福井に流れ着いたおれの親父は、米原の床屋さんが若い番頭風に身支度を整えてくれていたので、もう兵庫県有馬から尾羽打ち枯らした風体ではない。

詳細は分からないままだが、関釜連絡船で密航してきたほどだからそれなりに目端も利くようになっていたに違いない。

「親元へ送金」という命題を抱えながら働く場所を探した。

口入屋に「親元へ送金」という事情も話して働く意欲を見せて住み込みで働けるところを探してもらった。

職を得るまでの細かな事は晩酌しながら福井時代を回想している親父に聞いても「・・・世話になったなあ・・」と大きく息をついていただけだった。

足羽川に沿った倉庫での仕事は掃除、雑役、トラックの荷下ろし出荷の手伝い、これが重くて、小柄だからトラックの荷台にとどかない、「・・これが難儀だった。」

始めのうちはこれがどこの会社で何の倉庫かも分からなかったが

福井製錬加工という繊維産業の中核を担うような大きな事業所だとあとで知った。

 

データベース | 1948から今日まで-福井地震の記録

『精錬(せいれん)とは、染色の前段階として、糸の不純物や汚れなどを除去する工程である。 天然繊維の糸は、紡績された段階ではまだ不純物や汚れが付着しているため、染料を弾いてしまう。 そのため綿糸では水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)、絹糸では炭酸ナトリウム(無水炭酸ソーダ)を用いて不純物を取り除く必要がある。』

ここで2年ほど過ぎた昭和3年ごろ、「親元へ送金」しながら働いている事情を聞いたここの取引先の紡績工場の社長が引き抜いてくれた。

ここで親父は細々と雑役をするかたわら繊維全般を教わった。

木綿、人絹、絹糸、羊毛、織布のでき方、また原糸が製錬加工所から紡績工場にくる流れも分かるようになった。

1930年代の好景気で「親元へ送金」に力をつけた親父は新たな野心を抱く。ここで見聞きした中に「B反(ビータン)」というものが多く出て格安で出荷されていく景色があった。

朝鮮ではどんな布地でも重宝していることを思うと、親父はこれで「うん、稼ぐんだ」と思った。

社長に相談してみると「やる気になった。」ことを喜んでくれた。

しかし物の売り買いについては未熟であるからすぐにはさせず

名古屋の取引先何ヶ所に納品とか掛け取りとか使いをして勉強させた。

 昭和6年(1931)名越欽作さんの後押しで名古屋へ

          to be continued