米騒動なんて

きょうび流行らねえよ  ってナオさんが言ってた。

 

でもさ、米がどこのスーパーにも売ってないんだよ!

 

食べるものがなくなったわけじゃなし、その内新米が出てくるから心配ない って

 

そうじゃなくて、何故店頭に米がないのか?

無くなるのをわかてるのに手を打たなかったのか?

倉庫に備蓄してあったのを出さなかったの?

新米の出荷に合わせて価額調整をしようという魂胆か?

米騒動を起こさないまでも誰も「・・はて?」と思わないのか?

暑さで頭が膿んできているのでメディアも警鐘をならさない。

この現象は恣意的に引き起こされたのは確かだ。

 

憂慮してる 、  とナオさんに言ったんだよ。

  

              きの字


 

 

 

 

 

トヨちゃんのお腹が大きくなった。

長男万喜男が「・・あの腹は何?どうしたんだ!?」と父に聞くと煙管を持った父の手は「震えとった。」父は飲みかけていた茶碗を投げつけ、こぶしを振り上げて殴りかかってきた。何度も痛い目にあっているのでよけ方もうまくなっていた。

ケンカを売ったようなものだった。父が「出てけーっ!」と言えば「出てくのは誰だ!?」とやり返す。「誰のおかげで学校へ行けると思っとるんだ?」、

「学校なんかやめたるがや!」

長男万喜男がワルくなったのは「母親がこどもに豊子のことを悪く知恵を付けたり、学校の先生がアカだでいかんのだ。」

当時大人の都合の悪いことがあると「あいつはアカだ」と誹ったものだ。

事実このころの役所、事業所、学校、工場などには「‥細胞」

という共産党の下部組織が形成されていた。

昭和25年、トヨちゃんに赤ちゃんが生まれた。

女の子で豊江と名付け、父がこれを認知した。

このこともあり桜通りに父と母、長男万喜男と三男卯来夫の4人で住むようになり、荒事はしばらく収まった。

昭和27年、県立高校2年生の長男万喜男が大須事件に連座した廉で逮捕された。この時、父は毎日警察署に高校の教員とともに出向いて必死に陳情嘆願を続けて身柄を取り返した。

大須事件(おおすじけん)または大須騒擾事件とは、1952年(昭和27年)7月7日に愛知県名古屋市中区大須で警察部隊とデモ隊が激しく衝突した事件。

あれほどいがみ合ってた父と長男万喜男であったが親子の絆はまだ切れないでいた。

しかし家に帰されて間もなく父が長男万喜男の本棚から「赤と黒」を見つけて、「あいつはやっぱりアカなんだ。赤の本を読んどる!」と騒ぎ始めて親子の絆どころではなくなった。

当時の日本の原動力には朝鮮戦争の勃発による特需が挙げられる。工業や経済が発展する一方、共産主義が伸展して世相の雲行きが怪しくなり始めた。
昭和27年(1952年)に独立を回復した日本政府は不穏な世相を正すため、破壊活動防止法などの制定と同時に労働法規の改正にも乗り出す。
ところがこれが労働組合の反発をあおり、全国的なストライキへと発展していった。
労働争議と共産主義が結びついて、行動はさらに過激化。共産党代議士の街頭演説に端を発した「大須事件」は労働者・学生と警官隊との衝突となり、火炎瓶と威嚇射撃の応酬となった。最終的に射殺者1名、逮捕者269名を出し、逮捕者には明和生十数名も含まれていたのである。
新聞で「明和高校生逮捕」と報道されたが、教師の嘆願が実って起訴は免れた。この事件後も明和で学生運動が活発することはなかったという。

       (県立明和高等学校の歴史・明和高校生徒会編)

私(三男卯来夫)はこの長兄万喜男が頼もしく,良き相談相手になってくれたので深く考えぬまま明和高校、早稲田大学と同じ道を歩いた。これが間違いであったと判るのはずっと時がすぎてからだ。やがて半かじりの左翼思想もどきがはばをきかせることになる。

「左翼思想もどき・・・」はまた別のブログで upload します。

        to be continued

 

 

 

 

 

 

  

山村開発も先が見えてきたので、復興で忙しくなる名古屋で旅館をするのが上策と父には思えてきた。

名古屋市中区桑名町に約100坪を買い、白水館を開業した。

母自身は客商売には向いていないことを自覚していた。

「誰か知り合いでおらんか。探してこい。」と父に言われた母にはひとり心当たりがあった。

澄田家いた頃、用をいい遣って万松寺通りによく来ていたので大塚呉服店に津島の親類から見習い奉公に来ていた豊ちゃん(山田豊子)とは顔なじみであった。

名古屋駅前笹島の旅館で働いているのを探し当て、よくよく話して了解させることができた。「万松寺で元気に服地を売ってみえた花山さんのことはよく覚えている。」と開業準備するころには喜んで白水館へきてくれた。

開業準備中の旅館で、私ひとり父に猿投から連れてこられたことがあった。父と私と豊ちゃん、三人でご飯を食べて寝てしばらくすると食あたりか?お腹が痛くなって下したりした。豊ちゃんはお腹を優しく撫でてくれて痛みが薄らいていった。

トヨちゃんはいい人だなあって思いながら眠った。

遠くで汽笛の音がして目覚めた。寝ている枕にカタンカタンと名古屋駅の汽車の車輪の振動も伝わってきてた。まだここと名古屋駅の間には焼け跡が多く残っていて建物はなかったから汽笛も線路の音も届いたのだろう。

同じ頃、猿投山の粗朶の切り出し作業を猿投町より請負っていたので猿投に帰ってきて、広沢川に沿っての道路整備ために人を集めたり切り出した粗朶の送り先等多忙な日々を送っていた。粗朶搬送用にトヨタ製の木炭トラックを購入した。

写真の説明はありません。

買ってすぐそのトラックを人に運転させて父とトヨちゃんが猿投の家に来たことがあった。

これはすぐに地区の衆の口の端に上り「あれはきれいな人を見せに連れてきたんだな。」と大人の話を聞いた子供が学校で尾ひれを付けて話すような有様だった。

この時私には知る由もないが、母は自分が頼んで連れてきた妹分のようなトヨちゃんと父の関係に気付いて心が焦げていくのを感じていた。「あの時ウー坊(私、卯来夫のこと)と一緒に家を燃やして死のうと思った。」とはずっとあとで聞いたことだ。

学校では「ウー坊の父ちゃんトラックを買った。きれいなメカケもおるげな。」

事情が逆なら私も同じように意味も分からずはしゃいで吹聴するしつけの悪い子供が大勢いた。

メカケってなに?何だかひとに聞いてはいけない気がした。

旅館は繁盛した。

復興していく都会の需要に応えた事業で、商人、出張社員、

歌謡ショウや映画の撮影隊などで盛況であった。

中学生になるのを機に長男万喜男は名古屋の前津中学校へ、、次男辰男は名城小学校へ転校した。三男卯来夫は母と猿投に残った。母の心は知らずに私は兄たちがいなくなった淋しさを言い続けていた。

母は「ウー坊がきけせんもんで来た」と私を連れて名古屋へ行けば「来んでもええがや!」と怒声が飛んできたり、ある時は帰りしなにトヨちゃんも父と一緒に帰る処を見送って玄関に出た時「あんたら、並んで見送らんでほしいわ!」ってその場で泣き崩れてしまった。

あとで思えば母は父に何をどうしてほしいのか分からないままじっとしていられないのでウー坊を連れて名古屋に来る。

すると父は顔を見るだけで癇癪を起して手あぶりの火鉢を「ぶつけたろかー!」と睨みつける。私は恐怖で泣き出す。

こうなると「父は・・」ではなく「オヤジは・・」になってしまう。終戦直後の名古屋駅で気炎を上げ暴れていたあの朝鮮人と同じだ! 福井旅行でラムネを買ってくれた父はもういないんだ。

昭和23年から昭和25年の間に名古屋の名城小学校に転校し、4年生になる前に猿投の北部小学校に転校し、5年生の夏休みが終わった新学期からまたまた名古屋の名城小学校転校させられた。名古屋の小学校では勉強について行くのが難しく都会の喧騒と軽薄さに流されていった。名古屋の旅館とは1キロほど離れた処に中劇という劇場があり、ここでは映画と歌謡ショウを常時かかっていた。ここに出演する芸能人は白水館に泊まるのでここの支配人にいつでも入れてもらえるこたができた。美空ひばりの歌謡ショウもこの劇場で行われ、その宿泊も白水館だった。

トヨちゃんは私を可愛がってくれた。円頓寺通りにもよく連れてってくれて喫茶店で赤い色のソーダ水にアイスクリームの入った飲み物を飲ませてくれたてうれしかった。

ある時私が朝ご飯を食べてるときに「明日父兄会がある。母ちゃんに言わないかん。」と言ったら、長兄の万喜男が「なんでもっと早よう言わんのだ、急に母ちゃんはこれんぞ!」叱るように言った。トヨちゃんが「私が行ってあげるでええがね。」と私の頭をよしよしと撫でてくれた。

万喜男は「親でもないのが行ってどうするんだ!」、すかさず父が「行ってやると言っとるのになにを言うんだお前は!」と言って兄を張り飛ばした。

「だってホントだがや!」歯を食いしばって言い返すのを起ちあがって背中を蹴飛ばせば「おれが父兄会に行ったる!」

トヨちゃんは泣いて奥へ走りこんでいってしまった。

ただ「父兄会」と言っただけなのに修羅場に様変わりした。

このためかどうか分からないけれど間もなく猿投の北部小学校に転校した。都会の水を飲んだものが子供とはいえ擦れた様子で戻ってきた。

1年生から見てくれていた担任の石丸先生に顰蹙をかった。

「北川君は名古屋でウソを言うことを覚えたね。」と言われたことは生涯忘れられない。

昭和25年トヨちゃんに女子誕生、父が認知。豊江と命名した。これを先々のことを考えてのことか分からないが、豊江をすぐに母の養女に養子縁組させた。何もかもDV付きの手続きだから母には否やを言えるわけがない。この後次男辰男が山田富子の養子として縁組させた。戸籍を自分の都合でいじくるこのやり方には知恵を借りるとか目論見の図絵を描くとかしてくれるひとがいた。

知恵がないまでも父には始めから分からないのが当たり前のことなので、ここ一番という時には恥じらうことなく周りの者に聞いて回り、このことは誰それと当たりを付けて相談を持ち掛けた。会計処理、税金対策などで聞いて回ってるうちに

地方信用金庫で金銭管理に失敗してドロップアウトした大野と言う浪人を見つけた。父より年若く病がちな妻と幼児をふたり抱えていた。常傭とまでもいかないが事あるごとに駆けつけてくれるいい知恵袋であった。

この切紙細工のような手管はこの知恵袋の匂いがした。

しかし3年ほど後に養子縁組は取消してもとに戻る。

 そんなことで昭和25年中区桜通りに店舗兼住宅を建て、繊維問屋北川商店開業した時は次男辰男は白水館に住んでそこから通学した。長男万喜男と猿投を引き払った母と私は北川商店で暮らすようになった。父も同居という形でいたが、3丁西の白水館にはトヨちゃんと可愛い赤ん坊がいるから落ち着かない。トヨちゃんの処から店に通うのも、本宅とからトヨちゃんのいる旅館に帰るのも、気が乗らない。馴染めない日常生活で家じゅうがストレスをため込んだいた。

 

朝鮮戦争が始まる。

釜山橋頭堡の戦い - Wikipedia

釜山橋頭堡の戦い - Wikipedia

     to be continued

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和23年6月28日福井に大地震発生。昭和20年7月の戦災(福井空襲)からの復興途上にあった福井市を直撃した都市直下型地震であった。

福井地震 - Wikipedia

  昭和19年12月東南海地震(M7.9、 震源地和歌山県新宮市)が発生した。

その時私は猿投の家の便所でしゃがんでいる処を大揺れで転がされて泣き叫んだことを思い出していた。

 だから地震の怖さは分かっていた。

大地震のニュースは父を驚かせた。終戦後のこととて福井の名越さん処とは連絡がないまま過ぎてしまっていたのだった。

すぐに見舞金を送り、家を普請してくれた猿投の大工親子を福井の名越宅に送り込んで復興をしえんした。

小僧の頃から商いを教えてもらった恩に報いた。

1ヵ月ほど過ぎて福井の名越社長から修復再建できた家を見に来てほしいと招かれた。「卯来夫も連れてってやる。」

子供が乗り物で旅行することはワクワクして楽しいはずだが、そう言われても嬉しくはなかった。
その頃の家の中は「あっちへ行け!」「おまえは黙っとれ!」という父の怒声と母の泣き声が絶えなかった。

怖い父と出かけるなんて考えたこともなかった。

名古屋駅のホームで蒸気機関車が入ってくると父は私の手を取って「危ないからもっとこっちへ来ないかん。」と引いてくれた。

「?」初めて父の優しさに触れた思いがした。

乗って座席につくと窓から弁当売りの声が聞こえてきた。父は呼び止めて弁当とお茶を買った。2年前に母たちと新潟へ行った時の名古屋駅の雑踏やあの猥雑な喧騒はどこにも無く、ただ誰もが大きな荷物を背負ったり両手にも下げていた。

やがて甲高い汽笛が鳴るとゆっくりと歩くほどに列車は動き出した。ゆっくりと売り子も歩いて釣銭を渡している様子が見えた。

レールの音が小刻みになって外の景色が後ろへ流れるようになった。父は座席に立ち上がってズボンとワイシャツを脱いだ。それをきちんと畳んで網棚に乗せた。見ると他でも立ち上がって同じようにしている大人がいた。暑いのでステテコ姿になって靴も脱いで扇子を広げて寛ぐのが旅慣れた旅行者のやり方らしい。

やがて米原駅。「残日録84-6旅たち」の②米原駅前の理髪店のあった米原駅だ。

「関釜連絡船で密航して・・・」とはあとで知った事だが、「若い時に世話になった」ことを旅行の間に聞かされた。

敦賀駅を過ぎて福井駅に着くまでいくつものトンネルを通ってきた。汽笛が甲高く二回鳴ると窓際の乗客は大急ぎで窓を閉める。

ガタン、と風圧で音がすると車両の隙間から機関車の煙が立ち込めてくる。手拭いで口を覆って煙や煤から身を守る。トンネルを抜けるとヤレヤレと窓を開けて新鮮な風を入れる。また汽笛が鳴る。窓を閉める。口を覆う。トンネルを抜ける。

中に長いトンネルがあって、これを抜けるまで目を開けていられないほど苦しかった。

福井駅に降りた景色は名古屋の焼け野原にところどころに焼け焦げた建物が半壊のままであったり戦災と震災で瓦礫が積みあがったりしていた。名越さんの自宅まで迎えの車で街中を通ると道路が割れたり壊れたままの橋が見えた。

疲れて眠ってしまったのか名越宅のことはよく覚えていない。

翌日帰る前に見てもらいたいと案内されたのは、新しい名越紡績の工場であった。戦災で焼かれたが終戦後すぐに再建し、丈夫な耐震構造の工場では多くの織機が騒音を立てて稼働していた。

 大人のやり取りは分からないが名越社長の物静かな話し方が父とは違うな、と思った。

帰途に就いた列車ではまた大人たちがステテコ姿でトンネル通過の度に窓を閉めたり煙にむせたりしていた。

敦賀駅で停車中に父は「むかし、ここを通過する列車の窓は暗幕を下ろして外を見せないようにしていた。」と思い出して言った。敦賀港には日本海軍の基地があったところだから憲兵が乗り込んできて「厳しく取り締まった」そうな。

けんぺいって何?警察よりもっと怖い。意味がわからないまま、父より怖いのか? でも今日もアイスクリームを買ってくれたから怖くないんだ。地震のことよりも父と行ったこの福井旅行が唯一父との良い思い出になった。

名古屋に帰ってからの父は元の恐ろしい父親に戻っていた。

火宅の家だ。

ユダヤ人難民たちが上陸した頃の敦賀港(出典:「ふるさと敦賀の回想」より)

 ユダヤ人難民たちが上陸した頃の敦賀港

                                    to be continued

 

 

 

 

 

 

 

 

父の性格は、

「頑固で短気、我慢強くて執念深い、見栄っぱりで内弁慶、金への臭覚が鋭い、その上大声で怒鳴り散らす。」

「いやなら出てけー!」って言われるのがなんと恐ろしかったことか。それで足りないと殴られる。

ヤン・ソギル「血と骨」の主人公と同じではないか?!

「知恵がまわる、機を見るに敏、無駄を嫌い、おだてに乗る。」

等々、簡単には言い尽くせない大人の陰陽併せ持つ性格は異国で生き抜いてくる中でできたものだ。

この「おだてに乗った」ことの筆頭に、この「猿投村の移住、山村開発」がある。

猿投山

 

ファイル:View of Sanageyama, Hasama-cho Toyota 2013.jpg

父の生涯を俯瞰してみる。

昭和18年        猿投村に移住

昭和20年8月15日  終戦、山村開発は継続。

昭和22年   名古屋市中区桑名町に旅館白水館を建設開業、女将さんとして、山田富子。       

昭和23年   猿投山の粗朶の切り出し作業を猿投町より請負う、 そのためトヨタ製の木炭トラックを購入。同時に猿投山の粗朶伐採現場まで広沢川に沿っての道路整備事業は難工事だった。

昭和25年   山田富子に婚外子誕生、これを認知。女児で富江と命名。

中区桜通りに繊維問屋北川商店開業。

昭和27年  北川商店閉店、

喫茶レストラン「さくら」開業、母 吉江が専業。

昭和28年  猿投村から観光事業のために矢作川の畔で          ホテルの建設を勧められ、自家で着工。    

 

                   矢作川 平戸橋                                 

昭和28年   猿投村が町制施行して猿投町になる。

昭和30年  次男辰男が大阪の丁稚奉公から帰還、父の助手。

昭和33年  喫茶レストラン「さくら」廃業。

昭和34年  観光ホテル「矢作園」完成。山田富江が女将で

共同経営者。父はここに居場所決め、時々名古屋へ出向いて目を光らせた。 母吉江が白水館をみることになる。                             

昭和35年        長男万喜男結婚、教員で東京在住。

昭和37年        三男卯来夫結婚、2日後次男辰男結婚。

昭和39年10月     東京オリンピック

昭和42年        猿投町が豊田市へ編入される。 市は矢作園の敷地地権者が豊田市に移行したので契約の見直しをせまってきた。               

昭和45年3月      大阪万国博覧会

昭和47年        三男卯来夫が元喫茶レストラン「さくら」の 一部を改装して洋菓子店とビストロ「シェ・キタガワ」を開業               

昭和50年    山田富江、田島宏三郎と結婚。入り婿という形で

矢作園に従事する。

昭和53年    次男辰男が白水館を取壊し名古屋ビジネスホテルを開業。                   

昭和60年    ビストロ「シェ・キタガワ」廃業、

三男卯来夫破産宣告をうける。卯来夫は離婚。               

昭和61年    三男卯来夫を救済する目的で長兄万喜男

の委任状と印鑑証明書を次男辰男が預かったが、次男辰男と父は共謀して万喜男の実印を偽造し父の名義に変えた。                                  

平成元年         山田富子死去、大腸がん。

平成3年         三男卯来夫、矢作園に復帰。

平成11年        田島富江死去

平成17年        愛知 万国博覧会

平成19年        岡崎地裁で土地明け渡しと原状復帰命令

平成21年        北川岩男 死去、99歳

     「骨上げの 白き熱気や  梅の花」 きの字

 時系列に羅列した事象の合間に家族の凄まじい葛藤があった。

メカちゃん(ぼくら兄弟はこう呼んでいた)はよく父に寄り添って助けてくれた、と今はそう思えるようになった。

       to be continued

 

               

 

               

 

 

 

 

 

 

 

日本陸軍が南方方面に進駐し好景気が続く株の市場で「軍需株が危ない !」といううわさ話があり、不安と迷いで気を揉んでいた。大本営発表とは違い、真珠湾攻撃のあとの戦況はよくないらしい と機関投資家が目立たぬように軍需株を小口に分けて売りにだしていたことがあとで分かってきた。値動きを注意深く見ていると値が崩れ始めている。買った元値以上を残すには売って切り抜けるしかない、親父は自分が戦争景気に浮かれて失敗したことを思い知った。

「海軍の山本五十六元帥が南方で戦死」の報道はこの戦争の行方を暗示しているようで、空襲があるかもしれないという不安はみんなが持っていた。バケツリレーで防火訓練やら竹やりで戦闘訓練やらで国家発揚を強いられていた。

この店舗の賃貸を仲介した中島不動産が猿投村の開発事業の開墾地(約5000坪)の調査測量のため現地で村長らと打ち合わせを済ませていた。

先ず北川家の本宅を建てるために丘の一部を整地し井戸を一本掘る手配をし、家の完成に時を合わせて花山商店は整理して閉めることにした。

昭和18年3月猿投村の住人になった。もう花山梅吉は完全に解消し北川岩男を堂々と名乗った。

 

・・・ここまで書き進めてきたが、改めてこの残日録を読み返してみると、冗漫で取りとめのない語句のつらなりであった。

朝鮮人の父親の愛憎と毀誉褒貶に満ちた生きざまを書き残さねばならないと思ってきた。枝葉にばかり話が傾いて行くのは避けねばならない。また書き連ねているうちに「おれの」とか「親父が」という人称の呼び方は不適切に思えてきた。鬼籍に入った今敬意をもって記すべきであった、「父は・・」と。

   あらためて家族構成を記すと(昭和18年)、

       北川 岩男(父)   34歳  

       北川 吉江(母)   29歳

       北川 万喜男(長男) 9歳

       北川 辰男(次男)  7歳

       北川 卯来夫(三男) 4歳    であった。

                 次回から「戦後編」   to be continued

 

 

 

 

「ドメスティック・バイオレンス」とは英語の「domestic violence」をカタカナで表記したものです。略して「DV」と呼ばれることもあります。
「ドメスティック・バイオレンス」の用語については、明確な定義はありませんが、日本では「配偶者や恋人など親密な関係にある、又はあった者から振るわれる暴力」という意味で使用されることが多いです。配偶者からの暴力を防止し、被害者の保護等を図ることを目的として制定された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」(配偶者暴力防止法)は、「DV防止法」と呼ばれることもあります。(内閣府男女共同参画局の定義)

 

まだDVという言葉もなかった昭和の時代、家庭内暴力は日常茶飯事であった。

夫婦喧嘩とは違った家庭の裏庭の不快で陰湿な光景である。

北川岩男はここで商売人として成功し、親元への送金を続けるために辛抱と節約、そして商いでは読み書きが出来ずとも頭を下げて礼を言うようにしてきた。

福屋旅館の言う「国籍取得」が動機ではあったが、取引の帳票や手紙の書き手ができるというあてもあっての結婚だった。

互いに身の上も顔も知らずに結婚を進めてきた福屋旅館らの軽薄さは猫の番いを作ったようなものだ。そんな出会いがあっておれら兄弟が生まれた。

「角織商店へ納品書と請求書を書いてくれ」と親父が嫁(おふくろ)に言ったら、突然泣き出して澄田家へ帰ってしまった。

急なことで「訳が分からん・・」。出てったまま夕飯時にも帰らない。

澄田さんと浅井さんに伴われて吉江は夜遅くに帰ってきた。

吉江が泣きはらした顔をうつむけたままでいるのを浅井さんに膝をつつかれて「ごめんなさい、旦那さま。お許しください。」と教えられた通りに手をついて謝った。

しかし親父には何がどうなっているのか分からないのだ。

澄田さんはその訳を、「吉江は読み書きができんのだわ。学校へ行かせようとしたが嫌がって行かなんだんだわ。家のことは何でもできるようにちゃんと教えたるでよう。こらえて頂戴、花山さん。」と説明した。

「そんな話は聞いてない ! 伝票をちょっと書いてくれと言っただけだ。そんなこともできんのか!」 

あとは花山に吉江を押し付けた後ろめたさもあって世話役のふたりはあれこれ言い訳をし、吉江には「旦那さまの言うことをよう聞いて可愛がって貰わないかんぜ。」、また親父には困ったことがあれば「何でも相談してちょうよ。」とその場を繕ったように安請け合いをして帰っていった。

翌日から無口になった。吉江は旦那さんと目が合わせられない。

お給仕する手が震えた。旦那さんは飯茶碗や皿を荒っぽく音を立てて、時折吉江を睨みつけながら食べていた。

吉江は初めて恐怖を感じた。

取引先の番頭らに誘われて酒を飲むようになっていたが、周りの旦那衆並みに晩酌をするようになっていた。

酒を飲みながら福屋旅館に騙されてこいつと一緒にさせられたと思うと無性に腹が立ってきた。

関釜連絡船で密航した時からの辛苦と我慢の糸が切れた。日本人の粗悪品を掴まされたと言って、罵詈雑言、殴る蹴るの嵐が襲った。

ある日嵐も静まってきたと思われたとき「・・澄田さん処へ行って金を借りてこい !」と吉江に言いつけた。

吉江の話を聞けばすぐに察して澄田さんが金を貸してくれるに違いないという打算があったようだ。

こんなことで福井仕込みの商才が芽を吹いてきたのか。

金は薬か、嵐もやんで旦那さんの顔も穏やかになった。

吉江は店のことにも関心が向きそうになった頃、自分が妊娠していることがわかった。

急に旦那さんの顔が仏さまになった。

この「辛苦と我慢の糸」は生涯親父について回る。何度もこの糸は切れるようになる。

「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。」 トルストイ

                   to be continued

福屋旅館では下宿を兼ねた。

数年前に福井から出張の度にこの旅館を定宿にしていたことや、名越社長さんからの口添えもあり下宿させてもらうのに問題はなかった。

万松寺通りの路上で茣蓙を敷き、フエンツやハギレの束を並べて売ることについては福屋の主人が地元の顔役に筋を通してくれた。

萬松寺筋

                  (昭和初期の万松寺通り)

始めは看板があるわけじゃなし流暢な言葉もできないので、無口な販売で売れなかったそうだ。

やがてハギレの束を天秤ばかりで量り売りしているのが評判になり、また反物のミミを手でつまんで勢いよく手幅で広げ、いる処で爪で切り込みを入れて布地を切り裂いて売ってる姿がひとの興味を引いたようだった。口コミで服地や端切れがよく売れるようになり親元へ送金ができるようになった。

福井からは売れ行きに気をよくして反物をどんどん送ってくれるようになり、福屋旅館主人や万松寺商店街の人らにも認められて益々励んだ。

また人との付き合いについては、六甲、有馬の劣悪な飯場で朝鮮人らが揉め事に巻き込まれて酷い目にあっていたのを目にしていたので気を付けていた。糊口を凌ぎながら親元へ送金ができることを妨げるような争いごとは避けた。朝鮮人は同胞を求めて屯して日本人に嫌われてきた。侵略され搾取され続けてきた血が騒ぎだすと口論が暴力沙汰になり周りの顰蹙を買うのだ。

 2年半ほど過ぎたある日、福屋旅館の主人が親父に結婚話をもってきた。

万松寺通りに菊花園という大きな娯楽施設や催事場があった。

その澄田社長の家で女中奉公している北川吉江(19歳)を嫁にするという話を持ってきた。

急なことで思案して返事に窮していると、澄田家の奥様の弟の浅井さんと福屋の主人が「結婚して国籍を取らんと、これからは遣り難くなるぞ。養子縁組して戸籍を北川にすれば梅ちゃんは日本人だでよう。」 どうやらこれは澄田家に忖度した浅井さんと福屋旅館が絵を描いたようだ。それがおれのおふくろになる話だ。

福屋旅館は豊島(ツシマ)通りの中ほどにあり、澄田家は隣の白金町ですぐ近くにあったのだ。

昭和8年(1933年)の秋、24歳で親父は北川吉江(19歳)の入り婿として結婚した。北川岩男になった。

豊島通りの借家で昭和9年12月に長男万喜男誕生、昭和12年に次男辰男そして昭和14年8月5日三男卯来夫、当ブログ子(きの字)が生れた。

  なんと!このブログをアップロードする今日は8月5日である。これは蛇足。

子供達も大きくなり商いは順調に伸びて、借りた倉庫も手狭になり

名古屋駅前大通りの桜通り本町に店舗兼住宅を借りることになった。

店の大通りをの向かえには一宮の繊維総合商社瀧兵があった。

後年、昭和27年頃  まだ焼け跡がそこかしこ。桜通りを東に見る。左手奥の戦災で煤けたままの瀧兵ビル。中央奥の白い建物は相互ビル、右の角ばった建物のある場所が花山商店。

 

花山梅吉商店である。

繊維業界では凄腕の商売人としてこの名で通っていた。

大口の返品物件があると「梅ちゃんが引き受けてくれた。」こともあった。

新店舗ではフエンツばかりか羅紗も扱い、シンガーミシンを買い入れて縫子さんも雇い服飾へも手を広げた。

国情は大東亜戦争に向けて大いなる盛り上がりを見せ、取引先で勧められた軍需株は新たな利を生み、荷物を日本軍とともに台湾やマレー半島まで送り出すようになった。争いごとを避けてうまく乗り切ってきたつもりだったが、目先の好景気に浮かれて、いつの間にか大きな争いに巻き込まれていることに気づくことはなかった。

 昭和15年、静岡市で大火があり罹災者に多額の寄付金をした篤志家として花山梅吉商店が新聞に載り名を揚げた。

「残日録84-3」に記したように山村の開発を進めて果樹園を開く構想がここから始まる。この開発事業の背中を押してくれたのが昭和17年の株の動きだった。威勢の良い国威高揚の政府の発表と株の動きは低迷していた。軍需株が危ない!

 

                      to be continued

 

 

 

 

 

福井に流れ着いたおれの親父は、米原の床屋さんが若い番頭風に身支度を整えてくれていたので、もう兵庫県有馬から尾羽打ち枯らした風体ではない。

詳細は分からないままだが、関釜連絡船で密航してきたほどだからそれなりに目端も利くようになっていたに違いない。

「親元へ送金」という命題を抱えながら働く場所を探した。

口入屋に「親元へ送金」という事情も話して働く意欲を見せて住み込みで働けるところを探してもらった。

職を得るまでの細かな事は晩酌しながら福井時代を回想している親父に聞いても「・・・世話になったなあ・・」と大きく息をついていただけだった。

足羽川に沿った倉庫での仕事は掃除、雑役、トラックの荷下ろし出荷の手伝い、これが重くて、小柄だからトラックの荷台にとどかない、「・・これが難儀だった。」

始めのうちはこれがどこの会社で何の倉庫かも分からなかったが

福井製錬加工という繊維産業の中核を担うような大きな事業所だとあとで知った。

 

データベース | 1948から今日まで-福井地震の記録

『精錬(せいれん)とは、染色の前段階として、糸の不純物や汚れなどを除去する工程である。 天然繊維の糸は、紡績された段階ではまだ不純物や汚れが付着しているため、染料を弾いてしまう。 そのため綿糸では水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)、絹糸では炭酸ナトリウム(無水炭酸ソーダ)を用いて不純物を取り除く必要がある。』

ここで2年ほど過ぎた昭和3年ごろ、「親元へ送金」しながら働いている事情を聞いたここの取引先の紡績工場の社長が引き抜いてくれた。

ここで親父は細々と雑役をするかたわら繊維全般を教わった。

木綿、人絹、絹糸、羊毛、織布のでき方、また原糸が製錬加工所から紡績工場にくる流れも分かるようになった。

1930年代の好景気で「親元へ送金」に力をつけた親父は新たな野心を抱く。ここで見聞きした中に「B反(ビータン)」というものが多く出て格安で出荷されていく景色があった。

朝鮮ではどんな布地でも重宝していることを思うと、親父はこれで「うん、稼ぐんだ」と思った。

社長に相談してみると「やる気になった。」ことを喜んでくれた。

しかし物の売り買いについては未熟であるからすぐにはさせず

名古屋の取引先何ヶ所に納品とか掛け取りとか使いをして勉強させた。

 昭和6年(1931)名越欽作さんの後押しで名古屋へ

          to be continued

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 群馬県桐生市浜松町のお湯屋「月の湯」(ここらではお風呂屋さんのことをこう呼ぶ)の山田さんの奥さんは新潟に嫁いだ姉のハツエから音信が無いのを訝っていた。

気がかりになった山田さんは北川弥曾次ハツエ夫妻に手紙を出してみたが連絡もつかない。

安塚村役場に消息を問い合わせたりして、はじめてスペイン風邪でハツエ夫婦が亡くなり、子供が離散しているのを知った。

 これと前後して名古屋の澄田家で女中奉公していた吉江の弟を探すべく、澄田家から新潟県の安塚村に何度も北川弥曾次ハツエの子供について問い合わせがきていた。

役場では名古屋市から問い合わせと群馬県桐生市からのそれとはすぐには繫がらなかったに違いない。

澄田家に役場から戸籍の確認が届いて間もなく、ハツエには妹(叔母)がいて群馬県桐生市でお風呂屋を営んでいる。

北川一夫はその叔母に引き取られているとの朗報があった。

澄田家と桐生の叔母があれこれ連絡を取り合って吉江を桐生に行かせて弟に会わせることになった。

桐生駅で会えるとなっても、幼いころに別れたままなので

顔が記憶にない。不安に思っていたが遠目ですぐに弟だと

「分かった!」そうだ。

「はっきりと名前を言わないかんよ!」と澄田さんに言われていたので「北川吉江でーす!」、弟は「・・かずお・・」と上目遣いに顔をみた。吉江 11歳、一夫 8歳の再会だった。

以来1980年頃まで山田叔母さん、息子さんの直吉さん、その娘さんまでお付き合いがつづていた。

それぞれの人生を語ったり書き綴っていると生物分類ツリーのようになり枝葉末節の淵に嵌る危険がある。

本筋の「おれの親父」に戻ろう。

福井を目指した。

         to be continued