この文を始める前に

 

 まず、韓国のいじめは日本よりもひどいと言える。いじめの形態自体は同じだが、普遍的な水位が深刻だ。単純に見下して差別するだけでなく、傷害、暴行、脅迫、恐喝、性暴力まで広がる。このような違いによって日本でいじめと言った場合、受け入れる重みが韓国と日本の差があるしかない。また文化自体も日本の場合は「過去の過ちは反省し悔しければ許してあげよう」という風潮が非常に強く敷かれているようだ。一方、韓国はいじめを非常に大きな過ちと考えるべきだという世論が強い。これは法的処罰が弱く、少年法を適用すればその水位はさらに弱くなるため、人の人生に非常に大きな影響を与えかねない犯罪であるいじめに韓国人は敏感に反応する。実際、これは他の犯罪と議論を起こしたケースも似ている。韓国はその過ちを許すことにハードルが非常に高く、日本は許しやすい。実は日本には被害者が加害者を許さなければならない社会と周辺の集団で強要する情緒があると思う。このように韓国と日本がいじめと他の問題に対する態度が違う。この文では韓国の許さない風潮について説明し、これが望ましくないということを言うが、日本ほど寛大になることには賛成しない。とにかくこんな背景を知ってこの文を読んでほしい。

 

 

 

 

 

はじめに

 

 この文を書いている2023年上半、韓国で最も話題なイシューはいじめイシューだ。数多くの芸能人、運動選手、公人が学生だった頃にいじめをした過去が明らかになり、活動を中断したり引退することが多く発生した。警察高位職に任命された人の「息子が学校でいじめをした」という理由で、辞意を表明することもあった。これは校内いじめの被害者が成人になっていじめの加害者を懲らしめる内容のドラマ『ザ·グローリー』の興行により一層校内いじめには厳罰を処さなければならないという世論はより一層激しくなった。 

 いじめ問題は、もちろん黙過してはならない事案だが、このような問題に対する立場が一つに帰結するものではない。大多数の人はいじめをやった人と接したくないという世論を持っているが、これを越えて「いじめをした人ならばすべての社会的活動と仕事を禁止しなければならない」という人もいる。最近このような世論によって政府が発表した「いじめの履歴がある人たちは大学進学を禁止する政策を検討中だ」ということも、殺人などの他の犯罪前科は大学進学に問題にならないが、いじめだけに厳しい物差しを立てる、納得し難い。もちろん、いじめを行った人の中でまともに処罰を受けていない人ならば、大学で受け入れないのは人性評価によるものと見られ、会社で解雇させることは一種の私的制裁ではあるが、私たちは法が処罰できなかった人に対する、私的制裁に対しては少し手加減する基調によるものと考えられる。だが、もし本当に処罰をきちんと受けた加害者であり、その前のことを全て反省しており、被害者との合意も円満に終えた人だとしても、「過去にいじめをした奴らを皆殺しなさい」という物差しからは避けられない可能性が高い。つまり、永遠に許されない者になるのだ。なぜ韓国にはこのような風潮が蔓延しているのだろうか? 

 

 

1.  共感帯 

 

 まず、これはいじめの特殊性に起因する。いじめは幼い頃に行われるため、加害者は少年法的基準以外では処罰がうまくいかない反面、被害者は成長期にトラウマを持つようになり、そのトラウマから回復するのが難しい。そのため、いじめの問題は特に公憤を買いやすい。また、私たちは自分の意思にかかわらず、校内暴力と関連のある学生時代を過ごす。少なくとも学校の誰かがいじめに遭うのを目撃したり、伝え聞いたりすることで。たまにいじめを受ける人がバカだと思う場合もある。「学校は社会化過程を学ぶところだが、社会化過程には強者を選別することが含まれないか?」として学校で序列が分かれること自体が一つの教育課程だと考える人もいる。いじめは皆が知っているイシューだから、扱いやすく、それに対する色々な考えや感情を持つ人も多い。そのような過去がほとんど忘れられる30~40代の年齢になったとしても、今は自分ではなく自分の子供が学校で問題を体験することもありうる立場になる。そのため、いじめは世代、性別、地域を問わず、皆の視線を引くイシューになりやすい。このようにイシューになりやすいにもかかわらず、加害者がまともに処罰されにくい状況なので、加害者に対する批判の世論が大きくならざるを得ない。 

 

 

2.  劣敗感 

 

 すべての場合がそのようなわけではないが、学校で暴行といじめを行える立場ならば学校内の序列で高い位置という意味でもある。つまり、弱者を苦しめる位置にいる場合が多いはずだ。このような状況で、最近のように一般人が有名になりやすい時代に、魅力ある一般人は学生時代の被害者側よりは加害者側に位置付けた確率が高い。過去にはいじめを行う一陣は、「未来にまともな職業なしで一生ヤンキーとして生きることになり、反面いじめられていた生徒たちは、ヤンキーたちが遊び時に勉強して未来に大成する」という認識があった。過去、成功のための方法が勉強しかなかった時代の幻想だ。これはまだ韓国が勧善懲悪のような幻想が残っていた時代の話でもあり、これ以上社会の道理に幻想を持たない今の世代は、「いじめやられた人は一生弱者で生き、むしろいじめ加害者は一生幸せに生きる」という弱者の方がずっと弱者であろうという残酷な認識が人々に刻み込まれている。

 

 そして、最近のように注目経済時代には、このような事例が実際にあったりもする。最近の世の中は皆が一緒に走るべきだった成功のレールがますます崩れている状況だ。「熱心に勉強に専念して就職すれば後で補償を受けるだろう」という考え方は2010年代末から徐々に消えつつある。若さをきちんと楽しみながら遊んだ陽キャたちが、社会に出て陰キャたちに敗北するどころか、注目経済時代をうまく恵まれたから魅力を存分に発散し、大衆の人気を得て豊かに暮らせるようになると考えられる。このように「強者は永遠に強者で、弱者は永遠に弱者である」という世界観が大衆に広がり、いじめ問題は一種の社会階級論にもなる。この思考観は被害者がわざ笑われることだけでなく、被害者自らを最も苦しませる。「人生は生まれつきの人気と魅力で決まるもので、幼い頃にそれに恵まれていない人達は、一生を人格もスペックも交友関係も壊れたままで滅びるんだな」という劣敗感だけを残す。

 

 

3.  無寛容 

 

 「いじめをした一連は被害者たちよりずっと幸せに暮らすだろう」これは単純にこの問題だけに限定されるのではなく、我が国で熱心に広がっている、「強者が善で弱者が悪だ」という考えから起因したものと見る必要がある。2010年以前まで韓国では弱者を配慮する雰囲気と「弱者が善良で強者が悪い」という社会的風潮が存在した。しかし、2010年後半から、アンダードッグマ的態度が広がった。この認識が広がったが「弱者と強者の間には善悪がない」という結論ではなく、むしろ「弱者が悪で強者が善だ」と誤用し、根本的には善悪構図で社会を認識する考えを持った人たちが多くなった。思考観自体はそのままなのに構図だけが逆転した。金持ちは優しいのに、貧しい人たちは性格が悪いとか、いじめをした一連は社会性に優れているけど、被害者たちは社会性に欠けるとか。今は韓国史上最高に弱者嫌悪が目立つ時期だ。面白いのは、このような構図が両面的だということだ。表向きは強者たちにより多くの荷物を負わせたいが、強者ともっと親しくなりたい姿を見せる。金持ちに税金をもっと徴収しろという人も、友達として金持ちの友達を持ちたがるように。もちろん、これは人間の本性だ。

 

 それで再びいじめ問題に見解を狭めてみれば、過去とは違って消えたことがある。例えば、ヤンキーのように暮らしていた過ちを悔い改めようとする場合、近い過去にはそのような人たちに「よく考えた、今からはよく生きろ」という雰囲気があった。しかし、このような幻想はもはや韓国にはない。なぜなら韓国人はもう、反省してしっかりしたという叙事自体を信じない傾向があることに加え、人間の本性は全く変わらないと信じる。被害者あるいは陰キャの立場では「私はいじめ加害者である君たちに社会性、魅力、人気、社会的成功などすべてが比較劣位にあるが、君たちが最後に残った道徳性まで守ろうとする」ことで彼らの反省と許しを受け入れにくいためでもある。被害者である陰キャが加害者である陽キャより成功できるという幻想さえ奪われたが、彼らの汚点さえな許すことは被害者である陰キャたちの立場では容認し難い話である。 

 

 

4.  キャンセル・カルチャー 

 

 かつて、韓国の有名なガーナ人芸能人「サム·オチュリ」がいた。サム·オチュリは過去の韓国人の黒人扮装が人種差別的だと話し、逆に本人が人種差別的言動とセクハラをしたことが明らかになり人々からそっぽを向かれることになった。この人の是非はさておき、この論難は2020年夏にあったことだが、サム·オチュリは2023年である現在も復帰どころか非難を受け続けている。彼は海外メディアとのインタビューで「韓国はキャンセル・カルチャーが激しい」と答えた。キャンセル・カルチャーは「有名人や公人が論争になるような行動や発言をした時、SNSやインターネットなどを通じて大衆の攻撃を受け地位や職業を剥奪しようとするキャンペーンの対象となる現象」だ。もちろんこれを言った彼は問題点があるが、人物を除いて発言だけ見れば、これは韓国に対する的確な診断だと考える。韓国には許しというものは存在しない。ただ忘れられるだけだ。

 

 イメージでお金を稼ぐ人たちは当然、その道徳性が第1価値だ。悪いことをした人ならば、簡単に好きになれないのが当然だ。しかし、今の韓国ではその道徳性の物差しが過去に比べて途方もなく多元化され、大衆は賢くなった。過去、芸能人がステルス・マーケティングをしても企業ではなく芸能人を非難するケースは少なかったが、最近はそれに参加した芸能人も詐欺師だと考えたりもする。また、人のイメージを傷つける暴露の手段もあまりにも多様化した。人の発言や行動は細かい部分までテキストやデータとして残されるようになったからだ。過去の基準である芸能人が異性に付きまとったという内容は芸能で面白く消費されたが、今は有名人である誰かが異性に付きまとったことは資料が残って、その不便な状況をきちんと感じさせてくれて、見る人々に気持ち悪さで刺さることになる。こんなこと一つ一つがイメージになってしまうのだ。すなわち、現在は過去に比べてイメージ管理がさらに難しい時代だ。

 

 過去に比べて道徳性を保つことは、より厳正な物差しで管理されている。これに加えて人達の相互不信も極限に達したため、韓国は犯罪が比較的少ない治安強国であるにもかかわらず、知らない人を絶対信じない国だ。イメージが下落した人はもう回復する方法が存在しない。反省したとしても、私たちの周りに反省することを信じる人が何人いるだろうか。残ったことは忘れられるだけだが、それも最近のようなメディア時代には容易なことではない。資料が残ることも足りず、有名人の論難とイシュー・メイキングを扱うメディアは素材が落ちれば、過去の人々の論難を再び活用するためだ。

 

 

 

 

終わりに

 

 いじめから始まり、キャンセル・カルチャーまで来たが、結論は韓国社会にはもはや許しが存在しないということだ。反省を信じないため、過去にしたミスだったという言葉は、単なる合いの手に過ぎない。このような風潮が継続して進行されるならば、芸能人や有名人たちが論難が起きれば、反省のような話を最初からしなくなる未来が来ると考える。このような兆しは最近も見られる。反省すると言っても人達は信じず、活動をしなければ損だから、どうせ嫌な人なら見ないし、好きな人ならその人が悪い人でも見るだろう。それでは彼らには「悪いことやっても反省して自粛するより批判を無視して図々しく活動するのがはるかに得ではないか?」という当然の計算がかかると思う。そして、こちらの方がアメリカン・マインドでクールに見えたりもする。このように道徳性が第1原則だった道徳強国である韓国が、むしろ道徳性を捨てる方を選択する可能性が高いということだ。悪に対する寛容が道徳を価値あるものにするなんて、やはり世界のすべてのことは逆説的だ。