この週末も、
いつもながらいろんな方と
セッションでお会いし、
この瞬間だからこそ起こったとしか言いようのない変化に立ち会わせいただきました。

それは、
ブログを読み続けていたからかもしれませんし、
講座やセッションで一緒に歩んでいたからかもしれません。



そうなるべきタイミングが重なり、

それまで別々に動いているように見えていたものが、
一つの変化として噛み合った。

そのことで、
これまでいた世界から、

大きく移動することができたのだと思います。


 
さらに大切なことがあって──

何かをしている "その時間" だけではなく、この“場”で共有されているすべての瞬間が、"変化"を促しているということ。

世界を変えようとする前に、
“世界の見え方”そのものを変える必要がある──。


そう実感する人たちが、
言語化できずとも何かを日常の中で違和感を感じている人たちが、ある日、何かに導かれるようにこの“場”にたどり着きます。

ここには、あなたが悩み、考え、超えられなかった何かを解決して、別の世界へ移動することができるものがあります。


何か新しいことを語っているわけではなく──

これまでブログや講座で一緒に観てきたことが、
リアルな現場で、
一つひとつの変化として立ち現れているということです。

それは、
Mentoring Program」の1期でも、
起こっていた変化でした。


 
この半年間で、
それぞれが抽象度を上げ、

臨場感を更新し、
物語を書き換え、

未来をデザインし、
それを体現してきた。

連続しているように見えて、

毎回どこかで生まれ変わっていた。

だからこそ、
最後の一段は
無理なく、
自然に噛み合ったのだと思います。

変化が始まった瞬間を、


切り取ることはできません。



ブログを読んだ時間。

講座で同じ空間を共有した時間。

何気ない会話。
日常の中で感じた違和感。

未来側の風景が先にあり、
その臨場感によって、
すでに移動は起こっていた。

そして適切なタイミングで、

大きな変化として噛み合ったのだと思います。

そういった瞬間に
立ち会わせていただけることや、
そういう中で、
新しいステージに進んでいく方々もいらっしゃって、
ご報告をいただけるのは本当にありがたいことです。

また、

新しく発表されている数式についても、

それぞれが直面している個別具体的なことについても、
いくつものご連絡をいただいています。

その中で伝えていただいたのは、

他の誰でもなく、

「Hiroさんから話を聞きたい」
ということでした。

同じ情報であっても、
誰から、どのような関係性の中で受け取るかによって、立ち上がる風景は変わります。



大切なメッセージが届いていて、
それを受け止めてくれる方たちがいらっしゃることで、僕自身も救われますし、
それらがなければ、今回の記事も多分書けなかったと思います。

そういえば、
セッションは週末に集中しがちで、
土日対応しかしていないように感じていらっしゃる方もいるので書き残しておきますが、平日でも希望いただければ調整しますので、気軽にご相談ください。

あと、
新しい苫米地論文の、
苫米地四法印定理」の定理26(涅槃寂静定理)の解説を、先日のスクールを受講しながら感じたことは、悟り(差取り)とは差を取ること、との繋がりです。

 
バレエ評論で高名なM氏とお話しする機会があったときに印象に残った台詞があります(多くの言葉が印象に残りましたが)M氏いわく「この世があの世なんだ」と。
僕はこれはかなり正しいと思います。悟り(差取り)とは差を取ること、差分を解消することと言えますが(ただのダジャレかもしれませんが)、例えば生と死の差を取ることも悟りと言えるでしょう。生と死は同じものでしかないというのは、かなり正しい感覚だと思います。釈迦は「生じることもなく、滅することもない」と言いました。イエスは自分と縁を持てば永遠の命を持つと言いました(ヨハネ4.14 「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。)


よく悟りとはその音から「差取り」などとも言われます。「差を取る」とは、境界があると思われていたところに、実は境界が無いことに気付くことです。空間と時間の差(区別)を取ったのはアインシュタインでした(質量とエネルギーの差も取りました)。

境界があると思っていたところに、

実は固定的な境界などなかったと気づく。

別々に存在しているように見えていたものが、
より高い抽象度から観ることで、
一つの関係の中にあったことが観えてくる。



T理論でいえば、
自我と宇宙は表裏一体」ということだと思います。

 
すなわち、我々の脳は、それ自身は有限の制御装置ではあっても、外部から与えられる無限の量の記憶を利用することができ、その結果、どのように複雑な計算をも遂行することができるようになっています。
 
という議論は、宇宙そのものを「外部から与えられる無限の量の記憶」として人間は利用可能だということです。逆にそのような意味ではチューリング機械であり、ということは、T理論の重要な命題である「自我と宇宙は表裏一体」ということもクリアに見えてきます。

宇宙を入力として自分を出力するような関数(自我)は、その補集合として「自分以外」を出力します。


f(宇宙)→自分

ですね。

ここから、
「オーセンティックコーチング2026」では、
Possible World Representation(可能世界表記)」として、形式的定義がされたのは記憶に新しいところです。


 
自我の仮定義:自我とは宇宙の全存在を自分にとっての重要度順に並び替える関数
{w|∀y ∃x pSelf (x, y) } 
x,y ∈ Universe

自我1(コンフォートゾーンの定義);自我を、自分にとって重要なコンフォートゾーンを選び出す関数(重要度で並び替える)とする
{w|∀y ∃x rComfortzone (x, y) } 
x,y ∈ {w_{current}}

自我2:(ゴールの定義):自我を、自分にとって一番重要なゴールを選び出す関数(重要度で並び替える)とする
{w|∀y ∃x qGoal (x, y) } 
x,y ∈ {w_{future}}

自我1と2の統合:自我とはすべてのコンフォートゾーンをすべてのゴールに従い並び替える関数
{w|∀y ∃x sSelf (x, y) } 
x,y ∈ {w_all comfort zones based on all goals in all possible words}

(苫米地英人『新・夢が勝手にかなう手帳 2026年度版』)

NDU論文では、

「Self演算子」として。

{ w | ∀y ∃x sSelf(x, y) }, s : TCZ → TCZ

このSelf演算子を、
直近の論文と重ねてみるなら──
「涅槃寂静」が未来終端条件として設定されることで、Ego によって認知空間のエントロピーはゴールに向けて減少していきます。



それが、いつもの頑張らなくていい、
ということに繋がっていきます。
 
涅槃寂静:零苦の安全地帯へ指数的に入り、生きたまま中を運動し続ける
(苫米地四法印定理 やさしい完全版 — 数式が苦手な読者のための注解・図解つき)



ではでは、今回はこの辺で。

また次回の記事でお会いしましょう!

Khronos / The salone|Hiro

追伸:
感想・ご質問、大歓迎です! 
たった一言でも構いません。もし何か感じたことがあれば、ぜひシェアしてください。言葉にすることで、見えなかったものが形になり、次の扉が開いていくのです。
あなたの一言が、次の扉を開く鍵になります。
どんな小さな気づきでも、それが新しい変容の始まりになります。そして、“場”をさらに深める力になります。