週末のセッションでも
いろんな方とお会いしました。
一緒にお話しする中で、
身体デザインをする中で──
ここでしか描き出せない変化があり、
それぞれの方から立ち上がる世界観の素敵さに、
いつも集ってくれる人々のセンスを感じています。有り難いことです。
いまの時代は、
本当に大切な情報はスコトーマに隠れ、
変われる気分だけが味わえるものばかりが増えています。
誰かがどこかで触れた言葉。
誰かがどこかで学んだ理論。
誰かがどこかで受け取った技術。
そういったものが、
身体を通って熟成される前に、
そのまま右から左へと流れていく。
そして、
それらはしばしば、
「知恵を伝えている」のではなく、
悪い意味での“着飾るだけのファッション”として、自己承認欲求を満たすための言葉として、
ただ記号を流通させているだけになってしまう。
これは、
いわゆるパクりとかモノマネとか、
そういう表面的な話ではありません。
もっと深いところの話です。
なぜ、
同じような単語を使っていても、
同じような理論を語っていても、
同じような技術名を並べていても、
あるものは人を本質的に変え、
あるものは一時的な興奮で終わるのか。
なぜ、
似ているように観えるのに、
まったく違う結果が生まれてしまうのか。
その差は、
情報の量ではありません。
派手な演出でもありません。
ましてや、
言い回しの巧みさでもない。
差を生むのは、
その情報がどれだけ
“身体を通っているか”です。
Khronosは、
理念があり、仲間の変化を通して、
この“場”の特異性について語っています。
それによって、
これまでに想定されたことのない全体と部分の関係性が生み出され、ここにしかない物語が創造されていきます。
それは、
Dr.Tもおっしゃるように、
“人間のみが持つ抽象化能力”です。
「ゲシュタルト」は、
人類のクリエイティビティの源となっています。(略)
部分と全体との関係です。部分と全体は、双方向性を持っていてダイナミックに関わっているのです。
(苫米地英人著『Dr.苫米地の「能力」の使い方』)
これは、
変化とは個人の中で完結するものではなく、
“関係の中で立ち上がる現象”ということにも繋がっていきます。
その意味で、
同じようなことを語っていても、
どこか薄さが漂うのだとしたら、
抽象度の無さが表れているのかもしれません。
何を言っているのか?
企画に参加されている方々であれば、
すぐに自然と繋がると思います。
そういえば、
僕は車にあまり興味がなかったのですが、
面白いニッチ集団がいるのを知りました。
空冷ポルシェのレストア集団である「R-GO」
※ 1960年代から1990年後半の間に生産されたものらしいです。
彼らがやっているのは、
よくイメージする中古車販売にある、
表面だけ磨いて、見栄えを整え、
それらしい価値を上乗せして売る文脈とは、まったく異なる仕事でした。
一度、車両を徹底的に分解し、
目に見える部分だけでなく、
むしろ普段は見えない構造の深部にまで入り込み、
情報を洗い直し、精度を合わせ、
全体として最適に駆動する状態へ
再び組み直していく。
つまり、
彼らが扱っているのは
「部品」ではなく、
機能する全体です。
多くの人がやっているのは、
いわば「パーツの転売」です。
この技術はこう効く。
この理論はこう使う。
こんな資格があるからできる。
このワークをやればこう変わる。
そうして、
切り出された情報を
クライアントという車体に
継ぎ足していく。
けれど、
人間はパーツの集合ではありません。
身体、情動、記憶、時間感覚、
対人関係、自己像、未来像。
何と呼んでもよいのですが、
部分と全体は双方向性を持ってダイナミックに関わっています。
一箇所だけを取り替えても、
全体が調和していなければ、
その変化は長続きしないどころか、
むしろ内側でバグを増幅させることすらある。
便利なパーツの提供という発想自体が、
人という存在をあまりに矮小化しています。
僕たちが提供しているのは、
“何かに効くパーツ”ではありません。
最適に駆動する、
あなたというOSそのものの再創造です。
そして、
この違いは、
表面的にはとてもわかりにくいかもしれません。
なぜなら、
世の中の多くは
「見えるもの」で判断するからです。
多くは、
外装を急ぎます。
金運。
人間関係。
恋愛。
売上。
集客。
存在感。
オーラ。
モテ。
引き寄せ。
そうした
わかりやすいベネフィットは、
確かに人の目を引きます。
いらないわけではない。
けれど、
シャーシが錆び、
下回りが泥だらけのままなら、
どれだけ高価な塗装を施しても、
それは長く持ちません。
一雨で剥がれる。
一度の衝撃で歪む。
少し環境が変われば、
たちまち不調をきたす。
車であれば、
本当に差が出るのは、
バラしたとき、リフトに乗せたときにしか見えない場所であったりします。
Khronosも大切にしているのは、
まさにそこです。
クライアントが
深い変性意識に入り、
普段の言語や思考では
辿りつけない深度に潜ったとき。
通常は意識に上がらない深部。
記憶に付着した情動のバグ。
自分でも自覚していない
他者同調の癖。
未来を閉ざしている
スコトーマ。
あるいは、
Want toではなく
Have toで組まれた歪み。
そういった
“観えない場所”を大切に一緒に対話していく。
そのとき──
部分ごとにバラして
対処療法するのではなく、
全体の機能として
整合性が取れるようにデザインしていく。
もしかしたら、
対話をしていても、そんなことを意図しているように感じないかもしれません。
けれど、
結果として“未来から現在を俯瞰するような風景”へ移動していく。
その変化は、
「あなた自身の言葉」によって。
現状では到達できない変化、
w1からw2への移動。
その変化を促すためであれば、
扱う領域にこだわりがありません。
整体もする。
メンタリングもする。
気功もガンガン使う。
ビジネスも語る。
T理論の話もする。
デザインの話もする。
これは表面的な
メニューの多さがポイントではないのです。
ポイントは、それらが一つの“場”で、
未来からの視座として統合していることにあります。
変容を断片化して扱わない。
身体を書き換えることが、
そのまま可能世界の移動になっている。
抽象度が上がることが、
未来の物語の再構成と繋がっている。
呼吸が変わることが、
選択の質を変え、
関係性の位相を変え、
時間の流れ方そのものを変えていく。
これらは、
別々の出来事ではありません。
Khronosの“場”では、
これらが同時に起きています。
昨日は気功、
今日はコーチング、
明日はビジネス、
といったように、
セクションが分断されているのではなく──。
全体がつながったダイナミックな双方向性のなかでしか観えない風景や構造があります。
(僕は企画立案から実行までをプロジェクトや単独でやる仕事をしている期間も長かったので、実感としてよくわかります)
どれだけ高い抽象度の話をしても、
身体に降りていなければ意味がない。
どれだけ身体が緩んでも、
未来の物語が更新されなければ
元の現実へ引き戻される。
どれだけがむしゃらに動いても、
認識の地図が古いままなら
新しい世界を認識できない。
だからこそ、
全体としてデザインされたものとして扱う。
だからこそ、
外側にある何かを“足したもの”ではなく、
“世界そのものが移行してしまっている状態”として立ち上がるのだと思います。
都合よく装飾された何かとしてではなく、
本来の美しき機能を取り戻した人として、
未来から構築すること。
それが、
僕の考える一つの“再創造”が起きた状態です。
と終わろうと思っていましたが、
素敵な記事を投稿されていた「Sou-kaさん」を、ご紹介して終わります。
ではでは、今回はこの辺で。
また次回の記事でお会いしましょう!
Khronos / The salone|Hiro
追伸:
感想・ご質問、大歓迎です!
たった一言でも構いません。もし何か感じたことがあれば、ぜひシェアしてください。言葉にすることで、見えなかったものが形になり、次の扉が開いていくのです。
あなたの一言が、次の扉を開く鍵になります。
どんな小さな気づきでも、それが新しい変容の始まりになります。そして、“場”をさらに深める力になります。









