ストレスフルな時代です。

癒されたいという願いは

ほとんど全ての人が

持っているのかもしれません。

それはクリスチャンも例外では

ないでしょう。

ここでクリスチャンが

気をつけるべき点があります。

それは癒しを外に求めないことです。

外に求めるとピントがずれる事が

多々あるからです。

癒されるために教会入り浸る。

癒されるために聖書を読みまくる。

癒されるために賛美三昧の生活をする。

癒されるために牧師の説教聴きまくる。

これらは下手をすると依存症へと

転換する恐れがあります。

こうなると元の状態より

悪くなってしまいます。

癒しは外からでなく

信じる者の心のうちに

常にいて下さる聖霊を通して

与えられます。

「わたしを信じる者は、

聖書が言っているとおりに、

その人の心の奥底から、

生ける水の川が流れ出るようになる。」

(ヨハネ 7:38 新改訳)



他人になかなか寛大になれない私。

聖書のこのみことばを読むたびに

グサッときます。

もし私がイエス様だったら

間違いなく

私を赦したりはしないと思います。

しかし主は私のために

いのちすら捨てて下さいました。

イエス様のように

赦すことの出来る広い心を持ちたい。

そう思います。

私の今週の祈りの課題です。

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に

不満を抱くことがあっても、

互いに赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、

あなたがたもそうしなさい。」

(コロサイ 3:13 新改訳)





みことばを伝えるのは

とても大切なことです。

ですが伝え方を誤ると

困ったことになります。

伝道のつもりが

相手の生き方を全否定してしまい

相手をかんかんに怒らせてしまう事が

多々あるようです。

残念な事に信仰熱心な人に

多く見られる兆候のようです。

伝えたいなら、

先ずは自分が模範を見せるべきです。

その上で押し付けがましく語らずに

親切な口調で自分の信仰を紹介しつつ

聖書の約束を簡単に説明するのがベスト。

信仰は押し付けたり

洗脳するもではありません。

先ずは相手に敬意を払う事を

忘れないで下さい。

そして親切に話しましょう。

分かりやすく話しましょう。

それで十分です。

「あなたがたのことばが、

いつも親切で、塩味のきいたもので

あるようにしなさい。

そうすれば、ひとりひとりに対する

答え方がわかります。」

(コロサイ 4:6 新改訳)

「殆どの人間は実のところ

自由など求めてはいない。

何故なら自由には責任が伴うからである。

みんな責任を負うことを恐れているのだ」

オーストリアの精神分析学者である

ジークムント・フロイトの言葉です。

だからでしょうか、

人は自由を欲しつつも隷従を選択したり、

はたまた自由を放埓と混同して

やりたい放題な生き方をしたりと、

自由を上手く使いこなせない

きらいがあるように思います。

クリスチャンもせっかく

神様からいただいた自由を棚上げしたり

逆に自由の意味を履き違えて

滅茶苦茶な事をすることが無いように

気をつけなければなりません。

そのためには

与えられた自由を

自分の利益のために使うばかりでなく

隣人のために使うようにすると

いいと思います。

更に理想を言えば、

お互いにそうすれば言うことなしです。

おそらく私たちの努力だけでは

それは無理かと思われます。

ですから神様から与えられた

キリスト者の自由を

神様に喜ばれるように使えるように

祈る必要があるように思います。

「兄弟たち。あなたがたは、

自由を与えられるために召されたのです。

ただ、その自由を肉の働く機会としないで、

愛をもって互いに仕えなさい。」

(ガラテヤ 5:13 新改訳)










クリスチャンは全ての出来事を

主管しておられるのは神様で、

それ故に、偶然というものはなく、

全ては必然であると考えます。

信仰にしても神様が信じる心を

与えて下さらなければ

信じられなかったでしょう。

全ては神様のご計画です。

問題は神様のご計画に従わずに

自分勝手な生き方を

私たちは好んでしまうという事です。

実はこの事を聖書的には罪と言います。

救われてもこの悪い癖は

なかなか治りません。

救われる前と後の違いといえば

神様のご計画に抗っている事に

気づけることかもしれません。

罪を認め神様に告白して

罪の赦しを請う

悔い改めへと導いていただけるので、

罪の奴隷にならずにすんでいます。

クリスチャンはそんな神様の

憐れみの深さに感謝しつつ生きてます。

神様は「生まれたときから私を選び分け、

恵みをもって召してくださった方」

(ガラテヤ1:15 新改訳)なのです。