日本陸軍が南方方面に進駐し好景気が続く株の市場で「軍需株が危ない !」といううわさ話があり、不安と迷いで気を揉んでいた。大本営発表とは違い、真珠湾攻撃のあとの戦況はよくないらしい と機関投資家が目立たぬように軍需株を小口に分けて売りにだしていたことがあとで分かってきた。値動きを注意深く見ていると値が崩れ始めている。買った元値以上を残すには売って切り抜けるしかない、親父は自分が戦争景気に浮かれて失敗したことを思い知った。

「海軍の山本五十六元帥が南方で戦死」の報道はこの戦争の行方を暗示しているようで、空襲があるかもしれないという不安はみんなが持っていた。バケツリレーで防火訓練やら竹やりで戦闘訓練やらで国家発揚を強いられていた。

この店舗の賃貸を仲介した中島不動産が猿投村の開発事業の開墾地(約5000坪)の調査測量のため現地で村長らと打ち合わせを済ませていた。

先ず北川家の本宅を建てるために丘の一部を整地し井戸を一本掘る手配をし、家の完成に時を合わせて花山商店は整理して閉めることにした。

昭和18年3月猿投村の住人になった。もう花山梅吉は完全に解消し北川岩男を堂々と名乗った。

 

・・・ここまで書き進めてきたが、改めてこの残日録を読み返してみると、冗漫で取りとめのない語句のつらなりであった。

朝鮮人の父親の愛憎と毀誉褒貶に満ちた生きざまを書き残さねばならないと思ってきた。枝葉にばかり話が傾いて行くのは避けねばならない。また書き連ねているうちに「おれの」とか「親父が」という人称の呼び方は不適切に思えてきた。鬼籍に入った今敬意をもって記すべきであった、「父は・・」と。

   あらためて家族構成を記すと(昭和18年)、

       北川 岩男(父)   34歳  

       北川 吉江(母)   29歳

       北川 万喜男(長男) 9歳

       北川 辰男(次男)  7歳

       北川 卯来夫(三男) 4歳    であった。

                 次回から「戦後編」   to be continued