おれのおふくろ(北川 吉江)は5歳の時、大正9年(1920)当時大流行したスペイン風邪で両親を亡くした。

新潟県東頚城郡菱里村は医療も行き届かない雪深い山国でほかにも犠牲者が大勢でた。

世界中でパンデミックが発生し、日本では約30万人が死亡した。

島村抱月、大山捨松、西郷寅太郎ら要人も多く罹患し没している。

みずほリサーチ&テクノロジーズ : 大正のパンデミック―スペイン風邪顛末記(2/5)

 幼い姉弟は突然みなしごになり、近所の親戚に引き取られた。

貧しい雪国の家では都会に出稼ぎに出る。力仕事ができない婦女子は女工か女中奉公に出て働き冬を乗り切って暮らしを立ててきた。みなしごをいつまでもおいては置けないのだ。

 まだ5歳のおれのおふくろは口入屋(人買いみたいなものだ)に遠く名古屋の実業家のお屋敷に連れてこられ、ここで下働きとして住むことになった。

ここでの暮らしはどんなものだったか。

昭和58年のテレビドラマ『おしん』を見たおふくろは「・・あたしはあの通りだったよ・・でも『おしん』にはまだ親がおったがね。」というのを聞いて目頭が熱くなった。

この澄田家の奥さんからは言葉遣いや家事のやり方などしつけられた。まだ幼い子供だから口喧しく扱うようなことはなく「・・優しかった。」そうな。

1年余り過ぎた頃、奥さんから「吉江は学校に行かんといかん。」

と言って尋常小学校に行くことになった。かねてから近くの村雲尋常小学校に通学させるつもりで澄田家の奥さんが手続きをして置いたものだった。

春になり澄田家ではそれなりの身支度を整えて学校に行かせた。この子供が先々困らないように読み書きができるようにと考えてくれたのだ。 他の新入生らよりももうお姉さんになっていた。しばらく通っているうちに、同級生らが幼すぎて遊べない。また遊びようも知らない上に年かさもいってるから相手にされない。唱和しても馴染んで覚えられない。「もう学校に行きたくない。」と初めてわがままを言って泣いた。登校したくない気持ちを分かってくれた奥さんは炊事、洗濯、裁縫など家事全般を、厳しく教えるようになった。

 澄田家の親類の娘の逸子さん(奥さんの弟の子、母二つ年下)がよく遊びに来て友達になった。逸子さんは一人っ子でおれの母と友達になれたの喜んで何でも話した。弟が欲しいけれどうちはもう「生まれんわ!」と母ちゃんが言っとった。

そして突然遠い記憶が甦り「弟がおる。わたしに弟がおった! 」と母は叫んだ。それを聞いた澄田家では、母の心もとない記憶を細々と聞きただして「探してあげる。」と言ってくれた。

 手掛かりはあの人買いまがいの口入屋だ。

澄田さんは東頚城郡安塚村役場に手紙で依頼し調べてもらった。

しかし返信は中々来ない。難儀な探し物だとみな分かっているから、母と逸子さん以外は忘れているようだった。

 時々逸子さんは「どうなっとるの?」って奥さんに聞いてくれていたが、「待っとらないかん、その内ええ返事が来るでよう。」

半年も過ぎたあたりで澄田さんは督促の手紙を安塚村役場に送ってくれた。今度は日を置かずに返信が来た。

 逸子さんも一緒にいる処で奥さんは安塚村役場からの手紙を読んでくれた。

「新潟県東頚城郡菱里村字須川の住所に

 北川弥曽次-ハツエ

  長女 吉江、長男 一夫 の戸籍を確認したこと。

 北川弥曽次・ハツエ夫妻は大正9年2月に流行性感冒で死亡。

 長女吉江、大正3年12月12日生まれ、名古屋市の澄田様にて    

 ご奉公。

 長男一夫、大正6年8月31日生まれ、行方が知れず。

 一夫のことは、須川の地縁者に聞き込み探索を続け」てくれるという、ことだった。                                                                                   

  この役場の知らせではじめて親の名と弟の名を知った。

弟はどこにいるのか?

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東頚城郡安塚村1910年ごろ

                                        to be continued

 

 

 

 

 

 

 

 

 

親父が晩年になってから、昔話を取り留めもなく話していた。

 親父は、1909年朝鮮国忠清南道花岳里の村長の家に生まれた。(生年月日は正確ではない。のちに母吉江と養子縁組した戸籍では明治42年12月8日となっている。)

村長は(つまりおれの祖父)は,困窮な家があればよく助けたり、相談に乗ったりして村人に慕われていた。

困りごとを聞いてるうちに借財を肩代わりしたり、キリのない施しを続けているうちに、(このあたりの親父の話が怪しいが、子供の目にはどんな景色があったのかわからない。)家屋敷が無くなり村長さんの一家は貧乏になった。家のために働こうにも仕事がない。

13歳になった頃、意を決して下関へ密航した。

日本で働いて親に金を送らにゃならん。(ここの処をなんどもなんども聞かされた。)中学生なったかならんかの体格もさほど大きくない少年が言葉も不自由なままどう生きたか。

晩酌で口が軽くなったか遠くを見るように話す。

おれたちは興味深く聞くようになった。

 ① 神戸、有馬、三田辺りでトンネル工事の現場で働いていた。

 言葉がわからなくても仕事はできた。つらい毎日だったが食べ物にはありつけた。

 モッコを担がされると自分は背が低いから担いだ相方から叱られて、トロッコを押してこいと追いやられたりしていた。

畚(もっこ)

(モッコ)

 ある時、年嵩のいった労務者が「・・お前は名前を替えたほうが      良い、朝鮮の名前ではこれから何をやっても困るぞ。」と言って名前を付けてくれた。

 花山梅吉。

これを聞いておれは怒りを覚えた。

なんて名をつけたのか! 花札じゃないか! 

以来「梅ちゃん! 」って呼ばれて働いていた。

ところがここの飯場では給金から飯代を天引きするので手元に幾らも残らない。こんなことではいつまでやっても国へ送金できない。②へ行くまでの経路について、親父は話したがらなかったがいかにして近江の米原までたどり着いたか、想像するだに辛くて惨めだ。恐らく飢えた浮浪児に食べ物をくれたのが理髪店の家族だったに違いない。有馬のトンネル工事の飯場は鬼だ。

  ②米原駅前の理髪店の主人の善意に救われた。

住み込みの見習いとして励んだ。

床屋さんの技術を覚えようとしたがまだ年端もいかない子供では

教えるほうもされるほうも、手を焼くか手に余るかだったんだろうよ。剃刀で髭をそる練習は自分の脛毛を剃って練習するのだがまだ毛が生えていない。食べさせてもらえるだけで親元への送金が全くできていない。掃除やら雑用やらで床屋さんになる望みが遠のいていく。

後になって理髪店の娘さんが名古屋の花山商店を訪ねてきて旧交を温め互いの健勝を喜んでくれたことがあったことも話してくれた。良くしてもらった米原の床屋さんのことはずーっと親父の胸に残っていて節目には消息を知らせていたらしい。

親父と歳が同じぐらいその娘さんは見習い中の梅ちゃんに何くれと世話を焼いて面倒を見てくれたそうな。

 1年余りで理髪店をやめた。床屋さんになりたかったけれど一人前になるまで修行していたんでは親元へ送金ができない。

やめるに当たって主人はわずかな給金を貯めといてくれたので、郵便局の窓口で送金為替の書き方を主人もついて行ってくれて教えてもらい親元へ送金できた。

  米原駅でわずかに残ったお金を見せて「これでどこまで行けるか」と尋ねたところ「福井まで」と駅員。

福井へ。北へ。

                              to be continued

 

  

 

 

ここの処、続けてブログを投稿し始めて目についたのか、AMEBAさんから、ジャンル決めるようにアドバイスがきた。

おれの棚卸で、一家の遺言のつもりで書いているからジャンルはどうなるかな?

平たく言えば老いぼれの繰言だね。

まだ楽なのよ、自分自身のことを書いてないからね。

書き進めていくと自分の後ろの道をかくことになるからね。

 さて、新潟。新潟県東頚城郡安塚村が母のふるさと、ひとやま越えると群馬県という山村だ。

鉄道を直江津駅で乗り換え、軽便鉄、道頸城鉄道線にまた乗り換えた。往年の頸城鉄道

(新)2号蒸気機関車(くびき野レールパーク保存車)

      (1911年、コッペル社製。6輪連結タンク機関車、アラン式弁装置を採用)

高原を走る列車の窓から吹き込むすがすがしい風が汗と涙と蒸気機関車の煤で汚れた頬を撫でて気持ちいい。

歓迎された親戚の家で食べた白いご飯のふっくらして甘くて美味しい味は忘れない、いまだ白飯の基準になっている。

お別れの朝お弁当に持たせてくれたまんま丸な大きなおにぎりの

また美味しかったこと。

「朝鮮人」と「真ん丸なおにぎり」の夏休みは終わった。

                                                    TO BE CONTINUED

 

 

 

 

小学校に入学して間もなく猿投神社大門横の近藤さん処のお姉ちゃんがおれを迎えに来て一緒に登校してくれるようになった。

優しいお姉さんだった。

まだ朝鮮人だの引揚者など大人たちのうわさ話や、野卑な悪口雑言をきいたり、M くんなどとケンカなどする前の無邪気で素直なおれだった。

 うちの農場は広く麦畑、陸稲、栗の木、柿、桃、二十世紀梨を栽培していた。昭和18年から農場を始める前から、銃後の戦いで食糧増産に励むという当時の愛知県知事からの督励状とお墨付きがあり、村を挙げて開墾に手をかした。親父から村の衆はそれなりの手当てをもらい、農作業のアドバイスをしながら精を出してくれた。住まいの母屋に隣りあわせで、伯父さん(母の弟)が戦地から復員して嫁を取らせるために一棟建て、東寄りに倉庫、牛舎、鶏舎等があった。

 そんな家の三男坊は始めのうちは可愛がられてはいた。

やがて周りが騒がしくなり、名古屋から焼け出されて路頭に迷っているような人が知りあいを頼って、田舎で「立派にやっとられる北川さん」のことを人づてに聞いて、何組かの家族が身をよせてきた。伯父さんの家も牛舎の横の小屋も被災者の仮住まいになった。全員に飯を食わせにゃならん。母が大騒動して賄いしていたのを覚えている。

親父は疎開者たちに農作業を手伝ってもらうつもりでいたが、

手伝うものはいなかった。

「町で暮らしたものがにわかに百姓の真似なんか出来んか!と親父は怒りまくって「ええだけ食べさせてやったんだがや! もう名古屋なとどこなと帰ってくれ!」

 四家族はそれぞれ去っていった。

被災者たちが来てからというものは、おれからしてイライラして面白くなかった。母ちゃんなんかおれにかまってはいられないからね。

 もっとやりようがあったんじゃないかというのは簡単だ。 

あの時代人情に頼ってもまたその人情に捨てられる。

 みんな蜘蛛の糸にしがみついていたんだなあ。

 ある日畑の向こう側のブランコで兄らと遊んでいると家にリュックを背負った人が歩いてくるのが見えた。

 すると兄の万喜男が「あっ、東京オジサンだ !」と叫んで駆け出した。伯父さんが帰って家じゅうが喜びに包まれて嬉しくなった。

 母の実家は新潟だそうな。ニイガタってどこ?遠いの?

昭和21年8月、終戦になり新潟にお墓参りに行くことになり、母、伯父さん、おれたち兄弟3人、5人で出発。

 徒歩で猿投駅まで1里半、名鉄電車で大樹寺、そこから歩いて国鉄岡崎駅、やっと名古屋駅に着いたのは夕方だった。

 その名古屋駅の光景は人がいっぱいで込み合っていて、人を押しのけたり人いきれや汗臭い風や、この人ごみの中を駆け抜けたり追いかけたり、そこここで赤ん坊の泣き声や・・・

伯父さんは家族4人を抱えんばかりに駅のホームに進んだ。

前方のほうで「日本マケタ ! 朝鮮バカにするな!・・・だ !」と怒鳴りまくってだれかを蹴っ飛ばしている。横のほうから警官らしきものが現れるやべつの朝鮮人がそれにつかみかかり恨み言を叫んで殴りがかっていた。おれは怖くなって泣き出してしまった。

そうこうしてるうちに列車が到着すると列車の入り口に人が殺到して殺気立っている。と、おれは伯父さんに泣いたまま窓から客車の座席にほうり込まれた。続いて辰男兄が放り込まれて「場所を取っとけ !」と伯父さんの声がした。すぐに客車にわれ先にと樽口を抜いたように人が大勢なだれ込んできて子供ふたりでは座席取りの

伯父さんの作戦はおぼつかなかった。あとから割って入ってきた伯父さんや母ちゃんたちの座席でひと悶着して大人たちが罵りあっているとやがて汽笛が甲高く鳴り列車は動き出した。

怖くてまた泣いた。

 以来、朝鮮人が嫌いになった。

写真特集3/40] | 毎日新聞

         to be continued

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うーん、おれの父ちゃんは朝鮮人!?朝鮮人!

そんなバカなことがあるか!今朝も登校途中で朝鮮人の婆を見たので悪ガキらと一緒に「朝鮮人!朝鮮人!」とはやし立てて石を投げた。婆は知らん顔して行き過ぎていった。意味も分からず悪口を言い立ててはしゃぎまわっていたが、「朝鮮人」という言葉は使ったらいけない、使わないでおこうと思った。

M くんとは互いに避けるようになった。おれの親父の出自を暴露したことやおれがM くんを蔑んでいじめたこともあり、口をきかなくなった。

 うちの父ちゃんのことを誰も朝鮮人だなんて言わなかったし、村の長老たちも「北川さん、北川さん!」と敬っている様子は、ときどきうちの座敷で村の衆が集まって酒宴をやっていたり、農作業の手伝いの人を出してくれたりしていたのからわかっていた。

父ちゃんが朝鮮人だとみんな知っていたのか。

 年月が過ぎて親父の自慢話や失敗談、儲け話や身の上話など聞いているうちにある朝鮮人いかにしてわれらの父親になったかおぼろげながらわかってきた。

 昭和の始めから名古屋市菅原町で花山梅吉商店という繊維問屋を営んでいた。なぜか北川商店ではなく花山なのか。これもなぞであったが、親父のよもやま話からあとで分かることになる。

経営は戦争の拡大で好景気の波に乗り順調であった。軍需産業の株も値上がりして儲けたらしい。

 昭和15年、静岡市で大火があり罹災者に多額の寄付金をした篤志家として花山梅吉商店が新聞に載り名を揚げた。いくらほど金額だったかほら話の類と思い聞き流してしまった。

 その新聞を見て花山商店を頼ってきた人がいた。

猿投村から樋口鷹一さんが名古屋の花山商店へ自転車できた。

村で農場を開墾、開発したいので手を貸して欲しいいという依頼であった。今でいう「地域活性化」というやつだ。

おやじが朝鮮人であることを猿投村の衆は頓着しない、お金持ちが来て金を使ってくれればいい。ここで戦後になって疎開してきたものや外地からの引揚者、行き場を失った朝鮮人らとは村の線引きの仕方が違ってくる。北川さん処は村の人。

猿投神社 | 【公式】愛知県豊田市の観光サイト「ツーリズムとよた」

ずーっと後になって「鷹一っあんが自転車に葱の束を積んで持って来てくれた。ほいで猿投へ行く羽目になった。」と笑っていた。

昭和18年頃猿投村に転居。

兄らは猿投村の尋常小学校、おれは幼稚園がないから鷹一さん処の光夫と野山を駆け巡って遊んでた。

ある日の夕方、日が落ちてから西の空がいつまでもボーっと

赤いのだ。

大人たちは「あー、名古屋が焼けている!」と騒いでいた。

間もなく終戦。 そしてブログ爺は小学校入学。

 

名古屋城が燃えた日、東京大空襲より「B29」が多かった理由

昭和20年5月14日名古屋城焼失

 

 

to be continued

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  おれの親父北川岩男(以下、人名はすべて仮名)は明治大正昭和平成を生き抜いてそこそこの資産と負債を残した。

  名古屋市の中心街に土地300㎡と近郊のT市に賃貸住宅二棟、それに息を引き取った処のホテルの建物(底地はT市からの借地)で、ホテルの負債とT市からの土地明渡請求が追い打ちをかけていて複雑でシビアなやり取りをしている中で親父は身罷った。

 このブログに何を書くのか、目標が見定め難い。

このブログ爺(北川卯来夫)のことを書くには親父を含めて、またこの北川の親族を含めて書き進めていけば目標が見えてくる。

 ブログ爺の生あるうちにどこまでいけるか、横道に逸れながら行こう。

 昭和21年春おれは国民小学校(愛知県西加茂郡猿投村猿投北部小学校)に入学した。

              (昭和21年春 学校正門の桜の下で)

 戦後、急激な教育、文化の変化、食糧不足、社会不安等、闇の時代が続いた。戦地からの帰国者、大陸移住者の帰国、行き場を失った市町村の戦争推進協力者たち、片隅では肩を寄せ合って生きる朝鮮人、予科練帰りの荒くれども、旧華族の没落、こんな情勢を子供らは知る由もない。

 家々では、名古屋から疎開してきた誰それは家が焼夷弾でまる焼けになったげな、あれは引揚者だで気ィつけなあかん、また朝鮮人が川向こうに小屋を作って何かやるらしい、軍事教練の先生が夜逃げしておらんようになった、声高に話すのを子供は学校で離すと、また誰かが似たような話を意味も分からないまま話す。

 M くんの家庭は朝鮮人だ。M くんの父母はむらの雑事を何でも引き受けてこまめに片づけて周りに馴染んでいた。

 M くんケンカをする。誰でもしたものだ。

M くんに負けた奴は「あいつは朝鮮人だから・・・」と言う。

ある時幾人かで大喧嘩になり、M くんが押し倒されて負けそうになると「朝鮮人が威張るな!」「朝鮮人、朝鮮人!」とみんなではやし立てて苛め抜いた。M くんは泣いておれを指さして叫んだ。

「お前の親父も朝鮮だがや!」「?・・・・」周りにいたやつらは黙って俺を見ていた。

走って家に帰った。「母ちゃん! 父ちゃんは朝鮮人か?」

母ちゃんはえらい剣幕で「そんなこと二度と言ったらたらいかん!」

                                  (to be continued)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2009年父親は99歳で逝った。

その日の朝7時半ごろ、朝食(フレンチトースト、メ-プルシロップ、ミルクコーヒー、一口大のバナナとお茶と水)を親父の部屋に運んだ。

「おはよう、ごはんだよう。」声をかけ名がらべっどを除くと薄目をあけて「あ-、-だ--」「・・起きる?」「う-え-え-だ」「ここに置いとくよ、食べなあかんよ」カーテンを開けると薄い日差しが部屋の隅に入った。「後で見に来るよ。」部屋を出た。

自我の強い親父は食べ物をひとに口元に運んでもらうのを嫌がって多少こぼしたりよごしたりすることがあっても自分で気ままに食べたり飲んだりできる。

食べ終わると入れ歯を外してお茶の中に入れ箸でかき混ぜて洗う。そのお茶を口に含みくちゅくちゅと口を濯ぎ、そのまま飲み込む。入歯をを口に戻す。これが毎食後の親父のルーティンだ。

 かつて1970年ごろ、 妹が親父と韓国に旅行し泊まったロッテホテルの食堂でこの入れ歯儀式をやり大いに顰蹙をかって、「あたし恥ずかしくて恥ずかしくて困ってまったわ!」という美勇伝を残した。その妹は50歳で身罷っている。

 そのルーティンが終わった頃合いを見て部屋を覗いてみると

まだ食べてない。「食べとらんねー」ってよく見るとトーストの皿が半月盆の端で傾いてバナナが床に落ちてて・・・・

親父はベッドで足からずれ落ちそうな姿勢で横になっている。

「おーい、どうした?食べれんか?「うーうーーだー」

薄目に力がない。ううん?なに?

何の感慨もわかない幕切れだった。 (to be continued)

三千院

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また夏がきた。

エアコン無しでは過ごせない。
電気代が気掛かりで手元のスイッチに躊躇う。
朝は40分歩いて交流館でラジオ体操。
6時50分に帰宅。
これが朝のルーティン。
木曜日は高齢者の「健康up」。
みんなで笑って、元気に健康up、
幾つになってもまだまだ若い、まだ若い!
カラ元気でやって、帰ると一層の孤独になり
エアコンをつけるかつかないか、
また夏がきた。

 道草しながら年を重ね、83歳なってしまった。

プーシキン、トルストイ、ドストイエフスキー、ゴーゴリ、チェーホフ、ゴーリキーなど当時日本の新劇界にも少なからぬ影響を及ぼした文学に関心があった。

「ロシアのウクライナ侵攻」は「ロシア外し」という現象を引き起こしている。ウクライナ国立バレー団のプリマはもう「白鳥の湖」を踊れなくなったことを嘆いていた。

2022年2月12日、豊川市文化会舘でチェーホフ「三人姉妹」を観た直後2月24日の「ロシアのウクライナ侵攻」は驚天動地の出来事だった。

      三人姉妹(劇団そばえ、演出山口浩章)

 

ロシアは芸術の宝庫だった。がロシアはその名跡を汚した。

あの時代(1950年代~1960年代)、学生たちの間では「露文」と言えばインテリゲンチャの見本のように眩しく見られていた風潮があった。

彼らは世界のアヴァンギャルドを自任し、情熱にあふれ、幼稚で、IDIOTな議論を続け、シュプレヒコールで大通りを騒がしくデモ行進をしたものだった。

いや、トルストイでもチェーホフでもなくウクライナのことだ。

 

1989年ベルリンの壁崩壊以来これほど善悪、敵味方の景色が明白な戦争はない。

この戦争で世界の目はウクライナに集まり各国では相応に避難民を受け入れている。日本では外務大臣が専用機でウクライナまで避難民を迎えに行きウクライナに協力して正義を共有することを見せた。

「ロシアのウクライナ侵攻」は世界中から非難されて当然のことであるが、このウクライナの被害、困窮に心を寄せる同じ立場、目線でミャンマーやウイグル自治区が迫害されている現実を目視しているだろうか。

これらの迫害や差別はそれぞれの関係国によって事情が違うこともあろうが国を追われ迫害されていることでは同じである。

避難民を受け入れ、協力して正義を共有することが道理である。

何をどうすればよいかブログ子も分からないが、ミャンマーやウイグル自治区にも同じような関心を寄せて正義を目指してほしいものだ。

11月の二十日を過ぎるて紅葉が見頃になるこの時期には、ひとつ二つの訃報がある。三日前 O 君の訃報が届いた。

O 君とは小学校3年生の時に出会った。

田舎から転校してきたぼくは級長のO 君にいろいろ聞くことが多かったが、親しく教えてくれた。

当時(1948年)の名古屋市 M 小学校は空襲を逃れた鉄筋コンクリート3階の建物だった。北側の市役所と県庁の建物も被災せず、いま尚健在。M小学校の西隣には、嘗ての名古屋逓信局の大きなビルディングがあり、アメリカの空軍病院になっていた。

空軍病院から時々病院の厨房からパンが差し入れられた。

隣が小学校という聖域であり、病院に出入りする兵士やガールフレンドやいかがわしい環境への気配りがアメリカさんにはあったのか、

香り高い焼き立てのパンはサツマイモばかり食べてた田舎者をアメリカ大好きに変えた。しかし通りは焼け跡だらけで周りの風景は傷痍軍人が松葉杖をついて物乞いに立っている街をアメリカ兵、モク拾い、我が物顔で走り行くジープ、闇市の雑踏・・・、田舎から転校した小学生には馴染まないものだった。

以来、中学校、高校と同窓、大学は別々であったが故郷に帰ってから親交は続いていた。

二年ほど前リタイアしたぼくの暮らしぶりを気遣って見に来てくれたことがあった。その折も、級長さんらしく名前とエピソードを話してくれたものだった。

折につけ良いアドヴァイスをもらっていた。

ある時「人は見栄を張って、お金のことはどうでもいいってフリをしてるけど、本当は一番の関心事なんだよね。」とぼくの放漫経営をたしなめてくれたこともあった。    

                                              合掌。

(コートダジュールの夕陽)