気が付けば今週ももう金曜日になっていた。何事も一気に前に進めるのは難しいのかもしれない。心を切り替えて一からまたやっていくしかない。
昨日は、それほど疲れたという自覚は無かったものの、何もする気にならず、唯々漫然と音楽を聴いていた。まるで滝に打たれているかのように、受動的に音で鼓膜を振動させていたと言える。しばらく聞いている内に、その歌の来歴を調べ、そういう問題意識を全面的に表現して歌う人々を日本では見ないとか、やはりそこには他人に認められる程の高い能力が無いと不可能なのかとか、単に社会的出自が可能にしたのかとか、漠然と思いを巡らせていた。
35年前の破滅の日から1年間ほどの空白があり、そこから立ち直る為に選んだのが、ごく身近にあって、目的が人々への情報の拡散なのでそれほど難解な表現をしていない新聞の記事を、メモを録りながら読むという方法だった。私としては、大学4年生の頃から物理関係の本を開いた途端に心の底から怒りが込み上げて来る状態だったので、破滅もした事だし、底辺から立ち上がっていくには、見たり知ったりした人が嘲笑する程の基本からやるのが丁度良いと思い、そうしたのだった。私としては、そこから初めて徐々に小説や歴史の本と読む対象を広げていった過程が、臥薪嘗胆を行っていたのだと思っている。
そういった、無駄とも思える年月を過ごして来て思うのは、無意味とか無駄とその時の理解力、知性で判断出来る対象は、真に無意味や無駄なものとは限らないと言う事だ。自らの知性に限界がある事を考慮すべきなのだ。
そして、先週から行うようになった、誰もが嘲笑し、軽蔑する程の基本的な活動を、あまりに久しぶりに行ったからか、今週はほぼ行わなかった。そして、昨夜はそれほど消耗した訳でも無いのに唯々音楽を聴いていた。単に疲労を自覚出来なくなっているのかもしれないが、それよりも、休みが長くなったものの、また行うべきだし、今の私には行う意思がある。
今朝は蟬が盛んに鳴き、私が思い描いている通りの、私のこれまでの年月で刷り込まれた夏が現実になっている。子供の頃の、公害で満ち、空気を吸っても爽快感が無く、騒音がひどい、と言うのとは全く違う世界になっているのも有難い。公害があったとしても、仕事があるのが良いという考え方の人々もいるだろうが、それはその人々にとってはそうなのかもしれない。
これからも事情を知らぬ人々が気安く侮辱してきたり、嘲笑してきたり、それでも人かと言う事をしてきたりするだろうが、私は基本的な事を意識して行っているのだと自覚して、倦まず弛まず行っていくしかない。