機能美を取り戻すということを過去記事でいろいろと書いてきています。
前回も書きましたね。
これをパフォーマンスという視点から考えてみます。
筋トレという概念が一般化して久しいですが、少し前までは筋トレは大衆向けではないマニアックな領域の人がやることでした。
いまはベストボディとか、フィジークとかボディコンテスト大会が大量に溢れ、それに関連する団体もたくさんあります。
ボディメイクという名のもと、せっせと鍛える男性も女性もたくさんいる。
夜中の12時を過ぎても一定数の人がマシーンを使っている状況があったりします。
メディアの影響もあり「いい身体を作ること」が特殊なことではなく、いいことだとなってきています。(もっと背景的な意味は深くありますが、さらっと進めます)
一昔前にライザップが流行ったころから、その兆しはあって、当時はあくまで「ダイエット」が主な目的になっていたけど、
そこから変化して「かっこいい身体を作る」と考えて筋トレをやるようになった人が増えました。
いい身体は、単純に痩せるだけでは手に入らない。
ボディメイクをしないといけない、と。
(だから、筋トレ、筋トレって言っていても、あまり目新しさがないことになってしまうわけです。)
ボディメイクに目を向けて鍛え始めると、パフォーマンスは一気に変わり始めます。
見た目も変化しスタイルも変化する。
そして、
鍛えた身体は使いたくなります。
上手く使いたいと思うことが増える。
より綺麗に効率的に動かしたくなるのです。
見た目がよくなっていくと、機能が気になってくる。
パフォーマンスが気になるようになってきます。
うまく使えないところが気になったり、不調が気になるようになってくるのです。
全体として見れば、文句なく良い状態になっているのです、しかし良いところと悪いところの差が大きくなります。
以前であれば全体のレベルが低く、しかし逆に良いところと悪いところの差が小さかったのです。
身体の抽象度が上がり、目に見えて身体が柔らかく(可動域も筋肉の柔らかさも)変わっていっているときに、悪い部分がくっきりしてきます。
光が強くなると、闇もまた深くなります。
いや、実際は闇も明るい灰色になっているのですが、しかし光の部分(良い部分)があまりに良いので、悪い部分がくっきりと悪く感じるのです。
これを「マーブル」と呼んでいます。
身体がマーブルになってきて、たしかに平均値を取れば断然良くなっているし、悪い部分や故障の部分も以前に比べて断然良いのですが、良いところと悪いところの差が激しくて、その差の大きさに身体をひきちぎられそうな気分になるのです。
ほかには、正しい使い方がよく分かっていなくて、怪我をしてしまったり。
怪我を繰り返してしまうなんてことも。
そうすると怪我をしない方法を模索しだします。(ぼくは幸いなことに、軸を作ることや腹圧の感覚、負荷の掛け方など教えてもらいながら進むことができたので、どれだけ鍛えても怪我はせずにここまできています。)
これはなにかしら運動をしている人すべてに共通することかと思います。
人間に共通するといってもいいかもしれない。
だから、いま頑張って筋トレなどをしている人の何割かは、いろいろなことを試すなかで
「パフォーマンスが大事だよねー」
という状態になっていくと思うのです。
もっというと、人間と他の動物の動きで違うのは「直立二足歩行」だと思いますが、
どんなにスタイルが綺麗になってモデルのような姿になっても、歩くと疲れる、腰が痛くなりやすい、歩くと癖がある、とかになると、それは魅力的なのか?ということになっていくと思うんですよね。
分厚い大胸筋で広背筋も大きく広がりがある、けどちょっと走ってみたらドタバタと効率の悪い動きをしたり、腰痛になってダッシュが出来ないとか。
かなり綺麗にヒップアップして、脚も細くて綺麗にボディメイクしてるんだけど、10分歩くだけで疲れてしまうとか、階段登るのがツラいとか。
普段から身体のこと気にしてるのに、友達に誘われて行ったピラティスの体験コースで、日常では使わない動きをさせられて酷い筋肉痛になってしまうとか。
そういうのは、なんていうか、、、(自己検閲)
すごくもったいないこと、だと思うのです。
これは、よく聞く「使える筋肉、使えない筋肉」みないな抽象度の低い論争についての話とは違います。
ぼくは、与えられた能力は開花させるべき、というアリストテレス的な価値観を持っています。
人間として与えられた肉体の機能、ポテンシャル、才能、能力はできる限り開花させていくようにデザインすることが正しい道だと。
だから、
本来の自分へ回帰させる。
そして、
自分の人生を取り戻しましょう、本来のポテンシャルを引き出そう、本来の自分を見つけよう、
ということを言っています。
より善く生きるためにも、そうしなければ、もったいないと思うのです。
床から重たいものを持ち挙げて、パフォーマンスをあげていくことも、もちろんできます。
この能力をできるだけ伸ばすことも大切。
けど、人間本来の機能的な動きや、身体の表現型としての美しさを最適化させて取り戻していくことを考えたときには、後者の方が本来のポテンシャルを取り戻すということに合致していると思うのです。
であれば、デッドリフトで300キロ挙げられることより、一日中立っていても、歩いていても疲れづらい、怪我のでない、老化の進みづらい身体の方が、より「能力を開花させた」といえるのではないかと。
時間を逆行しているような若々しさを取り戻して、日々あらゆる快適度合いを高めていけることの方が「本来の自分へ回帰させている」のではないかと。
そんな気がしています。
そんなことを書きながら、ぼくは相変わらずデッドリフトをしているんですけどね。