震災後の2年間ほどは、マスコミも頻繁に神戸の復興に関するニュースを流し、チャリティーコンサートや商店の仮設店舗での再開等を伝えていた。

 

確かにあの時期は工場再開や住宅再建も進み、街の鼓動も感じられ、一時的には活気が戻ってきたようにも見えていた。

 

「がんばろう神戸」

 

と書かれたワッペンをユニフォームに付けて、当時神戸を本拠地としていたプロ野球のオリックスがイチローや田口らの活躍もあってリーグ優勝と日本一に輝いたことに自分たちを重ね合わせ、当時がみんなが神戸の復興を信じて疑わなかった。

 

実際に震災から5年以内は震災特需ともいうべき状態が発生しており、倒壊した建物の解体を始め、様々な建設工事が街中で行われているので、建設業界はバブル状態とも言える忙しさと好景気に沸いていた。

 

神戸最大の繁華街である三宮の飲み屋街では、震災後は建設作業員の客が溢れ、街のあらゆるスポットで作業着姿の若者を目にすることができた。

 

実際に様々な建設会社が神戸に支店を出し、建設業界に関しては人材不足なくらいであった。

 

この時に靴の工場も次々と再開し、むしろ好景気とも思えるほどの雰囲気が街にはあるようにも思われた。

 

しかしこれには大きな負の要因が隠れており、根本的な問題が解決したわけではなかったのだ。

 

実際に、この時の靴の製造業だけでなく、商店やそのほかの業種も借金をして再開をしているのがほとんどで、実は借金によって街の経済が動いているだけであった。

 

被災した会社や商店、さらには個人の住宅修繕などのために、罹災証明があれば低金利で簡単に融資を受けることができる特別融資をかなりの会社や個人が利用していた。

 

その後、震災前の住宅購入費と修繕費用のために借り入れをした人の二重ローン問題が話題になったように、当時は借金が増えただけという実情があった。

 

返済を5年間据え置きできたのと、震災復興関連の公共工事特需によって経済が回っているのであって、神戸の経済に地力が戻ったわけではなかった。

 

この状態を皆が復興していると錯覚している時期があったようにも思われる。

 

震災から2~3年は仮設住宅からほとんどの人が新しく建設された公営住宅などへ移るために街中が忙しそうにも見えた。

 

しかし公営住宅建設や高速道路の再検討のインフラ整備も徐々に終わり、公共工事の特需が減り、建設工事現場がみるみる減っていくと、仕事にありつけない人も増え、繁華街の飲み屋街に閑古鳥が鳴くようになっていく。

 

街の経済が一気に冷えてきたのだ。

 

更に借り入れから5年が経つと被災者向けの特別融資の返済据え置き期間が終了し、借入の返済が始まる時期が来ると、街の様子がさらに疲弊感を増していった。

 

震災から5年の間には、折からの不況と構造変化で思うように業績が伸びていない長田地区の事業者が多いままだった。

 

かなりの事業者がこの返済時期が始まるタイミングで苦境に加速を増す結果になり、長田での廃業や倒産はこの後に圧倒的に増えるのだ。

 

震災からの数年は、震災特需や特別融資により街が復興しているようにも思えたが、しかしこの状態は、言葉はキツイが実は「まやかし」で、決して長田地区の経済力の地力が回復していたわけではないのだ。

 

この事を阪神淡路大震災以降の被災地の人たちはよく理解してほしい。

 

特需や色々な経済資源が投入されている間に、地元経済の地力の回復もしくは新しい力や今までの主要産業に代わる産業を構築して力をつけなければ、震災特需が終わった後は産業の淘汰縮小が加速されてしまうだけだと。

 

「第7回<被災者根性>」に続く・・・