はしめに

 

 『少女革命ウテナ』はフェミニズム的な作品だ。最初から典型的な構図をひねる。「どうして女は王子様になれないのか?」ウテナの姿はそのような考えを挑戦的に表わしている。しかし、個人的にこの作品で表現された男性と女性の関係性と、少女革命が何かを理解した人は少ないと考える。そこで本稿ではこれを深く理解するためにシモン·ド·ボーヴォワールの『第二の性』を基に『少女革命ウテナ』について詳しく分析してみようする 。

 

 

Ⅰ.  ボーヴォワールが言った女性

 

1.  女性の主体となり得ない仕組み

「女性は今まで主体的ではない存在であり、女性は男性との関係に基づいてのみ説明でき、女性は決して自らを主体としたことがない。自分自身を打者として規定する打者が主体を規定されるのはできない。自分自身を主体として確立する主体によって打者は打者として規定される。しかし、打者が主体に反転することが起きないならば、打者はこの見慣れない観点に服従しなければならない。女にこのような服従はどこで祈るのか」

 ボーヴォワールは『第二の性:事実と神話』でこのように述べた。すなわち、女性は男性によって他者と規定されれば、女性が自らはその事件と観点を受け入れることをしなければならず、これを服従と表現したことだ。『第二の性』では年齢と経験に応じて、女性が人生を生きながら自然に経験する女性という屈辱に服従する形態をカテゴリ化して描写している。2巻である『第二の性:体験』では女性を多様に分け、彼らが女性という屈辱をどのように受け入れるかについて論じた。幼年期から処女に成長する過程と、以後女性たちが迎える結婚と育児、あるいは主流に属しない売春婦になった時、彼らはそれぞれ女性性をどのように受け入れるかを分析し、その中で女性がどのような態度を見せているのかを述べた。このようにボーヴォワールは『第二の性』を通じて本質的に主体である男性に規定される打者としての女性を読み取り、このような 羈絆から抜け出す「独立した女」を通じて女性解放を述べた。これは単純に法と制度などのシステム的差別だけが存在するのではなく、女性を扱う文化自体が女性に不利な社会環境を作る思考観の総体という意味だ。

 

2.  女性を他者に規定する少女漫画

 

 『少女革命ウテナ』は少女漫画の設定と物語を借用しているが、これはこのような構図をねじ曲げるためだ。少女漫画の主に出る設定は典型的な男女関係を隠喩している。男性は女性を助けに来る王子様の役割、女性はそのような王子に救われる役割だ。シンデレラを見ても、姫はただ王子を待っているだけだ。人魚姫のように姫が先に王子を訪ねて行く話もあるが、彼女も結局王子様の選択が人生の全てであるキャラクターだ。男性は力を備えており、それを暴力として使ったり、誰かを守ることに使う。その守られる人はたいてい女性になり、男性は主導的に乗り出して相手を得ようと努力する。一方、女性はこのような主体的な男性の反対で描写され、ほぼ戦利品のように使われる。女性を守る場合でも、これは本質的には同じだ。男が略奪者か救援者かの違いにすぎない。女性は一種の荷物になり、そのような荷物をどれだけよく持つかによって、男性の価値が判断される。これが家父長主義である。

 しかし、逆説的にこのような少女漫画は女性に最も多く消費される。たとえ自分たちの集団である女性が男性の荷物のように扱われても、その構図の下で得られる幸せというものがあるからだ。女性主人公を救う王子様は結局、男性という主体の力を証明する過程であり、これは本質的に力を振るう男性が女性を戦利品と考えることと差はないが、このような構図をロマンチックに受け入れるため、女性たちは少女漫画を肯定的に受け入れるようになり、家父長主義を肯定的に受け入れるようになる。これはボーヴォワールが言った「女性という屈辱に服従する方法」の一つだ。

 

 

Ⅱ. 作品の男女関係とウテナの少女革命

 

1.  デュエリストによる男女関係の表現

 

   この作品の核心的な設定はバラの花嫁である。デュエリストたちが決闘し、勝った人は婚約としてバラの花嫁を獲得する。逆にウテナの存在は、本作がテーマとする家父長制度を捻じ曲げて想起させている。多様なデュエリストが各自の理由を持ってウテナからアンシーを奪ってこようとする。サイオンジは典型的な家父長主義の中で暴力的な男性像を象徴し、ミキの場合は、私たちがアンシーを見ながら不当さを感じるように、同じようにバラの花嫁制度に不当さを感じる。婚約した相手に無条件服従しなければならないアンシーを見て、ミキは彼女を解放するためにウテナに決闘を挑む。ミキはバラの花嫁というシステムが不当な規則だと知りながらも、彼女を奪う決闘という方式で彼女を救おうとした。この構図で分かるのはアンシーというキャラクターが「服従する女性」を意味するならば、アンシー個人を救うためにアンシーをトロフィーにしてしまった制度である決闘を利用して彼女を解放させることは非常に空虚で欺瞞的な話であることだ。

 ツワブキという少年は姫を救う男性性に憧れ、自分の好きな女性をわざと危険に陥れて助け出そうとする。救ってくれることに心酔し、それが害になることは無視してしまった。そして、女性キャラクターであるジュリは無力にバラの花嫁というシステムに閉じ込められているアンシーを見て怒りを感じる。ジュリは女性である自分の運命から抜け出したけど、バラの花嫁システムの最大の犠牲者であるアンシーを見て逆説的に大きな嫌悪感を感じる。自分の運命に順応してしまうアンシーの態度を批判する。しかし、ジュリの場合、システムではなく被害者に怒りが屈折しているという問題点がある。ウテナの序盤はこのように男女関係を隠喩する多様な決闘構図を見せ、その関係性を誇張し、ねじって見せる。しかし、これが果たして少女革命だろうか。王子がただ女のウテナに変わっただけで、アンシーは依然としてバラの花嫁であり、ウテナの命令に服従する存在だ。

 

2.  ウテナと彼女の革命の限界

 

 キリュウはウテナが幼い頃に出会った憧れの王子様が自分だと言って、ウテナの意志をくじくことでウテナとの決闘で勝利する。ここでウテナの存在に対する疑問が生じる。ウテナが王子になることを決めた理由は王子に憧れるからだが、憧れよりは愛の感情に近く表現される。ウテナは作品で活躍する時点までも、自分が愛した王子に会いたくて迷っていた。その上、ウテナは果たして作品から隠喩する家父長制から完全に外れた人物と言えるだろうか。ウテナはただ男性性と女性性が混在している存在に過ぎないことを作品で示している。ウテナが姫として待っていた王子に会うことと、アンシーを救ってくれる王子様になることは絶対両立できない。姫であり王子にならなければならないからだ。キリュウはこの点に突っ込み、ウテナにとって「君は元来姫だった」ということを攻略して勝利した。ボーヴォワールが言った「女性という屈辱」を受け入れさせたのだ。そして読者の視点からも、ウテナは社会から離れた革命者ではなく、家父長的社会内でもたらされた存在だということが分かる。

 もちろんキリュウは偽物だったためウテナが再び勝利するが、本物のウテナが待っていた王子であるアキオが登場することでウテナのすべてが変わる。ウテナは待っていた存在であるアキオに出会い、彼と愛し、共寝することで、ウテナが王子様遊びをする女に過ぎないことを示す。そのようにウテナは自ら女性であることを受け入れる。アキオと恋に落ちて以降、ウテナとアンシーの関係はずれて嫉妬に近く変わる。その後、ウテナはアキオとの恋を後にして、再びアンシーを救おうとするが、ウテナはアンシーに裏切られることになる。

 

 

Ⅲ. アンシーの少女革命

 

1.  アヌシーとウテナのすれ違い

 

 作品の後半にはウテナよりもバラの花嫁であるアンシーと彼女の兄であるアキオに対する話が主に出る。皆の王子様として生きていたアキオの荷物をなくすため、アンシーは魔女になって皆の憎悪を受ける存在になる。アンシーはこの作品で唯一女性でありながら姫ではない存在だ。むしろ王子の責任を減らして魔女扱いされ、アキオの苦痛を代わりに受ける。アンシーによってアキオは王子の荷物を減らしたが、それによって苦労し、王子だった過去に戻りたがっている。

 この作品の実質的な主人公は、バラの花嫁であるアンシーである。ウテナは上記したように、「姫と王子」構図に組み込まれた存在であり、アキオとの関係の中で自ら姫であることを受け入れる。もちろんアンシーを救おうとするが、ウテナは結局その構図内で形成された人物だ。アンシーはかつてウテナと良好な関係だった。なぜならウテナは未成熟な存在だったからだ。男性性を追求するが、生まれつき限界で不可能であり、でも自らが姫や女性であることは否定していた。それでウテナが初期に王子を標榜する時、アンシーは彼女と婚約できたが、その後ウテナが姫であることを受け入れてからも王子の立場からアンシーを求めようとしたが、アンシーはそれを受け入れることができなかった。女性の屈辱に服従した経験がありながらアンシーを救おうとするウテナは、アンシーという魔女が苦痛を受けて存在したため維持される「姫と王子」の構図の中に入っておいて、それを壊そうとする欺瞞に見えた。

 ウテナの革命は失敗することが作品の中では暗示されてきた。ウテナが女性であることを受け入れた瞬間、ウテナの革命は完遂されないことを暗示する。そしてアンシーがウテナを刺して言った「あなたは決して王子様にはなれない。なぜなら女の子だから」この台詞も、姫と王子の構図の中で幸せになりながら、王子様のふりをするウテナに怒りを表現する台詞だ。しかし、ウテナは最後までアンシーを救おうとする 。そしてアンシーも、最後になってウテナの本心が分かるようになる。しかし、最後にウテナは結局革命に失敗し、皆から忘れられるようになる。

 

2.  最後に完成した真の意味の少女革命

 

 学院では過去のように家父長的な男女関係が続き、ウテナという非典型的な人物は消えた。しかし、ウテナの失敗した革命をアンシーが引き継ぐことになる。最後の勝利者は王子のアキオのように見えるが、アンシーはこれから王子のための魔女として生きないことを決心した。アンシーはアキオに「あなたはこれからもここで王子様ごっこしてください」と言ってウテナを探すために旅立つ。バラの花嫁としての運命も、王子の荷物を代わりに受け取る魔女としての運命も脱ぎ捨てた。作品から出てくる少女革命は、実はウテナが王子になるのではない。根本的にウテナは家父長制から誕生した人物であり、その構図で満足を感じることができる存在だ。自らがそのような制度を受け入れたりもする。だが、そんなウテナが最後までアンシーを運命から救い出そうとする姿を見せたことで革命が始まった。アンシーは自分の運命を脱ぎ捨て、自らの判断を通じて人生を直接選択することになる。

 序盤に出たミキのエピソードからも分かるように、どんな人もアンシーという家父長制の被害者を救うことはできない。婚約しても結局、アンシーは婚約した相手に従順な存在に過ぎないため、真の解放はアンシーが自ら決めなければならないことだった。ウテナの革命は失敗したが、アンシーの革命は始まった。女性が姫または魔女になる運命を受け入れなければならない構造から抜け出し、初めて主体となる姿を見せてくれる。ウテナは姫と王子の構造で姫という本人の運命を拒否したが、そのシステム自体を否定できず王子を選んだが、アンシーはシステム自体から外れた。姫、王子、魔女の選択肢から抜け出し、それらのない世界にアンシーは旅立つ。今まで閉じ込められていたのはアンシーだったが、最後には逆にアキオに「これからも学院に閉じ込められて王子様ごっこをずっとして」とあざ笑う。『少女革命ウテナ』はシステムの一番大きな被害者であるアンシーが、自らの運命を積極的に受け入れ放棄することから始まり、ウテナのもがきを通じてシステムに不便を感じることで終わる。彼女たちの少女革命は果たせず、始めたばかりだが、革命で最初に必要なことは構造を認知することだ。ウテナのもがきはわずかなねじれに過ぎなかったが、それは構造を認知することに影響した。

 

 

Ⅳ.『少女革命ウテナ』と『第二の性』の関係性

 

 ボーヴォワールの『第二の性』も男性と女性関係を表現することに意味がある。女性がどのように男性という主体が規定する他者として定義されるかについて述べて、女性が男性と関係性を結びながら女性を受け入れる過程が、どのように女性を不利にするかを論じる。『少女革命ウテナ』と『第二の性』は、女性が社会の中でどのような姿を強要されるのかを見る構造を描写したものである。『第二の性』では、男性との関係性を拒否し、独立的女性として存在することを女性解放の最初の始まりとみなす。ウテナは王子を支持する魔女であるアンシーが自らの運命を拒否することで終わる。したがって、両作品の解決策も同様だと言える。男性の戦利品、犠牲者、守られる存在である女性が男性との関係性を否定することで、構造を崩壊させようとする姿を見せた。しかし、1949年の『第二の性』と1997年『少女革命ウテナ』に時代が変わる間、女性に集中していたボーヴォワールの叙述に比べ、ウテナは比較的男性の荷物にも関心を持っている。アキオというキャラクターが単純に悪役ではなく、すべての姫を救うために苦労したが失敗した人物という点に注目すれば、家父長的な男女関係がただ男性だけに利益な関係ではないことがわかる。さらに、アキオは男だったので失敗を味わった人物でもある。王子という荷物が唯一の人生の価値だったので、それが自らの命まで脅かしても王子の責任に自分のすべてを投げ捨てる。

 

 

終わりに

 

 ボーヴォワールの『第二の性』を通じて『少女革命ウテナ』に含まれた男性と女性の関係性について考察した。上記のように、この作品は単純に女性の不合理さだけを主張するのではなく、既成の男性中心文化と家父長制を通じて発生する多様な問題点を批判していると考える。解放とは単に男性のように行動するのではなく、そのシステムの問題を認知して行動することから成される。単純に女性が素敵な姿を見せるのではなく、システムの不合理さに気づき覚醒する真の革命を見せてくれた『少女革命ウテナ』だった。