅びを刈り取り、

御霊のために蒔く者は、

御霊から永遠のいのちを

刈り取るのです。」

(ガラテヤ 6:7-8 新改訳)


原因が結果に先行する事はないという

因果律は全ての人が経験によって

理解していると思います。

しかし分かっていても

良い結果を招来するであろう原因を

生み出す行為をなかなか起こせないのが

弱い私たちの姿なのかもしれません。

うすうす悪い結果へ

至りそうな気配を感じても、

それをサタンの誘惑だとか

不信仰だからと自分を騙して

その場しのぎの生活を続けると

取り返しのつかない最悪な結果を

招く恐れがあります。

私たちは蒔いたものを刈り取るのです。

良いものを蒔き続けなければなりません。

いったい私たちは日頃、

何を蒔き続けているのでしょうか?

一度、考えてみてもいいのでは?