山村開発も先が見えてきたので、復興で忙しくなる名古屋で旅館をするのが上策と父には思えてきた。
名古屋市中区桑名町に約100坪を買い、白水館を開業した。
母自身は客商売には向いていないことを自覚していた。
「誰か知り合いでおらんか。探してこい。」と父に言われた母にはひとり心当たりがあった。
澄田家いた頃、用をいい遣って万松寺通りによく来ていたので大塚呉服店に津島の親類から見習い奉公に来ていた豊ちゃん(山田豊子)とは顔なじみであった。
名古屋駅前笹島の旅館で働いているのを探し当て、よくよく話して了解させることができた。「万松寺で元気に服地を売ってみえた花山さんのことはよく覚えている。」と開業準備するころには喜んで白水館へきてくれた。
開業準備中の旅館で、私ひとり父に猿投から連れてこられたことがあった。父と私と豊ちゃん、三人でご飯を食べて寝てしばらくすると食あたりか?お腹が痛くなって下したりした。豊ちゃんはお腹を優しく撫でてくれて痛みが薄らいていった。
トヨちゃんはいい人だなあって思いながら眠った。
遠くで汽笛の音がして目覚めた。寝ている枕にカタンカタンと名古屋駅の汽車の車輪の振動も伝わってきてた。まだここと名古屋駅の間には焼け跡が多く残っていて建物はなかったから汽笛も線路の音も届いたのだろう。
同じ頃、猿投山の粗朶の切り出し作業を猿投町より請負っていたので猿投に帰ってきて、広沢川に沿っての道路整備ために人を集めたり切り出した粗朶の送り先等多忙な日々を送っていた。粗朶搬送用にトヨタ製の木炭トラックを購入した。

買ってすぐそのトラックを人に運転させて父とトヨちゃんが猿投の家に来たことがあった。
これはすぐに地区の衆の口の端に上り「あれはきれいな人を見せに連れてきたんだな。」と大人の話を聞いた子供が学校で尾ひれを付けて話すような有様だった。
この時私には知る由もないが、母は自分が頼んで連れてきた妹分のようなトヨちゃんと父の関係に気付いて心が焦げていくのを感じていた。「あの時ウー坊(私、卯来夫のこと)と一緒に家を燃やして死のうと思った。」とはずっとあとで聞いたことだ。
学校では「ウー坊の父ちゃんトラックを買った。きれいなメカケもおるげな。」
事情が逆なら私も同じように意味も分からずはしゃいで吹聴するしつけの悪い子供が大勢いた。
メカケってなに?何だかひとに聞いてはいけない気がした。
旅館は繁盛した。
復興していく都会の需要に応えた事業で、商人、出張社員、
歌謡ショウや映画の撮影隊などで盛況であった。
中学生になるのを機に長男万喜男は名古屋の前津中学校へ、、次男辰男は名城小学校へ転校した。三男卯来夫は母と猿投に残った。母の心は知らずに私は兄たちがいなくなった淋しさを言い続けていた。
母は「ウー坊がきけせんもんで来た」と私を連れて名古屋へ行けば「来んでもええがや!」と怒声が飛んできたり、ある時は帰りしなにトヨちゃんも父と一緒に帰る処を見送って玄関に出た時「あんたら、並んで見送らんでほしいわ!」ってその場で泣き崩れてしまった。
あとで思えば母は父に何をどうしてほしいのか分からないままじっとしていられないのでウー坊を連れて名古屋に来る。
すると父は顔を見るだけで癇癪を起して手あぶりの火鉢を「ぶつけたろかー!」と睨みつける。私は恐怖で泣き出す。
こうなると「父は・・」ではなく「オヤジは・・」になってしまう。終戦直後の名古屋駅で気炎を上げ暴れていたあの朝鮮人と同じだ! 福井旅行でラムネを買ってくれた父はもういないんだ。
昭和23年から昭和25年の間に名古屋の名城小学校に転校し、4年生になる前に猿投の北部小学校に転校し、5年生の夏休みが終わった新学期からまたまた名古屋の名城小学校転校させられた。名古屋の小学校では勉強について行くのが難しく都会の喧騒と軽薄さに流されていった。名古屋の旅館とは1キロほど離れた処に中劇という劇場があり、ここでは映画と歌謡ショウを常時かかっていた。ここに出演する芸能人は白水館に泊まるのでここの支配人にいつでも入れてもらえるこたができた。美空ひばりの歌謡ショウもこの劇場で行われ、その宿泊も白水館だった。
トヨちゃんは私を可愛がってくれた。円頓寺通りにもよく連れてってくれて喫茶店で赤い色のソーダ水にアイスクリームの入った飲み物を飲ませてくれたてうれしかった。
ある時私が朝ご飯を食べてるときに「明日父兄会がある。母ちゃんに言わないかん。」と言ったら、長兄の万喜男が「なんでもっと早よう言わんのだ、急に母ちゃんはこれんぞ!」叱るように言った。トヨちゃんが「私が行ってあげるでええがね。」と私の頭をよしよしと撫でてくれた。
万喜男は「親でもないのが行ってどうするんだ!」、すかさず父が「行ってやると言っとるのになにを言うんだお前は!」と言って兄を張り飛ばした。
「だってホントだがや!」歯を食いしばって言い返すのを起ちあがって背中を蹴飛ばせば「おれが父兄会に行ったる!」
トヨちゃんは泣いて奥へ走りこんでいってしまった。
ただ「父兄会」と言っただけなのに修羅場に様変わりした。
このためかどうか分からないけれど間もなく猿投の北部小学校に転校した。都会の水を飲んだものが子供とはいえ擦れた様子で戻ってきた。
1年生から見てくれていた担任の石丸先生に顰蹙をかった。
「北川君は名古屋でウソを言うことを覚えたね。」と言われたことは生涯忘れられない。
昭和25年トヨちゃんに女子誕生、父が認知。豊江と命名した。これを先々のことを考えてのことか分からないが、豊江をすぐに母の養女に養子縁組させた。何もかもDV付きの手続きだから母には否やを言えるわけがない。この後次男辰男が山田富子の養子として縁組させた。戸籍を自分の都合でいじくるこのやり方には知恵を借りるとか目論見の図絵を描くとかしてくれるひとがいた。
知恵がないまでも父には始めから分からないのが当たり前のことなので、ここ一番という時には恥じらうことなく周りの者に聞いて回り、このことは誰それと当たりを付けて相談を持ち掛けた。会計処理、税金対策などで聞いて回ってるうちに
地方信用金庫で金銭管理に失敗してドロップアウトした大野と言う浪人を見つけた。父より年若く病がちな妻と幼児をふたり抱えていた。常傭とまでもいかないが事あるごとに駆けつけてくれるいい知恵袋であった。
この切紙細工のような手管はこの知恵袋の匂いがした。
しかし3年ほど後に養子縁組は取消してもとに戻る。
そんなことで昭和25年中区桜通りに店舗兼住宅を建て、繊維問屋北川商店開業した時は次男辰男は白水館に住んでそこから通学した。長男万喜男と猿投を引き払った母と私は北川商店で暮らすようになった。父も同居という形でいたが、3丁西の白水館にはトヨちゃんと可愛い赤ん坊がいるから落ち着かない。トヨちゃんの処から店に通うのも、本宅とからトヨちゃんのいる旅館に帰るのも、気が乗らない。馴染めない日常生活で家じゅうがストレスをため込んだいた。
朝鮮戦争が始まる。
釜山橋頭堡の戦い - Wikipedia

to be continued