二
『死の問題は、すべての人生問題のうち最も重要なものである。これに対する人々の態度は、人それぞれの性格をとりわけはっきりと現す。この問題についてのその人の考え方を常に知っておけば、そこから彼の人生観の全体をきわめて明瞭に推定することができるであろう。
また、死に対する恐怖は、あらゆる哲学のこの上ない試金石である。死の恐怖に克ち得ない哲学、あるいはせいぜい、人生の無常についての暗い考察に導くにすぎない哲学は、まず実際的にも、勿論たいした価値あるものでなく、いずれにせよ、哲学としての目的を十分に満たすことはできない。しかしまた、このような哲学は、それ自体、すでに理性に適ったものでもない。なぜなら、そもそも死というものがなければ、どうして合理的な人間的・社会的状態が考えられようか。実際、すぐれた人物であっても、あまりに長生きしすぎたために、同時代の人々にとって明らかに禍いとなった例が少なくないではないか。死は元来、造花の大調和をかき乱す烈しい不調和音のような禍いではなく、それどころか、むしろ一つの幸いですらある。すなわち、善と悪とが戦わねばならないこのような地上の世界がともかくも存在しうるということは、およそ死無くしては考えられないことである🌟。
🌟 創世記三の二二。
どんな事件が起ころうと「心が揺るがなくなった」人でも、その生涯の不首尾や辛労が時として心に重くのしかかってきて、この地上に存在は単なる通過点に過ぎず、いつかはこの生活から「救い」出されるに違いないと考えるようになることだけは、確かである。どんなに幸福に暮らしている人でも、そうした気分を知らない者はない。たとえ自分の運命に満足しきっている人でも、自分の民族やさらに広く幾百万の人々のことを思えば、とても満足してはいられないだろう。なぜなら、これらの人々の生活は、ただ欠乏と彼ら自らの過失の長い連続にすぎず、それに対するあらゆる救済の試みを嘲笑うかに思われるからである。このようなな気分を、古いドイツの詩人ハインリヒ・フォン・ラウツェンベルク(一四五五年)は次のように歌っている。
この世のつとめを終えて、
ふるさとに帰りたしと願う。
ふるさとには死のない生があり
悩みのない全きよろこびがある。
かしこでは千年も一日のごとく、
悲しみもなく、争いもない。
さあ、わたしの心よ、あらん限りの勇気をふるい、
あらゆる宝にまさる宝を求めよ。
されど、この地上にとどまるは許されず、
たとえ今日あり、あすあろうとも。
さらばこの世よ、神の恵みあれ、
かなたの天国へわたしは旅立つのだ。
しかし、これもやはり正しい死ではない。人は「いのちに満ちたりて死ぬ🌟」こともできるのであって、老年は、必ずしも慢性の、絶えず重くなってゆく不治の病いのようなものだとは限らない。それどころか、この世で可能であるよりも一層高貴で純粋ないのちへの、不断の進歩であり、発展であることもできる🌟🌟。この場合、死とは、ただ現在の生活に似た来世への、まったく自然な、無理のない、またなんら論理に反することにない移行にすぎない。つまり、地上の生活が継続されさえすればよいのである。果実は熟して地に落ちるが、それは有用な収穫のためであって、腐り潰えるためではない🌟🌟🌟。
🌟 歴代志上三〇の二八。マルコによる福音書一五の三九。スパージョンの「旧約聖書の原典についての説教」ドイツ訳第一巻二〇四。
🌟🌟 そのような老年は不断の激しい活動であるが、ただ、その仕事の性質が次第に少しずつ変わってゆくのである。とにかく、一般に仕事というものは、適度に行われる場合は、確かに老人にとって最上の体力維持法である。年をとると、精神的な仕事は困難にはならず、かえって楽になることを経験した人も少なくないであろう。これに反して、もしこの世の生の存続が信じられないならば、もういくかもそれを用いることのできない老境になって、ようやく人生の英知さとるということは、不可解な運命の、特に意地悪い皮肉であろう。
🌟🌟🌟 これが正しい人の最後である。創世記五の二四。申命記三四の五。ピリピ人への手紙三の二〇・二一。このような死を怖れぬ理由は少しもない。死とは、いのちの糸を無理に痛ましく断ち切ることだという観念も、少なくともこの場合は、確かに誇張された考えである。一方また、いわゆるる「安楽往生」も、決してまたその人が立派な生活を送ったということの証明にはならない。アウグストゥス皇帝はそういう安らかな死に方をしたが、タウラー(ほぼ一三〇〇〜一三六一年、ドイツ神秘家)はそうではなかった。
さらにまた、もし死後に再び目覚めることはないと仮定しても、現世において再生を信じた者が、その思い違いによって困るということはない。彼らはその幻滅を意識することなもなく、ただ一般の人間と運命を共にして滅びてゆくだけである。ところで、もし復活が実際あるとすれば、それを信じなかった人にとって、それは楽しいことであるはずがない。まったく実利的にいえば、およそ信仰の利益は次の点にある、すなわちち、信仰を抱いている人は、万一その信仰が誤っていれも、信仰を持たない人よりも現世でも死語でも不利にはならないし、またその信仰が正しい場合には、いっそう利益を受けることになる。
三
『いずれにしても、生命の継続についての我々の希望は、どこまでも一つの希望であって、証明されうる確実な事実ではない🌟。だが、もちろんそれは根拠のある確信である。まず第一に、それは次のような根拠に基づく、すなわち、人間には様々の素質や能力が与えられているのに、それらを十分に伸ばすには人間の一生はあまりにも短すぎる。だから、それらの素質や能力が死後さらに発達するのでなければ、それらは目的のないものになろう。ことに、若くして死ぬ人々については明らかにそうである。
🌟 数千年来、この世に生きた人は皆、多少ともこの問題に思い悩んだが、それについては昔と同じく今もなおわからない。確かなことは、ただ死という事実だけである。そのほか、もしも生命の継続があるとすれば、それは現在の生命とは違ったものであろう、ということもまた確かである。こうした非常に正しい所見を、かつてウ“ェルテンベルクの独創的な牧師フラッティヒはある将軍に向かって述べた。この将軍が彼に対して、あなたはいったい来世について何かはっきりしたことをご存知ですか、と嘲るように尋ねるとフラッティヒは、まず、閣下は来世でもやはり将軍であると信じますかと反問した。将軍がそれを否定すると、フラッティヒはこう言い添えた。閣下は少なくともそのことだけは確実に知っていられるわけです。だから、この世でもご自分の地位をあまり鼻にかけてはいけません、と。
第二に、我々なこの確信について、キリストのきわめて明白な証言を持っている。もしも来世がないならば、キリストの人生観全体が大きな誤りの上に立つことになろう。人格の復活は、キリスト教が我々に与える最も疑いない、最も明白な約束の一つである。この約束がなければ、キリスト教はきわめて疑わしい真理内容と人生価値とを持つにすぎないであろう。もちろんそれは、キリスト教の信仰箇条にあるような言葉通りの意味での「肉体の復活」ではない。少なくともそれは多くの人が現に理解しているような意味のものではなく🌟、キリスト自らが教え、また使徒パウロも折に触れて宣べ伝えたような意味の復活であり🌟🌟、実際それだけがよく我々を満足させるのである。なぜなら、我々は復活の際に我々の個性を失いたくないし、またヨブや、彼の後では、プロイセンの王女が正当にもこう述べたように、「すっかり別人」になって復活したいとは思わないが、ーーーもしそうならば、我々のこの生命が存続することにはならないし、復活の問題が無意味になるーーーだからと言って、我々は、「我らの肉の弱さ」をそっくりそのまま背負って来世に生き続けたくないことも確かである。だから、どんな場合にも、人間の全存在を深く揺り動かすような強烈な変化が是非とも必要である。こうした変化のために、カトリック教会では、特別な準備段階をさえ認めているほどである。
🌟 そうした考えは、たとえば、ブランデンブルク選帝侯妃ルイーゼ・ヘンリエッテの作といわれている歌「わが信頼する人、イエス」(同胞教会讃美歌第一一六四番)に見られる。この歌が彼女の作かどうか疑われているが、いずれにせよ彼女はオラーニエン家に生まれた王女で、一六六七年にわずか四十歳で死んだ。なおヨブ記一九の二六・二七にもそういう考えが見られる。右の有名な歌はヨブ記の数節に従っているのである。
🌟🌟 ルカによる福音書二〇の三六。コリント人への第一の手紙一五の三五ー五〇。もっともこの箇所は、それにつずく五十一節によって、確かにその価値をいくぶん失っている。』
清秋記: