7月になった。朝から大雨である。  

 

 日本の年齢構成が気になり、適当なクエリを立てて検索したところ、1つ目のクエリの組み合わせで、厚生労働省が令和5(2023)年に制作した将来推計人口の概要というPDF文書、他のクエリの組み合わせで、総務省が為した“我が国における総人口の長期的推移”と言うPDF文書を見つけた。ここでは前者を元に色々と書いて行きたい。 

 

 その推計に依ると、2020年から2070年までに、全人口は12615万人から8700万人に減り、65歳以上人口は3603万人から3367万人へと微減、15~64歳人口は7509万人から4553万人へと約40%減、0~14歳人口は1503万人から797万人へと約47%減となっている。PDF文書自体はウェブ上に落ちているので、“日本の人口構成 今後”等のクエリでGoogle検索すると見つけられるだろう。今統計の両端点の数値のみを抜粋して記したが、PDF文書では5年毎の統計と、文書制作時点で統計データが集まっていない年度に関しては推計をした値が記して、グラフ化してある。  

 

 上の段落の記述で判明したと思うのだが、高齢者の実数は実は今後50年ほどで微小な割合だが減って行くとなっている事だ。故に、日本の社会全体の高齢化の主因は、高齢者の数が増えていくからではない事が明らかになった。決定的な原因は、15歳未満の人口が増えないと言う事でもなく。15歳から64歳の人口が、推計に依ると、つまりこのまま50年ほど特に何の対策も講じなければ、約40%も経ると言う事だったのだ。ここで翻って考えると、15歳未満の人口が増えない理由も、15歳から64歳の人口が激減していくので、そレト連動して減っていくからであると推定出来る。  

 

 故に、これまで日本の社会で真偽明らかでないまま日本語で何となく伝わって広まって来た、高齢者が激増して社会に占めるその割合が多くなるので、等の言葉は全て事実無根の妄説であったことが明らかになり、それに対して、今後採るべき対策は、15歳から64歳の人口を増やす事でしか無い事が判った。 

 

 そこで、15歳から64歳の人口を増やす策だが、その人口帯の多数の割合を占める人々に対する富の分配を増やしていく、移民に適切な人口の分だけ日本国に入って来てもらう、そして弥縫策としては、65歳以上の人々で労働可能な人々に、その人の自発的意志がある場合に、労働に対する正当な報酬を払って労働してもらうというのがある。その実数が微減していくと言ってもそれぞれ或る程度の何等かの経験を積んでいる人々なので、力を貸してもらうという意味で、現役と同じかそれより少し高い報酬で働いてもらうということだ。  

 

 重複した内容を、時間を置いて何度も書いてはブログの記事として公開してしまう事があり得るので、記事の有意義な管理を可能にする為に、これまで何度か記事を消して来た。その消して来た幾つかの記事で言及して来た記憶があるのだが、要は私が何かを始める時、人生で決定的に重要な出来事がある時には、雨が降る、又は悪天候である、と言うのがある。単に気圧配置が私の精神に影響して行動を促しているだけなのかもしれず、偶然に悪天候が来ただけなのかもしれないが、今のところ、その様な印象を得ている。即ち、今後の日本は高齢者が激増すると言う巷説と同じ類の妄説である可能性がある。実際は、今後50年の推計に依ると65歳以上の人口は微減し、本当に劇的に減るのは、15歳~64歳の人口帯の人々の数なのである。  

 

 日本の社会が客観的真実に依ってではなく、それに或る種の加工を施した人為的意見に依って運営されていると言う、大変に憂慮すべき一例をまたもや見せられた感がある。その加工が善意と正義に基づいて居たなら或いは客観的真実よりも優れた結果を齎すのかもしれないが、特定の人々や集団にのみ利益を導き、その他の人々や社会には重い負担や犠牲を強いると言った悪意や邪悪さに基づいて居たなら、当然の帰結として件の推計に依る数値よりも悪化した人口構成となって出て来るのであろう。  

 

 また、依然としてWeb上のどのコンテンツがリンクフリーなのかが判らず、折角文書を見つけてもリンク出来ないと言ったばかりだ。Webページも拡散ボタンが無ければ、拡散しないように用心している。Webは規模が世界にまで広がった繁華街みたいなもので、基本的にそこを行く時には、他人の意見を聞く事は出来ないし、聞くべきではない意見もあるだろう。そして教えを請うなら、また別の問題を生じるだろう。己一人の感性や理性を信じて、と言いたいところだが、これらもよく間違う。そして私の場合は、知情意のどれをとってもあまり大した事はないので、間違う割合が高くなる。  

 

 しかし、信じて行うしか無いのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 3日前の父の日の翌朝、父が出てくる夢を見た。正確には姿は目にしてないので、出て来たと言えないかもしれない。内容は、父がまだ生きられるのに安楽死させられた、と言うものだ。生きたいという意志を係の人に言っているのに、まるでそれが良いことのように速やかに行われた。 

 

 夢なので、目にしていないのに、そのやり取りがわかってしまうとか、色々とおかしな点もあるが、目が覚めてから、一体これはどういうことなのか。どういった意味があるのか、或いは単なる夢の一つで無意味な想念の連鎖なのか、少々考えた。そして得た自分なりの結論は、‘無念を晴らせ’だった。あくまで自分で考えただけなので、間違っているかもしれないが、その夢を私が見た意味からすると、やはり自分自身で解かねばならない類のものだと思う。故に、父の意志が明確には解らないが、今後は自分なりの解読に従うことにする。  

 

 それが負担になるかと言うと、既に昨日もちょっとした問題を解決した程だし、この上何か増えたとしても、別に大したことはない。

 

 

 

 

 

 ここ数年、悪夢と呼んで良いのかどうか判らない程度の何かに取り憑かれた様になっていて、今朝も目が覚めた布団の中で気づいたら同じ現象に囚われていたのだが、その時に、ヨブ記を思い出し、最終的には神が義しい事に改めて気づき、そこでその何かを解決出来た気がする。故に、もうその何かは出て来なくなるか、出て来ても何等問題は無くなるだろう。

 

 しかし罪深いのは、人を黄泉の国に陥れる主体だ。これを悪と認めるべきか否か。だが、何より己に邪悪が入って来ない様に常に心掛けなければなるまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブログ乙で行って居るロシア語の翻訳を休止して長いが、それ故に生活のリズムが大きく狂っているかも知れない。しかし、過去にも精神的に疲弊して色々と遅れを生じたことがあるので、私は所詮その程度の人間なのかもしれない。  

 

 ブログ甲も、更新しなくなって久しいのだが、何時までもそれではいけないと思ったので、何も書く事がないからこそ、その何も書く事がない事を書くぐらいの気持ちで、ブログ開始当初の、“意味の無いことを書く”と言う精神に立ち戻り、公開してどれほどの意味もない、個人の日記程度の内容を改めて書こうと思う。意味のあること、有意義なことは、そうあるべきであると考えてる人々が行なうだろうし、明確な目的がある人々が行なうだろう。私が無意味で、無内容で、無目的なブログを行なうことで、そういった有意義で、内容があって、目的が明確な人々の発信がより際立つであろうし、そう言う意味で私の発信には意義が生じるというものだ。  

 

 また、書いている内に何を書くべきかが決まる事もあるだろう。何度目かの挑戦をすると言う事だ。 

 

 久しぶりに更新したことで、ブログの体裁を忘れてしまったか、設計が変更されていたかで、“管理トップ”になかなか行けなかった。新たな気持でブログを行えそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今朝は少々寒冷である。  

 

 目に見えるものに左右されがちで、目に見えないものを恐れがちな自分自身に叱咤激励せねばなるまい。否、元々己が弱い事を認めて、出来る事から行うのだった。  

 

 早くも2月が終わりそうだ。但し今年は閏年なので、例年よりは1日多い。  

 

 改めて、自分に出来る事からやって行く、と自分自身に言い聞かせつつ日々を生きると覚悟する。

 PCが不調、と言うか部分的故障で、恐らく経年変化なんだろうけど、タスクバーが消えてしまって、スタートボタンなども機能を停止してしまった。それも、この間のWindows更新以降の事だ。  

 

 タスクバーとその辺りの場所にある様々なものを復帰させる方法についてあれこれと調べてみたものの、まだ試して居ないので、上手く行くかどうかも解らない。  

 

 ただ、あまりに突然だったので、当初精神的動揺があったのだが、何日か経て少し落ち着いて来た。PCとWebに頼り切る事が自分にとって良いのかどうかは解らないけど、使う事で文章が上手くなって来た気がするし、世の中の実際の所が或る程度見える様になって来たので、PCとWebを使える環境を維持したいとは思っている。  

 

 そう言えば、この回が今年2月最初の更新になる。言語キーボードも切替えられない様になったので、ロシア語で文字を打ち難くなったが、それに対する応急処置的な対処法としては、予めGoogle Input Toolsをブラウザにインストールしておいて、ロシア語のキーボードを使える状態にしておいて、Google DriveでDocs上にロシア語の文字を書いていくと言うものを思い付いた。そして更に気付いたのは、Google Input Toolsでロシア語キーボードを使える様にしておいたら、半角ではロシア語、全角では日本語を、そのブラウザ上では打てるようになると言う事みたいなので、必ずしもGoogle Docsの上でキリル文字を打たねばならないと言う事では無い様だ。 

 

 そして、こう言う状況になると、過去にPCが壊れて来て使えなくなって来ても、ギリギリChromeだけが使えて何とかしなければならない事をこなせてきたのを思い出す。Appleのマシンの事は知らないが、WindowsのPCは事実上Googleが無いと大変に困ると言えるかもしれない。 

 

 また、ТолстойのКруг Чтeнияの翻訳は長く止まったままだが、準備が整い次第再開する積りだ。  

 

 ところで、世間、又は社会に於いては、今年1月1日の能登半島の大地震以来、更に混乱が各方面で起きて居る様に思う。ユーラシアではそれ以前からのウクライナでの戦争に加えて、ナヴァルヌイ氏の死亡があったり、中東ではイスラエルに依るガザ侵攻があったり、日本では自民党の裏金問題が発覚して、それが長期にわたり根深いものがある事が判ったりと、他の地方や国での事も併せて、余程自分を見失わない様にしないといけない様になって来たと言える。 

 

 また、1月1日の地震発生後に知ったのだが、能登半島では2020年12月以降に群発的に地震が発生しているらしく、そう言った、私にとっての新しい知識の増加や増え方と言った意味でも、私のWeb参加以来、特に2011年の東日本大震災以来、私にとって激しい変化が続いていると言ってよい。  

 

 しかし、繰り返しになるが、混乱と言っても良い変化の中で、自分自身を見失わず、様々な邪悪を自らの中に入れず、善徳を積む様心掛けて行きたい。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 言葉は、その長短でではなく、本質的であれば良く、そして言葉の本質とは、そこに作為や改変の類いが無い事だと私は思っている。また、物事は生まれた瞬間が最も本質的であって、そこにその物事の全てが凝縮されていると私は信じている。  

 

 故に、邪心や余計な欲を持たずに、ただただ生きる様心掛けようと思っている。

 

 

 

 

 

 

 夜明け前、まだまだ暗い時間帯に西の天の低いところに明るく丸い月を見つけたので、改めて暦を確認したら明日が望であった。  

 

 Web利用に次第に慣れて来た頃、普段では見えない様なものが見えると思って居たものだったが、この最近、様々な出来事を知るにつけ、Webがそう言う媒体だと言う訳では無く、社会そのものが変化の時代に入り、それまで続いて来たものの中で廃れるべきものが廃れていき、新たに生じるべきものが生じつつあるのだと認識が変わって来た。  

 

 実際、この地に来て以来、Webではないと言う意味での現実の社会でも、そしてWeb参加以来はそこに於いても、私に色々と為したり言ったりする人々が、後にその趣旨が間違って居た事を自ら明らかにする事が何度も起き、出は何の為に私に対して為したり言ったりしたのか、寧ろその人々自身の誤っている点を自ら明らかにする為なのかと思っていたのだが、もう少し引いた所から考えると、個別の人の誤謬と言う意味合いではなく、社会に於いてそこに適応した人々が、それまで通りの基準を私に当て嵌めて、批判をしたものの、既に社会そのものが変化して来て、その基準自体が陳腐化していた事を、そう言った人々の言動を通して私の目の前に明らかにして居たのだと思う様になったのだ。  

 

 そして、今後も、“まさか”と言う事が起きて行くのだろう。正に変化の時代である。

 

 

 

 

 

 

 何気なく、偶々SNS上の投稿で目に留まった初等幾何の問題で、頭の中だけで考えても解らないものがあったので、実際に計算する事にして、それを何時もなら紙を出してボールペンで書いていくのを、紙を出すのが面倒なので、一度、全部PC上でやってみようと思い、まず数式をWord上でTEXを使わずに書いて行った。しかし、これでは図形無しで記号だらけなので何の事か解らないと思い、図をWindowsアプリのペイントで描いてみた。図形を描く内に、やっぱりマウスでは一気に幼稚園児位の作画能力しか発揮出来なくなり、文字も左手で書いたかの様な素晴らしい出来栄えとなってしまった。故に、ペンタブとスタイラスが必要であると、改めて思ったのだった。  

 

 翻って考えると、やはり紙と鉛筆やボールペンと言う組み合わせは、かなりの高機能であり、柔軟性、汎用性があると言う事になる。不便になって初めてそれまで何気なく使っていた物が極めて高性能である事を知ったと言える。

 

 

 

 

 

 

 新たな年が明けて9日目となった。敢えて書く事など無いのだが、ブログとは何かを探ると言う目的で、ここでブログを書く様になってから気付いた、‘何も書く事など無くとも、書いていく内に書きたい事が出て来る。’と言う事を思い起こし、取り敢えず書く事にした。

 

 ただ、長い間続けていると、どの人、どの団体が、どう言ったものなのかが或る程度見えて来て、”ああ、成程。要は、社会と言う大きな池にブログと言う小石を投げる度に、水面に波紋が出来て居るんだな。“と思う様になった。水の粘性、組成と言ったものも関係するだろうが、或いはどう言った小石を、どういう具合に投げるかによって、己の望みの波紋を作る事も可能だと言う事だ。ただ、私は今の所その様な工夫をして居ない。  

 

 私の目が良く見える様になって来たのか、それとも世の中がその様になって来たのかは解らないが、見たくないもの、見えてはならないものが目に入るようになった来た気がする。今年も情け容赦なく、始まった時からよく目に付く。しかし、そう言った泥沼にこそ蓮は咲くのだった。自暴自棄になって己も泥になるのではなく、そこに蓮として花を咲かせる志を持とう。そして、言葉は行う事に依って実を持つ様になる。勇ましかろうが、清らかであろうが、言葉だけでは空虚であり、虚妄であるとすら言える。邪悪を退け、正義を顕彰しよう。