「世の中は起きて箱して寝て食って後は死ぬるを待つばかりなり」一休禅師
9/23、朝日新聞「声」欄の投稿(千葉県の荒木昭生さん 85歳)を読ませてもらった。
同じく昭和21年小学校入学の時代もみな「食って寝て・・」難儀をしてきても希望があった。
令和のこの時代は希望もなく「人間としての生活の意味」を失いかけていると静かに語りかける言葉に感じ入った。
今はまた「寝て食って・・」に付け足さねばならない文言がある。
「寝て食って医者に通って・・・」
「世の中は起きて箱して寝て食って後は死ぬるを待つばかりなり」一休禅師
9/23、朝日新聞「声」欄の投稿(千葉県の荒木昭生さん 85歳)を読ませてもらった。
同じく昭和21年小学校入学の時代もみな「食って寝て・・」難儀をしてきても希望があった。
令和のこの時代は希望もなく「人間としての生活の意味」を失いかけていると静かに語りかける言葉に感じ入った。
今はまた「寝て食って・・」に付け足さねばならない文言がある。
らでぃっしゅぼーやのお試しセットを届けてもらった。
15種類の野菜果物等のほかに食べ方レシピも同梱されてたよ。
どれも美味しかったが、黒アワビ茸は始めて食べた。次に買うときは黒アワビ茸を多い目に注文しなくちゃならん。納品リストには「お野菜担当からのおしらせ」が載っていて、食べごろなどアドバイスが書かれていてる。美味い塩(海の精)を付けてBon Appetit![]()
「らでぃっしゅぼーや」GOOD JOB
きの字
毎年、娘二人から
「父の日」、
「お誕生日」そして
「敬老の日」にはお祝儀を貰っている。
孫娘がやっている「おばんざいの居酒屋」で賑やかに飲んだり食べたりしてご機嫌な敬老の日であったよ。

おばんざい「あんこ」![]()
父の生き方を批判したり悪口を言うのに「だから朝鮮人は嫌いだ。」とブログに書いたことは間違っていた。
粗野で乱暴で狷介な者は嫌われる。朝鮮人だからではない。
人種に関係なく粗野で乱暴で狷介な者はいる。粗野で乱暴で狷介な者が声高に言いつのったり流布させていつの間にか自分たちも粗野で乱暴で狷介な者に成り下がってしまうのだ。
「残日録84-3,84-4」にヘイトスピーチを書いたことを反省している。
朝鮮人の子供をいじめていた自分が「・・おまえの父ちゃんも朝鮮人だがや!」って言われた驚きは終生忘れない。小学校5年生になってから「宝島」、「西遊記」、「ロビンソン・クルーソー」等を読んでいく中に「アンクル・トムの小屋」があった。そこには「くろんぼ」と呼ばれた人たちの辛い暮らしと祈りが描かれていた。
小学校の正門の前にはアメリカ空軍病院(元逓信局の大きな建物で、米軍に接収されていた)の通用門があった。
昭和26年前後は朝鮮戦争が始まっていたので、当時見たこともない救急車が小牧基地からあわただしく行き来していた。午後になるとそこの通用門には夜の職業婦人らが米兵が出てくるのを待っている風景が日常化していた。
溝口健二監督作『夜の女たち』1948年(写真=松竹/PD-Japan-film/Wikimedia Commons)
何十年もあと、同窓会で会った先生方はこの米空軍病院の通用門の有様に心痛し、子供らを早く帰宅させていたと話していた。
この進駐軍の黒人兵は「アンクル・トム」とは違い堂々と白人兵と同等にふるまって見えた。
長じて視野が少し広くなると藤村の「破戒」、部落民、朝鮮人、ユダヤ人、アパルトヘイト等々いたる所に差別がみえてきた。「ベニスの商人」、映画「栄光への脱出」、「夜と霧」、そして「アンネの日記」、近いところではイタリヤ映画「La vita è bella」、これらは自分の無知もあって見るもの聞くものはシオニズムのシンパになった。
劇団民芸の「アンネの日記」は涙なしで見ることができない。

そのユダヤ人国家がパレスチナで半世紀余の蛮行を繰り返している。
大国アメリカがイスラエルに武器を供与して、パレスチナ人の虐殺に手を貸している。
もうアメリカ離れが始まってる。
2024 9/7 きの字
オヤジ
が生きてると「・・お前もアカになったか
」って言うだろうな。
「えッ
知らなんだか![]()
」って言い返す。
いま きの字 は85歳、真っ盛りの後期高齢者だよ。
2016年から毎朝6時に散歩
、そしてラジオ体操が日課さ。
ところが2020年頃右膝が痛み始めて整形外科に通院、関節注射とリハビリが続いた。整形外科は同様の高齢者が大勢きていて混みあっている。
3年間通院して途中痛みが和らいだり辛くなったりの繰り返しだった。
リハビリと言えば理学療法士が右足の屈曲伸展をしてくれるけれど自分には効いてるとは思えない。施設に1台だけあるエアロバイクはいつも順番待ちで都合の良いときに使うのは至難。
![]()
理学療法士に聞いてみた、「あのエアロバイクは幾らくらいするものなの?」「・・ピンキリですよ。うちにあるあれは高いやつです、フィジカルデータがいろいろ出るからね。安いのは2万円くらいでありますよ」
早速ネットで検索![]()
あったよ![]()
2023年4月、早速購入し、漕いだ。
毎日午前20分、午後20分漕いだ。
11月になるとハム筋肉が少し付いてきて右ひざが曲げられるようになった。
漕ぎ始めて2・3分は動き辛いがこれを過ぎると漕ぎ終えることができる。ひと汗かいた!って感じで気持ちいい![]()
このエアロバイクでぼくは変形性膝関節症を克服した![]()
毎朝6時に散歩
、そしてラジオ体操が日課さ。
治りにくい方もお試しあれ。
買って置物にしちゃダメよ。
漕がなきゃダメよ![]()
きの字
調べ見たら 2010年4月2日にブログを始めていたよ。
料理レシピのタイトルは「若竹煮」。
「みなさん!アメブロのビギナーです。よろしくね。」 と始めている。
この頃の文章を見ると、分かりやすく軽妙に書かれている。これと比べると 直近の「父の来歴」(7月~8月)の文章のなんと下手くそで退屈なこと!
高齢者のきの字が書けばどれも残日録になるから
「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことをまじめに」(井上ひさしさんの座右の銘)書いていこう。
しばらく「父」苦労話から抜けてみようと思う。
実は父の亡霊が見え隠れするのよ。
台風10号→熱帯低気圧、まだ東海洋上にあり。
きの字
台風一過・・・、とはならない。
近頃の台風は列島の上陸の仕方をわきまえていない。
近くまで来たのならサーっと通り抜けていくのが真っ当な野分の在り方でないか。
10号メは上がり込んだら中々動かないで風雨で暴れまわるから堪まったもんじゃない。
長ッチリがやっと出て行ってくれると思ったら気を変えて北に曲がって再上陸してくる気配。この台風は性悪だねぇ。

温暖化が進む。
きの字
矢作園の建設は施主直営工事で始まった。
鉄筋コンクリート造りの青図面は大手建設会社の社員に内職で描かせた。
予算は未定で、資金は名古屋の旅館から投入した。
ここで父は、嘗て有馬のトンネル工事で差配監督をしていたボスの気持ちになって満足していた。
旅館ではトヨちゃんが接客から勝手仕事まで仕切っていて、父は金庫番でしかなかったのが、様々な種類の工事を直接発注し、資材費、職人の賃金等の支払いを含め、すべて自分で管理して進めることにやり甲斐を感じて力が入った。
終わりのない「D I Y」にハマったのだ。
父は大阪へ丁稚奉公に出していた次男辰男を呼び戻し自分の助手とした。
元々、父はサービス業には疎く得意ではなかった。
トヨちゃんがいたから旅館経営もうまくやってこられたが、この土方やら大工ら職人と一緒に肉体労働をする充実感は、今までに味わったことのないものだった。
矢作川を見下ろす丘の斜面を整地し、建物の基礎が出来るまでこぎ着けたところで工事は休止になった。
どんぶり勘定ではこれ以上資金が回らなくなってきたのだ。
何度も資金繰りに難儀し、途中工事を中断しながらも銀行の融資を受けて完成した。
昭和34年、矢作園は開業し地元猿投町の有名店になった。
1階のステージ付き大広間の宴会や4階の大浴場は見晴らしもよく大評判になり連日にぎわった。
ところが、開店2年目になると売り上げは右肩上がりで堅調に見えたが、営業経費が掛かりすぎて歩留りがない、ことがわかってきた。どんぶり勘定では判断が遅れる。
父は躍起になって経費節減にかかった。
客あしらいの良かった女中さんを辞めさせ、高給取りの板前を解雇する。親方がやめると二番手も追い回しも連れて辞めていくから地元で採用した板前見習いが残った。
トヨちゃんが名古屋の旅館でやってきたように着物の割烹前掛け姿で板場を差配しなくてはならなくなった。
次男辰男は調理師免許を取ってトヨちゃんの調理を見習った。
浴場を予約制にして、浴場のボイラー技士は厨房の助っ人にし、電灯も極力消して回った。
名古屋の旅館とは違い経費の掛かり方がはるかに大きい。
「DIY」の施工はやり残しや欠陥もあり、修繕メンテナンスを続けていかなくてはならない。
経営もさるこたながら、鉄筋コンクリート造延べ600坪4階建てのホテルを「DIY 施主直営工事」で完成させたことは驚異に思うことだが完成度は低い。
修理ややり直しの工事が始まると「DIY 施主直営工事」が面白くなってサービス業の方は手薄になり、お客の満足度は低くなるのは明らかだった。
それでもこの周辺では団体で宿泊宴会ができるホテル旅館は
無かったので、忘新年会、歓送迎会等で利用は途絶えることはなかった。
矢作園の設計者は内職仕事とはいえ建物のデザインを工夫して丘の斜面に各階を川面が見渡せるように階段状にブロックを重ねたような見栄えにしたものだった。
父はその階段状をやめて一階外壁を4階まで垂直に立ち上げ、つまり建屋を四角形にしようと、「DIY 施主直営工事」をはじめた。
次男辰男と三男卯来夫も「DIY 施主直営工事」にかりだされ、大工や土方とともにコンクリート工事を手作業でやる毎日だった。合間に宿泊宴会の仕事もして、資金がある時は専門の職人を雇って、資金がなくなると家の者だけで「DIY 施主直営工事」を続ける。「DIY 施主直営工事」には終わりがない。
昭和55年頃まで続いたが、何かあればこの「DIY 施主直営工事」は生きていて、道具(旋盤、溶接機、電動工具、チェンブロック等々)は大切に保管している。
豊江(トヨちゃんの娘)が結婚して、「DIY 施主直営工事」がひとまずとまった。
矢作川 平戸橋 昭和33年頃
to be continued