長田地区が震災で工場の停止に陥り、靴製造再開の為に工場の修理や再建設に移転など、再開に向けて町は徐々に動き出してはいた

 

1か月ほどで生産を再開したところもあれば、半年ほどを要した会社もあり、靴の生産地としての完全な機能回復は半年ほどかかったと思われる。

 

しかし、工場再開のために被災者用の特別融資等で借金をして工場を再建したりしたが、工場を再開しても震災以前の様に受注があるのかと言えば実はそうではなかった。

 

バブル経済崩壊の影響からの経済不況ももちろんだが、不況よりも問屋や大手小売店バイヤーたちの商品の調達先に変化が起こり始めたのがこの時期で、そのことが最も大きな要因だった。

 

実はこの長田地区のほとんどが操業を止め、製品の供給元として機能しなかった数か月間に、流通業界の商品調達に大きな構造変化が起こり始めていたのであったが、それを震災というきっかけで急速に加速させてしまっていたのだ。

 

当時世間ではユニクロが急成長し、街にはユニクロの店舗が増え始めた時であった。

 

それまで海外生産、特にアジア諸国での生産の物は、「安価だが品質が悪い」と言うような印象を持たれていた。

 

しかしユニクロに代表されるように、生産管理をキチンと行うことで品質を上げ、安価で品質の良い物を提供し、そのイメージを払拭することに成功していた。

 

それまでアジア産の靴は「安かろう悪かろう」と言われ、実際にクオリティーが低い物も多く、セール用やディスカウント専門店等での特売用として扱われていたのが大半だった。

 

デパート等の大手の流通や一般店舗などでは品質や流行への対応の観点から国内産のシェアはある程度保たれていた。

 

しかし長田の街が震災で操業停止により、商品の生産が一時的に停止し、長田からの靴の供給が止まった時に、問屋・百貨店・スーパーなどの大手流通業のバイヤーたちがこぞって商品調達を海外に切り替えたのだ。

 

日本国内で製造管理をしていた一部の人が震災を機に中国にわたり製造を指揮し管理することで、中国産も今までとは違う品質の良い物を製造できるようになってきた。

 

そこそこの品質の物が海外でも生産されるようになり、国内産よりも仕入れコストの安い海外ものに需要が高まり、完全にシェアを海外産のものに浸食されて、両者の立場は逆転してしまうことになる。

 

靴の製造だけでなくほとんどの業界でこのような傾向が見られるが、特に靴業界は産地が震災で操業停止に陥って商品供給が一時的に停止したので、その速度が他の業界に比べても加速したのは間違いないだろう。

 

震災で被災し操業停止に陥り、再建の為に借金をして工場の操業を再開したが、その時には以前の様に受注がなく、値段的に圧倒的なアドバンテージを持つ外国産と勝負しなければならない状況に陥っており、必死の思いで工場の再開をしたは良いものの、以前のような数の注文が来る事は無く、震災による二重ローンを組んでいる場合も多かった。その上に受注減による業績の悪化は明らかで、長田地区の淘汰縮小は加速度を増していった

 

「第6回<一時的な盛況のまやかし>」に続く・・・