物語あるコンテンツにおいて、「ヴィラン」という存在は切り離すことのできない要素である。とりわけ少年漫画という形式は一種の英雄譚である場合が多く、善なる主人公と対比される悪のヴィランの存在はより一層不可欠となる。
有名な少年漫画である『ナルト』や『ブリーチ』においても、主人公は当然ながら善の側に位置づけられている。『ワンピース』の場合、主人公は海賊ではあるものの、自由を追い求めるルフィ側が善として描写され、抑圧と秩序を追求する相対陣営が悪として描かれている。
善と悪が明確に区分されているほど、物語は直感的な快感を読者に与える。そのため少年漫画(英雄譚)には必ず悪が必要となる。また、その悪は巨大であればあるほど、圧倒的であればあるほど、英雄の歩みをより一層際立たせる存在となる。
(『ブリーチ』の藍染惣右介)
少年漫画におけるメインヴィランの目的は世界征服ぐらいの規模に及ぶことも少なくなく、その動機もまた確固たる思想に基づいている場合が多い。『ナルト』の最終ヴィランである「うちはマダラ」、『ブリーチ』のヴィランである「藍染惣右介」もまた、世界を自らの望む方向へ作り変えるという強固な思想を持って行動している。
また、作品のスケールが拡大するにつれ、メインヴィランは「思想犯」に近づいていく傾向がある一方で、それ以外のヴィランは比較的平凡で素朴な形態を取ることが多いと考えられる。『ワンピース』を例に挙げれば、ルフィが相手する敵集団には大将がおり、その下に三名あるいは四名の幹部が存在する構造であることが多い。メインヴィランではない彼ら一人一人に深い焦点が当てられることは比較的少ない。
主人公が下級ヴィランを打ち倒し、さらに強大なヴィランを倒し、最後に高潔な思想を持つ邪悪な最終ヴィランを打ち破る――これが王道的な少年漫画の構図である。
本稿で取り上げる作品『僕のヒーローアカデミア』(以下ヒロアカ)は、ヒーロー側においては王道的な少年漫画の流れを体現している。「爆豪勝己」を除けば、「緑谷出久」とクラスメイトたちは特段問題のない善良な存在として描かれている。
ヒーロー側はまさに少年漫画の王道そのものといえる。
しかし、筆者が考えるヒロアカの真の魅力は、むしろ王道的なヒーローたちよりもヴィラン側にある。特に「ヴィラン連合」の描写は決して王道的ではない。これまで読者が触れてきた少年漫画を思い起こしてみてほしい。序盤に登場したヴィランが最後まで継続的に登場する例は決して多くないのではないだろうか。『ワンピース』においても、序盤の強敵であったアーロンが、ギア5を覚醒させた現在のルフィと再び対峙しているわけではない。
主人公がより強い敵を倒しながら成長していくのが王道である。しかし、ヒロアカの主人公・緑谷出久は、新入生の頃もヴィラン連合と戦い、中盤でも戦い、最終決戦でもなおヴィラン連合と戦う。他の悪の組織が存在しないわけではないが、ヴィラン連合は主人公側の宿敵として設計され、物語を通して継続的に登場する。そのため作者は彼らを極めて豊かに、詳細に描写することが可能となった。
しかし皮肉にも、これほど時間をかけて描かれたヒロアカのヴィランたちは、他作品のヴィランと比べて品位や高尚さに欠ける、どこか親しみやすい存在として描かれている。もし描写の時間が豊富にあるのであれば、彼らの思想や高潔な理想の形成過程や実現過程を丁寧に描くことも可能だったはずである。それにもかかわらず、ヒロアカはなぜ彼らをより親しみやすい存在として描く手法を採ったのか。
(マーベル・シネマティック・ユニバースのサノス)
筆者が考える答えは、むしろ親しみやすく軽やかなヴィランを描くほうが、より多くの時間と労力を必要とするからである。思想犯を描くこと自体は意外と難しくない。例えばマーベル・シネマティック・ユニバース(M.C.U)第1フェーズのメインヴィランであるサノスは、「宇宙の存続」という理念のために、自身を含む宇宙の生命体の半分を無作為に消滅させようとする。登場の予告は以前から存在していたが、実際にサノスが本格的に姿を現したのは最終エピソードにおいてであった。
高潔な思想と確固たる理念を持つメインヴィランは、たとえ極端な行動を取ったとしても、「彼は自らの思想に狂っているのだ」と読者を納得させることで比較的簡潔に描写できる。サノスを表現するうえで重要なのは、「目的を叶えるために娘を殺す場面」と「生命体の半分を消す計画に自らもその対象に含まれることを示唆する場面」の二点で十分である。すなわち、サノスは巨大な思想犯でありながら、長い時間を割いて描写する必要は必ずしもない存在なのである。
ヒロアカにもヒーロー殺しのステインや最終黒幕オール・フォー・ワンといった思想犯は存在する。しかし彼らの描写は、親しみやすいヴィランであるヴィラン連合の面々よりも明らかに少ない。ステインは一つの思想に過ぎ、オール・フォー・ワンは絶対的危機の象徴である。なおオール・フォー・ワンは実のところ別の意味も帯びている存在であるが、それについては後ほど説明する。
ヒロアカが時間と労力を費やして描いたヴィラン連合の主役格三名「死柄木弔、荼毘、トガヒミコ」は、思想犯とは到底呼べない存在である。彼らはむしろ「その年齢の若者が抱きうる思考」をそのまま体現している。言い換えれば、「極めて個人的で私的な事情に感情を揺さぶられた未熟な若者たち」である。
(トガヒミコ)
本作をよく知らない読者のために補足すると、ヒロアカは人間が「個性」と呼ばれる異能を生まれながらに持つ世界を舞台としている。この個性は人間の性格に影響を与えることもある。「トガヒミコ」の個性は「対象の血を吸うことでその人物に変身できる能力」である。彼女にとって「好き」という感情は「その人になりたい」という欲望と同義であった。血を吸うことで好きな相手と同一化できる彼女にとって、それは愛情表現に他ならなかった。しかし、当然ながら社会はそれを受け入れない。「好きだからあなたの血を吸ってあなたになりたい」と言われれば、誰もが戸惑うだろう。その結果、彼女は社会から排斥され、「不快で異常な存在」として扱われる。そして自分を拒絶する社会こそが間違っていると考え、ヴィランへと変貌するのである。
他のヴィラン連合の面々も同様である。「なぜ自分は生まれつき受け入れられないのか」「なぜ社会は自分を除いて正常に回っているのか」「なぜ世界は自分だけを孤立させるのか」。特定の誰かに向けることのできない、行き場のない怒りと痛みが罪を生み、その果てにヴィランへと堕ちる。
トガの台詞「生きやすく産まれただけなのくせに」は、ヴィランの思考を最も端的に表している。この台詞は裏を返せば「トガは生きにくく産まれただけだ」という意味でもある。
(荼毘)
トガが認知の歪みによって生まれた不幸であったのに対し、「荼毘」の場合、彼自身に本質的な問題があったわけではない。彼は父「エンデヴァー」からの過剰な期待とエリート教育、その期待に応えられなかった自分よりもはるかに優れた才能を持つ弟の存在によって、「自分は不要になった」と感じるようになる。自らを極限まで追い込み、その結果として人生が崩壊していったのである。
この経緯だけを見れば、「荼毘はヴィランというより復讐者に近いのではないか」と考えることもできるだろう。しかし、荼毘がヴィランとなった決定的な理由は、「自分の人生を壊した父が、のちに自らの過ちを反省し、人格を改めた」という事実にある。
ヒロアカでは、エンデヴァーと、その家庭内暴力によって同様に苦しんだ荼毘の弟「轟焦凍」との関係修復の物語が長く描かれてきた。しかしこの物語構造は、結果としてヴィランである荼毘の叙事をより豊かで、より絶望的なものにする装置でもあったと筆者は考える。荼毘の立場からすれば、「一生を復讐のために生きてきたのに、その復讐の対象が消えてしまった」という状況に置かれたのである。
「家庭内暴力を行った父が、ある日突然反省し、悔い改めたのだから、自分はそれを許すべきなのか?」これが主人公側に立つ焦凍の物語である。だが、もし父をどうしても許せず、復讐の対象も失い、行き場のない怒りを社会へと向けるのであれば、それが荼毘という存在なのである。
(死柄木弔)
ヴィラン連合の主軸三名の中でも、最も中心的存在である「死柄木弔」の場合、その堕落の主因は「社会からの疎外」にある。弔は幼少期、主人公・緑谷と同じく個性が発現していなかったが、ヒーローになるという夢を抱いていた。
しかし、彼の個性「触れたものを崩壊させる能力」は、最悪の形で、最悪のタイミングで発現する。ヒーローという夢を否定し、逼迫していた家族を、意図せず自らの手で全員殺してしまうのである。そして、自分が何をしたのかも理解できず怯えていた幼い弔を、この社会は誰一人として気にかけず、手を差し伸べなかった。ヒロアカの構造上の興味深さはここにある。
比較的王道的に描かれるヒーロー側の主要三名「緑谷出久、轟焦凍、麗日お茶子」と、ヴィラン側の主要三名「死柄木弔、荼毘、トガヒミコ」は、まるで対称構造をなすかのように対応しているのである(爆豪君はごめんね)。
「トガヒミコ」は、自身が憧れながらも同時に「温室の花」として憎悪の対象ともしている「麗日お茶子」と対比される。「荼毘」は、同じくエンデヴァーの家庭内暴力を受けながらも、暴力の強度、発生のタイミング、才能の差、父と過ごした時間の差によって父の反省を受け入れることができた「轟焦凍」と対比される。
主人公「緑谷出久」もまた無個性でありながらヒーローを志した。しかし、彼には「君はヒーローになれる」と言ってくれた伝説的ヒーロー・オールマイトが存在した。だからこそヒーローになることができたのである。一方、ヴィラン側の中心である「死柄木弔」も同じ状況であった。しかし、彼には誰一人として「君はヒーローになれる」と言ってくれる者はいなかった。すべての人間に見捨てられた結果、彼は最悪のヴィランとなったのである。
ここまで考えると、トガの言葉「生きやすく産まれただけなのくせに」は、より一層説得力を帯びてくるのではないだろうか。
ヒロアカにおけるヴィラン描写の核心は、「社会における疎外と孤立」にある。ヒーローの人生が少し違っていればヴィランになっていた可能性があるということは、同様にヴィランの人生も少し違っていればヴィランにならなかった可能性があるということでもある。
もちろん現実的に、社会が一人残らず完全に救済することは不可能である。また、似たような境遇を経験したからといって必ずヴィランになるわけでもない。作品内にも、差別や疎外を受けながらもヴィランにならなかった人物は数多く存在する。さらに、ヴィラン側三名と対比されるヒーロー側三名は、「彼らの事情を理解はできるが、ヴィランになる必然性があったわけではない」という立場を体現する役割も担っている。
しかし本作が提示する重要な視点は、「ヴィランの罪に免罪符を与えよう」というものではない。むしろ、ヴィラン誕生の叙事を通じて問いかけられるのは、
「社会から捨てられ、疎外され、行き場のない怒りだけを抱えた者たちに、もし“居場所”を与える存在がいたならどうなっていたか?」という問いである。そして同時に、
「もしその“居場所”を与える存在が、社会的な人物ではなく反社会的な人物であったとしたら、私たちの社会にはどのような災厄が訪れるのか?」
という想像力を読者に促す点にこそ、本作の鋭さがある。先ほど触れた、オール・フォー・ワンが持つ「別の意味」とはまさにこのことである。彼は単なる黒幕ではなく、「居場所を与える反社会的な人物」という機能を担っている存在でもある。冷酷で無機質な社会の中で、ヒーローという存在が現れ私たちを救うこともあるだろう。
しかし、疎外された人々に「居場所」を提供するのがヴィランであったとしたらどうだろうか。さらに言えば、これは漫画の中だけの話ではない。私たちが生きる現実社会にも、確実に疎外された人々は存在している。今この記事を書きながら日本社会の例を考えてみれば、数年前に話題となった「〇〇キッズ」と呼ばれる家出少年少女たちの問題が想起される。
もし彼らが承認され、受け入れられる「居場所」がヴィランの側にしかいなかったとしたら――。ヒロアカは、そのような状況が生まれたとき、私たちの社会がいかなる代償を支払うことになるのかを考えさせる作品なのである。











