輸入に頼る商品がとても高くなってる。コーヒーが25年ぐらい前の円高以前の値段に戻り、高級品になってしまっただけでなく、板チョコが100gで100円ほどだったものが、今や50gで200円ほどだ。  

 

 そのせいかどうか知らないが、円高の頃、輸出で儲けていたであろう大企業が、円高では困るみたいな事を言って居た様に思う。その頃と比べて5割ぐらい円安になった今は、どう思ってるだろうか?儲かって仕方ないだろうか、それとも円安になったもののそれほど儲かっていないだろうか?  

 

 個人の視野や影響を及ぼせる範囲は狭く小さいが、団体や企業、政治権力等はその視野、影響範囲は広く大きい。本来、大きいものは自らの行動に対してのみに限らず、小さいものを守り助ける義務があると思うのだが、日本の場合はそうではないのかもしれない。小さいものに支えられて大きいものが存在出来ていると思うのだが、そこもあまり考慮されておらず、無条件に小さいものが大きいものを支えなければならない義務を有すと思い込んでいる節すらある。そうだとすると、危うい考え方をしていると言える。

 

 

 

 

 

 

 よく考えたら、現在更新中のブログ記事のタグは、”日記”だった。あまりに考え過ぎていたかもしれない。私程度の人間が内容のある事を書こうと思う圍事自体が間違っていた。

 

 今朝もまだ蟬が鳴いている。日差しのきつさもあり、全く9月中旬とは思えない様相だ。

 

 ともあれ、当初心に思った、”書いて居る内に、方向性が決まる。”と信じ、また一つづつ石を積んでいく積りで更新していこう。

 

 

 

 

 

 

 9月下旬が近くなっていると言うのに、暑い日々が続いている。この間は、秋の虫と蟬の声が同時に聞こえると言う、なんとも言えない事もあった。  

 

 私だけにそう思えるのかもしれないが、今は安定ではなく変化の時代で、誰でも、そしてどの様な社会でも、どういった運命が待ち受けているか判らないのではないか。考え方を変えると、誰にでも機会があり、他人から一発逆転と言われる様な事も成し得る様に思う。故に、どの様な状況にあろうと、安定の時代なら無理、不可能と人々や社会に依って決められて、実際その通りになってしまう様な事も、変化の時代なので可能なのではないかと思う様になった。  

 

 こうやって推敲して居る内に、Web上で見て居る人達から不可能と思われていた節のある事を、私自身、2、3回為したのを思い出した。何故出来たのかは、私には解らない。ただ、人々や社会に依って無理、不可能とされて居る事であっても、全くその通りに無理で不可能な訳ではないと言う事は、実体験で解った。  

 

 故に、まず一歩を踏み出す事が重要だ。よく例に挙げる鄭国渠を造営する積りで、損害を厭わず歩み続ければ、方向さえ正しかったら得るものは大きい。私の見立てが正しければ、時代がそういった生き方を後押ししてくれるだろう。  

 

 夜が明けて居なかったのが、今は朝の太陽光を反射する樹の緑が眩しい。暦では秋でも、体感的には夏のままだ。人の社会だけでなく、気候ですら変化の時代に入っていると言える。小さな一歩が大きな結果に結びつく時代の最中にある。 

 

 今朝は久しぶりに、影山ヒロノブ氏の”HEATS"を聞いている。暑いからだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな問題を一つづつ解決していく事で、結果的に大きな問題を解決してしまえる。それは、遠くの場所へ一歩づつ歩いて行く内に、数時間、或いはもっと長い時間の後に到着しているのと似ている。故に、自らの一つづつの小さな行為を自ら嘲笑したり、嘆いたりすべきではない。それらを評価する必要はなく、ただ無心に解決していく方が良く、方向性さえ間違っていなければ目的は果たせるものだ。そういう事を、昨日、些細な事をした結果、思うようになった。  

 

 使い辛くなったり、使えなくなった道具を直して使える様にする内に、その道具が正常に使える間には知る事が出来なかった性質を知る事が出来たりするのだが、あまり動作が悪くなって来る様だと、やはり代替する道具を手に入れるべきだ。これも当たり前の事なのだが、実際に経験すると、まるでそれが初めての事であるかの様に、その事を知覚する。これも、理解して居る積りと、理解との本質的な違いなのかもしれない。  

 

 8月になって、まだ1回も更新してなかったので、本来なら、”何も書く事はない。”位書けば中々高尚なのだろうが、これは既に他の人が使った事のある手なので、使えない手だ。何も知らないふりをして同じ事をしても良いのだが、解る人には解ってしまうので、非常に陳腐な時間の無駄になる。ただ、それも究極まで突き詰めれば、噂に聞くトリストラムシャンディ程度にはなると思うが、私には文才がないので、ここで止める。

 

 

 

 

 

 

 

 気が付けば今週ももう金曜日になっていた。何事も一気に前に進めるのは難しいのかもしれない。心を切り替えて一からまたやっていくしかない。  

 

 昨日は、それほど疲れたという自覚は無かったものの、何もする気にならず、唯々漫然と音楽を聴いていた。まるで滝に打たれているかのように、受動的に音で鼓膜を振動させていたと言える。しばらく聞いている内に、その歌の来歴を調べ、そういう問題意識を全面的に表現して歌う人々を日本では見ないとか、やはりそこには他人に認められる程の高い能力が無いと不可能なのかとか、単に社会的出自が可能にしたのかとか、漠然と思いを巡らせていた。    

 

 35年前の破滅の日から1年間ほどの空白があり、そこから立ち直る為に選んだのが、ごく身近にあって、目的が人々への情報の拡散なのでそれほど難解な表現をしていない新聞の記事を、メモを録りながら読むという方法だった。私としては、大学4年生の頃から物理関係の本を開いた途端に心の底から怒りが込み上げて来る状態だったので、破滅もした事だし、底辺から立ち上がっていくには、見たり知ったりした人が嘲笑する程の基本からやるのが丁度良いと思い、そうしたのだった。私としては、そこから初めて徐々に小説や歴史の本と読む対象を広げていった過程が、臥薪嘗胆を行っていたのだと思っている。  

 

 そういった、無駄とも思える年月を過ごして来て思うのは、無意味とか無駄とその時の理解力、知性で判断出来る対象は、真に無意味や無駄なものとは限らないと言う事だ。自らの知性に限界がある事を考慮すべきなのだ。  

 

 そして、先週から行うようになった、誰もが嘲笑し、軽蔑する程の基本的な活動を、あまりに久しぶりに行ったからか、今週はほぼ行わなかった。そして、昨夜はそれほど消耗した訳でも無いのに唯々音楽を聴いていた。単に疲労を自覚出来なくなっているのかもしれないが、それよりも、休みが長くなったものの、また行うべきだし、今の私には行う意思がある。  

 

 今朝は蟬が盛んに鳴き、私が思い描いている通りの、私のこれまでの年月で刷り込まれた夏が現実になっている。子供の頃の、公害で満ち、空気を吸っても爽快感が無く、騒音がひどい、と言うのとは全く違う世界になっているのも有難い。公害があったとしても、仕事があるのが良いという考え方の人々もいるだろうが、それはその人々にとってはそうなのかもしれない。  

 

 これからも事情を知らぬ人々が気安く侮辱してきたり、嘲笑してきたり、それでも人かと言う事をしてきたりするだろうが、私は基本的な事を意識して行っているのだと自覚して、倦まず弛まず行っていくしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日前に、シオカラトンボなのかギンヤンマか或いは他の種類かどうかわからないものの、今年初めてトンボを目にし、更にその直後、やはりこれも今年初めて蟬の声を耳にした。その翌朝、蟬の声を再び耳にした事で、漸く夏が来たと実感出来た。そして、昨日は今年初めてアゲハチョウを目にした。植物の緑の中にアゲハチョウの色が映えていた。田には多くの蛙が盛んに鳴いていた。  

 

 そう言えば、ちらほらとミミズが地面で死んでいるのを目にするようにもなった。暑くなって土中から出てきたのだろうか。これも無知故によく解らない。  

 

 必要に迫られて、直近3年間に構築したフォルダ構造を再構築し続けて居る訳だが、それと同時に、消失以前に気づけなかった誤りも訂正していってるところだ。そしてその過程で、10年ぐらい前に気づいていた、Wordにハイパーリンクを張れる事も、それに依ってファイルが重くなるものの、今後は活用しようかと思った。そして、Excelにもハイパーリンクが張れるかどうか確認し、出来ると判ったので、今後は必要に応じてリンクを張る事にした。それもこれも、私が忘れっぽくて、やろうとして居る事を忘れてしまう事への対策である。  

 

 色々と劣化して不具合を生じて来た物も、少しづつ直したり、新たなものに換えたりしていってる。全く死んだ様に何もして来なかった、日々を只生きているだけだったのが、少しづつ変わって来た様に思う。その友は、身近ではバレーボールではなく、猫や虫、蛙と言う事になる。

 

 

 

 

 

 

 7月になった。6月になった時にブログを更新しなかったので、そういうことにならないよう、今朝は書く。  

 

 確かに、PCが半壊状態で、起動・再起動毎にマイクロソフトアカウントのサインインに問題が生じたり、必要なアプリをダウンロードし直したり、IMEの登録言語を入れ直したり、諸設定をし直したりと、いろいろと面倒で、先月末のWindowsの更新後は4時間ぐらい掛けて基本的な作業を行った。これが原因で6月になった時にブログの更新をしなかったと言える。  

 

 そう言えば、まだ蟬の声がない、不思議な静けさの朝が続いている。夏の暑さと相俟って、蟬の大きな鳴き声があって初めて夏という感じがするのだが、まだ時期が早いのか、それとも今年は鳴かなくても良い年なのか。いずれ判るだろう。  

 

 また、相変わらずその時に偶然目に入ったものに触発されるという、極めて効率の悪いことを続けている。砂漠に偶然水滴を求めるような生き方は正しいとは言えない。しかし、冒険とはそういうものなのだろう。

 

 

 

 

 

 ブログの原稿を遡って見てみた結果、この4月にPCが半壊し、よせば好いのにドキュメント、ピクチャー、等の親フォルダーをピン止めした結果、直近3年間分ぐらいのファイルが全て消えてしまったのが判った。そのせいで、その間少しづつ更新していったコンテンツの分類表とそれに対応させたエクスプローラ内のフォルダー構造を徐々に訂正しつつあるのだが、何時にPCが壊れたかを忘れてしまうとは、あまりに日々を生き過ぎている感がある。  

 

 ともあれ、中身の有無を考えず、書いて居る内に意味や目的が出て来るであろうと思い、日々に更新しようと決めてから月日が経ったが、漸く軌道に乗って来た様に思う。但し、相変わらず意味も目的も出て来ない混沌が続いているが。  

 

 混沌と言えば、私から見る世の中も混沌としている箇所が幾つかあり、それほど短いとは思えないこれまでの人生であまり見た事がないものを幾つも見せられている様に感じている。だが、いずれ全ての事は帳尻が合うようになっていくのだろう。  

 

 ところで、PCの動きが急に重くなり3時間ぐらい何も出来なくなったので、その状態から正常になった直後に再起動したら、ロック画面が表示されるようになっていた。但し、マイクロソフトアカウントへのサインインはうまくいっておらず入りなおさなければならなかった。そして、その後、起動・再起動後に行わなければならなくなった一連の行為をやり、何とかVivaldiが使えるところまで来て、一連の作業に1時間30分掛ったことを知った。最初の頃は3時間は掛かったので、まだ途中とは言え、早くなったと思う。そして、ロック画面が復帰した事から、まだ希望はあると思えて来た。タスクバー消失の時も1年ぐらい掛かったので、今回もそれぐらい掛かるかもしれないが、新PCが手に入るまでは大事に使っていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 昨夜はブログにコメントをしようとしてページを開いて準備をしたところで猛烈な眠気に襲われ、仮眠の積りで横になったら、また眠ってしまい、目が覚めたら3時だった。夢で人の大きな音声を聞いていたので、もしかしたら雷が鳴っていたのかもしれない。ただただ雨が降り続けていた。  

 

 目が覚めてから、取り敢えず眠気を飛ばそうと思いコーヒーを淹れた。と言ってもインスタントコーヒーだが。そして、SNSを眺めていたら、色々と問題が生じているのが判り、忙しいなと思いつつ、同時並行でコンテンツ分類表の訂正と、それに対応したエクスプローラ内のフォルダー構造の訂正を行った。結果、分類表では既に正しくしたものの、フォルダー構造は3年前の儘になっていた箇所を発見し、手直しに1時間以上を要した。何せ、分類表はまだまだ直すべき箇所や改めねばならない箇所があるもののWordで168ページに達し、作り始めた最初は10進分類で4桁だったのが、今は10進分類6桁及びアルファベット26進分類3桁となっている。  

 

 そして、つくづく、愚行や愚問は新たな知識を得る為、自分にとって意義のある行動をする為の良い契機になり得る事を思った。思うだけでなく、実際に行ったり、発話したりするのが良いかもしれない。沈黙や要らぬ行動をしないのは、賢明に見られるし、そう判断されるだろうが、自分自身を何も変えられない、無益な時間の過ごし方だと思う。故に、人生の時間が無限であれば、唯々黙り、何もしないのが良いのだろう。

 

 

 

 

 

 

 数か月前にPCが壊れ、強制的に自動でマイクロソフトに報告し再起動すると言う過程を経て再び使える様になった時から、起動・再起動毎にマイクロソフトアカウントへのサインインを求められたり、マイクロソフトIMEへの登録語彙を再び最初からやり直したり、幾つかのブラウザやアプリをインストールし直したり、マイクロソフトストアアプリのかなりのものが使えなくなったりと、PCの使用で大変に苦労するようになった。しかも、最初の頃にエクスプローラ内の既存の親フォルダーを全てピン止めしたところ、その次に再起動した後にそれらに収納していたフォルダーが全て消え、直近3年間ほどのファイルが全消滅した。インターネットを利用するPCを使う様になって、ここまで深刻なファイルの消滅を味わったのは、使用初期の頃の数度以来、久しぶりだ。  

 

 そして、メモ帳のアプリも使えなかったものの、メモ帳のファイルを右クリックを使って開こうとすると、一旦エラーメッセージが出てから、それを消去すると古い方のメモ帳アプリが立ち上がり、何とか使えることが判った。  

 

 この最近は、自ら作ったコンテンツ分類表の誤りを正したり、その訂正なった分類表を元に、エクスプローラー内に入れ直した3年以上前のフォルダー分類構造を訂正していってるところだ。ただ、その過程で、OneDrive上に保存して居た筈の、OneNote以外のファイルや幾つかのフォルダーが消失していた。こう言った事から、この辺りのあれこれの仕様も、もしかしたらマイクロソフトよりもGoogleの方が良いのかもしれないと思った。  

 

 ともあれ、今使える物を大事に使いつつ、新たな物を出来るだけ早く手に入れねばなるまい。