はじめに

 

 『セッション』(原題:whiplash)は2014年の公開で多くの議論を呼んだ。原題である「whiplash」の意味通り主人公であるアンドリューはむち打ちにされる。「フレッチャー教授の教育は教育だと言えないのか」、「とにかくむち打ちの後に天才が生まれるのなら、彼の教育方針は間違っていないのではないか」、「もっと強く育つ麦をなぜ踏まないのか」など、プラッチャー教授の教育を見て人々は各自の鑑賞と感じたことを考えてみようになる。この映画を教育映画として見るのでならば、フレッチャーとアンドリューの師弟関係の間で「私たちは教育をする上で体罰をしてもいいのか」、「人を心理的に追い詰めるのは正しいのか」等の話を交わすこともできる。しかし、この作品は人を訓育する映画だが、素材が音楽であることを認識すれば、また別の領域として読まれることになる。 

 

 

1. 芸術家作品としての『セッション』

 

 プラッチャー教授が育てようとするのは、一般学生ではなく最高の芸術家だ。この作品は芸術家ドラマーを育てる芸術家小説に近い。芸術家小説は成長物の一つだ。もちろん『セッション』は独歩的に可虐的で歪んだ芸術家を目標にしているが、同様に芸術家を育成することをモチーフにした作品としてはゲーテのヴィルヘルム·マイスターの修業時代がある。この作品の主人公ヴィルヘルムは商人の息子だが、演劇に感化されて流浪劇団を作り、その中での成功と失敗を経験することで芸術家として成長していく作品だ。このような芸術家小説でよく登場する構図は「通俗」と「芸術」の間で彷徨う人間だ。つまり、「芸術と人生は調和できない」ということだ。このポイントを認知してこそ、セッションをよりよく理解することができる。「フレッチャー教授はなぜそこまでむちを打つのか」、なぜなら彼がするのは立派な会計士、整備工などを育てるのではなく立派な芸術家を作り出すことだからだ。芸術は狂気に近いので、まともに狂った人間を育てるためには、人を狂わせなければならない。 

 

 アンドリューの視点に入ってみると、幼い頃からドラムを叩いていたアンドリューは、自分のドラムが認められることを望んでいる。退屈極まりない自分の授業ではなく、憧れるフレッチャー教授の授業を覗き見た彼は、まるで初めて性に目覚めた少年のように芸術を眺めて、ときめきと興奮を感じる。しかし、その時に彼の芸術に対する熱望はまだそれほど狂っているほどではなかった。初めてフレッチャーに認められた時は自然とその自信を恋愛に投射した。この時点までは恋愛、すなわち通俗的な領域と芸術的領域に区分がなかった。芸術の認定が現実の自信につながるからである。しかし、通俗的な世の中でアンドリューは自分の芸術的熱望を実現させることができず、彼の芸術魂は現実と絶えず対立する。フレッチャー教授の授業を受けて,アンドリューは徐々に現実を捨てて芸術に溶け始める。もともと彼が憧れる人は「バーディー·リッチ」だが、以後家族と食事の席で「30代で夭折しても名前を残したい」すなわち、麻薬中毒と節制のない生活で亡くなった「チャーリー·パーカー」のような人生を追求することになって、フレッチャーのむち打ちの影響で彼はドラムを叩くために恋人とも別れる。この時点から彼は現実と完全に分かれることになる。現実と芸術は共存できないことを見せている。

 

 

2. 芸術家の結末

 

 芸術家小説で主人公たちは現実と芸術の分裂した認知の中でその分裂を解消しようとする。自分が持っている芸術魂を自分が置かれている現実にふさわしく変え、現実で可能な芸術を追求するか、あるいは現実を完全に捨てて自分の人生に芸術しか存在しないようにするか。どちらの話も否定的に言えば、前者は芸術家の人生から現実への逃避を選んだものであり、後者は現実の生活から逃避して芸術を選んだものだ。もちろん、ここまで極端な様相で流れることはめったにない。

 

 芸術家は人生と芸術が分裂した二つの自我を一つにまとめる過程で一方に傾く。『セッション』でアンドリューは完全に芸術に傾倒する。この作品でアンドリューが現実を完全に捨てることの暗示は随所に分かれている。フレッチャー教授の弟子であるショーン·ケイシーは皆が認める立派な音楽家になったが、うつ病で自殺を選んだ。フレッチャー教授が絶えず称賛するチャーリー·パーカーの場合を見ると、彼は芸術では天才だが、人生では快楽だけを追求した。アンドリューが芸術に没頭する度に現実であろうとものを一つずつ捨てていくこともアンドリューの悲惨な未来を想像させる。最後にアンドリューがフレッチャー教授の枠組みまで突き破って自分の芸術魂を舞台で爆発させる時、フレッチャー教授は自分に反抗したアンドリューを初めて認める微笑みを浮かべて、遠くから眺めていたアンドリューの父親は息子を失った空虚な目で彼を眺める。

 

 フレッチャー教授は芸術、アンドリューの父親は現実を象徴する対象だ。アンドリューはフレッチャーに与えられる挫折を与える芸術をあきらめ、しばらく父親のそばに戻ることもあるが、この作品の最後にはフレッチャーを壊しながらさらに狂気の領域に入る演奏を見せてくれる。フレッチャーは自分のキャリアを壊したアンドリューを憎むが、彼が完璧な芸術家になったことに驚きを感じ、アンドリューは自分を絶えずに苦しめるフレッチャーを嫌悪するが、それによってチャーリー·パーカーへと一歩近づいた。フレッチャーの「whiplash」を通じてアンドリューは人生を捨てて芸術を選択することになるという内容だ。

 

 

3. 芸術の覚醒剤としての教育者

 

 このように芸術家小説で見ると、この作品は議論の余地がない。一人の男が自分の芸術魂を悟らせる存在に出会い、彼に振り回され影響を受け、ついにその存在さえも超える芸術家に成長する。もちろん芸術家になることは人生から遠ざかることなので通念的に狂気に浸るのは悪いことだが、アンドリューはドラムの世界が美しいと考え、美しさに浸った彼を眺めるのもやはり私たちにすごい感化を与える。『セッション』を見れば高揚する理由がまさにこのためだ。だが、この作品が論難の中心に立った理由はその芸術魂を目覚めさせる存在が「先生」であるためだ。芸術には善悪が存在しないが、先生の教育には善悪を区分できる。フレッチャーが教育者ではなくメンター、あるいはただ影響を与えるだけなら、このような議論はなかっただろう。しかし、不特定多数を教える教授であるフレッチャーが公正でない方法で不当な待遇をしながらただ一人の芸術家、すなわち狂人を育てようとする意図を持つことは芸術の世界ではなくとも、教育の世界では明白な悪だ。

 

 そして、フレッチャーという人間自体にも問題があるように見える。芸術の道を選ぶことには影があることをチャーリー·パーカーと弟子ショーン·ケイシーの場合を見て十分に気づけたにも関わらず、ショーン·ケイシーのうつ病を黙らせた。また、授業中に音程問題がなかったにもかかわらず、自信がない人は追い出し、いざ音程を間違えた人はそのまま残しておく姿を見せ、さらに最後の公演の罠は狭量だ。それを教育者として考えた時、悪人フレッチャーを通じて感化され焼入れられ芸術家に成長したアンドリューを見て「悪い教育で偉大な結果を作れるなんて」と誤読される場合があるのだ。芸術家を育てることだと考える時、フレッチャーの行為は芸術的で、アンドリューが芸術家になることも芸術的に過ぎない。芸術には善悪がないからだ。しかし、人々は「偉大な芸術家になることは善ではないか」と誤解したりする。それで『セッション』を見て「悪い教育だが良い結果を作り出した」と勘違いし「良い結果を作り出す教育は良いのではないか」という疑問につながることから論難がおきるのである。

 

 

終わりに

 

 アンドリューは確かに成長した。通俗的な人生を選ぶ成長ではなく、狂気に濡れた芸術を選ぶ成長をした。その成長を刺激し、促進したのはフレッチャーだ。人々は成長自体が良いものだとして受け入れる。アンドリューが偉大な芸術家になったことは良いことだと考える人もいる。しかし、これは監督がインタビューで「多分、未来のアンドリューは30歳ぐらいに薬物乱用で死ぬだろう」と話したこととマッチさせることができないことだ。監督はこの作品のエンディングが不幸だと言及した。アンドリューが偉大な芸術家になったのは事実だが、彼は通俗的な現実のすべてを投げ捨てたからだ。偉大な芸術家になる成長は、彼を不幸に導いたのだ。結論として、彼の人生は不幸になったが、彼は確かに成長した。それを見て皆が「成長したということは果たしていいことなのだろうか」について考えてみてほしい。