Windows月例更新が済ませて、その後の諸設定を行った。家庭の雑事を行いながらだったので、どれほど時間を要したかわからなかったが、気が付けば遅めの夕食を摂り、その後眠ってしまい、深夜に目覚めてしばらくして入浴という、誠に不規則極まりない生活となった。   

 

 しかし、精神が妙に治まった感じになり、知らなかった事や曖昧だった事が明白になったのだから、寧ろこれで良かったのだと、思える様になった。  

 

 安物を買って出費を抑えようとしたら、まるで役に立たなくて、ああ、安物買いの銭失いになってしまったなと思いつつも、安物を買うのは一種投機の様な物なのだと改めて認識し直し、確実に役立つ物が必要な時は、安物は買わないようにするという教訓を得た。 

 

 長く出来て無かった事を順次していき、休眠化して居たものを再活性化していかねばならない。出来る事からしていかねばならない。  

 

 また、必要だと思い生活に取り入れた悪習慣を、どうも排除する事に成功した様だ。実際、或る時期までは必要だったのかもしれないが、どこから不要だったか、鳥れなかった場合どうなっていたかを知る事が出来ないので、理屈はどう排除する事が出来て良かった。まだ油断は出来ないが、今後は意図的に排除する。  

 

 今朝は曇っている。

 

 

 

 

 ここ数日、色々と立て込んで大変だった。そして、今後もそれが続くか、もっと大変になる可能性もある。自らの能力と運を以て対するしか方法はないので、そうする。  

 

 また、そういった状態だったので、とても精神が疲弊し、普段行って居る事が幾つか遅延した。  

 

 食品を含め、様々な物の価格が上がっている。上手く乗り切れると信じて、日々を生きていくしかない。  

 

 また、社会には恰も魑魅魍魎が活動していて人々がそれに影響されているかの如くに感じられるようになった。もともとそうだったのに私が気付かなかっただけなのか、この10年位でそうなったのか、その辺の事はわからないが、破邪顕正の気持ちで相対するしかない。  

 

 そして、今朝もどの家庭でも行って居る様に、日常の些細な課題を一つ解決した。神が究極的正義であり、善である事を信じ、可能であると信じて今日も努めよう。

 

 

 

 

 

 

 

  ”哲学”と言う文字列を目にして、‘そういえばヨーロッパで流行した神秘思想で、かなり影響力を持っていたものは何という名前だっけ’、と思い、Googleで幾つかのクエリを立てて検索する内に、それが“カバラ(Kabbalah)”である事を思い出した。この、カバラと言う語彙を認識したのは、未だ通読していない、ウンベルト・エーコの“フーコーの振り子”(原書はイタリア語)で出て来たからだ。そしてなんとはなく気になって居たので、何年か前に”カバラ“と言う語彙をWebで検索して、概要ですらそれほど簡単に知る事は叶いそうにないと知ったのだった。  

 また、こういう、或る種とりとめのない話題について、よく知らないが故に、たまに調べる時があり、名前すら忘れていたので、改めて数年前に調べたこれ(カバラ)やその他の幾つかの項目について調べてみた。そこで、“グノーシス主義(Gnosticism)”、“ヘルメス主義(Hermeticism)”、”神智学(thosophy)”、”ゴエティア(Goetia)“等の名を思い出し、調べる内に、ヘルメス主義とキリスト教が似ているとか、グノーシス主義には仏教の影響の可能性があると言う事も知り、恰も物体の表ではなく裏を見た気がしたのだった。  

 

 これらは実際、哲学と言うよりは宗教であったり、神秘思想であったりする訳だが、実証主義からすると検証可能とは言えないであろう部分、例えば宇宙の創造と言うからには、この宇宙の外部に世界があるのかとか、それを創造した神が居て、それが悪であると言われても、物質や宇宙の創造に善悪もないだろうと思うのだが、ともかく、とりとめがなくよく解らないものだ。  

 

 あまり他所見や寄り道をしない方が良いのだろうし、効率の良い人生を送れるのだろうが、私は今更ながら寄り道しかしていない気もする。ただ、それは何等かの学問を学び始めた時に幾つかの試行錯誤や基礎訓練をすると思うのだが、その過程と似てなくもない。誰にとっても人生の時間はそれほど長くはないので、私の試行錯誤では無駄が多過ぎて良くないと言うだけの話だ。そして更に面倒なのが、チャット型人工知能を使うと、AIの誤答を正しいと誤解して信じてしまったり、AIを使う事で、本来なら試行錯誤を経ながら習得しないといけないところを短絡してしまう結果、無駄なことをしなかった分、基礎的な分野の経験が足りなかったりすると言う事なのだが、今回のブログ記事を推敲するに際して、私はGeminiを使った。その理由は、”ゴエティア“と言う書物にカバラの影響があるのかどうかについて知りたかったからで、英語でその旨作文して、それをGoogleで検索に掛けても良かったのだが、チャット型人工知能だと日本語での応答が出来るのでやり取りを速く出来ると思ってそうしたのだった。また、的確なクエリを立てられず、漠然とした事について調べたい時は、そこに誤りが生じる可能性があっても、チャット型人工知能をよく使う。言わば、知識があっても理解をしていない人に問うようなもので、疑念が生じたら必ず自分で裏を取らねばならないが、最初に行う近似としては有効だと思うからだ。  

 

 ともあれ、それらの語彙についてブログに書いておけばそれらの名前を忘れた時に思い出す縁となると思い、記事にした。  

 

 そう言えば、最近また生き物の命を救った。偶然そうする事になったのだが、この地に来てから、それまでに無かった事が幾つか起きる様になったとは思う。

 

 

 

 

 

 

 

 窓を通して見える朝の光の明るさから、今朝は曇っているのかと思ったが、それだけで決めてしまう様では実証性がないので、窓を開けて確認したら、晴れていた。  

 

 孫子の軍爭第七に、 

 

 故其疾如風,其徐如林,侵掠如火,不勭如山。 

 

とあるように、その都度的確な判断をし、それに基づいた行動を執りたい。  

 

 持続的継続的に、仮令中断があったとして止めてしまわずに事を行いつつ、新たな事にも挑戦し続けたい。何か妙に納まってもうこれでいい、これで満足だみたいなのではなく、何時まで経っても落ち着きのない奴だ位で居たい。  

 

 文章を推敲していく思考形式になるには、或る程度文章を書こうとしてから時間を要する様になったかもしれない。取り組む物事が違うと、頭の使い方を変えねばならないのだろう。随分昔、大学生から卒業後数年間までは、読書する時に、理系の本と文系の本との間を切り替えるのに少々時間が掛かったものだが、それを思い出した。全く我ながら何時まで経っても堅い頭だと思う。 

 

 ブログの記事を書き終わって聴く音楽は、これにした。 

 

Judas Priest - Firepower  

 

火と言うと、赤壁の周瑜だろうか、或いは夷陵の陸遜だろうか。

 

 

 

 

 

 昨日、今日と天気が好い。秋晴れという奴だろうか。夏から冬に変わっていく時期なので、気候は安定しない筈なのだが。  

 

 そう言えば、私がWebに参加して以来の15年間で、随分と時代が変わり、日本に関してはまず東日本大震災、次にCOVID-19の発生と流行で、それ以前とは全く違う時代になったと理解している。人の営みなどたかが知れていて、やはり自然の力には敵わないという意味なのだろうと思っている。  

 

 それ故、古くて時代遅れになってしまったものが廃れ、時代に合ったものが隆盛を誇るようになる。人で言うと年齢の高低に関わらず、時代的古さを持っている人々が周縁に追いやられ、時代に合った人々が中心に存在するようになる。  

 

 また、文明の中心が移動するような気がしてならないが、それは必ずしも今勢いがある所へ行くとは限らず、寧ろ、停滞していたり、ぐずぐずと発展性のない様に見える事を延々と繰り返している所に行くかもしれない。先のことは解らないので、それぞれの人は、自分に出来ることを他人の耳目が集まっていようが集まっていまいが、地道に着実にこなして行くのが良いのだろう。後のことは自然に定まる。私は信仰をしているので、その文脈で言うなら、人は完璧を目指し行うのみで、全てのことは神が既に予め決めているとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 輸入に頼る商品がとても高くなってる。コーヒーが25年ぐらい前の円高以前の値段に戻り、高級品になってしまっただけでなく、板チョコが100gで100円ほどだったものが、今や50gで200円ほどだ。  

 

 そのせいかどうか知らないが、円高の頃、輸出で儲けていたであろう大企業が、円高では困るみたいな事を言って居た様に思う。その頃と比べて5割ぐらい円安になった今は、どう思ってるだろうか?儲かって仕方ないだろうか、それとも円安になったもののそれほど儲かっていないだろうか?  

 

 個人の視野や影響を及ぼせる範囲は狭く小さいが、団体や企業、政治権力等はその視野、影響範囲は広く大きい。本来、大きいものは自らの行動に対してのみに限らず、小さいものを守り助ける義務があると思うのだが、日本の場合はそうではないのかもしれない。小さいものに支えられて大きいものが存在出来ていると思うのだが、そこもあまり考慮されておらず、無条件に小さいものが大きいものを支えなければならない義務を有すと思い込んでいる節すらある。そうだとすると、危うい考え方をしていると言える。

 

 

 

 

 

 

 よく考えたら、現在更新中のブログ記事のタグは、”日記”だった。あまりに考え過ぎていたかもしれない。私程度の人間が内容のある事を書こうと思う圍事自体が間違っていた。

 

 今朝もまだ蟬が鳴いている。日差しのきつさもあり、全く9月中旬とは思えない様相だ。

 

 ともあれ、当初心に思った、”書いて居る内に、方向性が決まる。”と信じ、また一つづつ石を積んでいく積りで更新していこう。

 

 

 

 

 

 

 9月下旬が近くなっていると言うのに、暑い日々が続いている。この間は、秋の虫と蟬の声が同時に聞こえると言う、なんとも言えない事もあった。  

 

 私だけにそう思えるのかもしれないが、今は安定ではなく変化の時代で、誰でも、そしてどの様な社会でも、どういった運命が待ち受けているか判らないのではないか。考え方を変えると、誰にでも機会があり、他人から一発逆転と言われる様な事も成し得る様に思う。故に、どの様な状況にあろうと、安定の時代なら無理、不可能と人々や社会に依って決められて、実際その通りになってしまう様な事も、変化の時代なので可能なのではないかと思う様になった。  

 

 こうやって推敲して居る内に、Web上で見て居る人達から不可能と思われていた節のある事を、私自身、2、3回為したのを思い出した。何故出来たのかは、私には解らない。ただ、人々や社会に依って無理、不可能とされて居る事であっても、全くその通りに無理で不可能な訳ではないと言う事は、実体験で解った。  

 

 故に、まず一歩を踏み出す事が重要だ。よく例に挙げる鄭国渠を造営する積りで、損害を厭わず歩み続ければ、方向さえ正しかったら得るものは大きい。私の見立てが正しければ、時代がそういった生き方を後押ししてくれるだろう。  

 

 夜が明けて居なかったのが、今は朝の太陽光を反射する樹の緑が眩しい。暦では秋でも、体感的には夏のままだ。人の社会だけでなく、気候ですら変化の時代に入っていると言える。小さな一歩が大きな結果に結びつく時代の最中にある。 

 

 今朝は久しぶりに、影山ヒロノブ氏の”HEATS"を聞いている。暑いからだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな問題を一つづつ解決していく事で、結果的に大きな問題を解決してしまえる。それは、遠くの場所へ一歩づつ歩いて行く内に、数時間、或いはもっと長い時間の後に到着しているのと似ている。故に、自らの一つづつの小さな行為を自ら嘲笑したり、嘆いたりすべきではない。それらを評価する必要はなく、ただ無心に解決していく方が良く、方向性さえ間違っていなければ目的は果たせるものだ。そういう事を、昨日、些細な事をした結果、思うようになった。  

 

 使い辛くなったり、使えなくなった道具を直して使える様にする内に、その道具が正常に使える間には知る事が出来なかった性質を知る事が出来たりするのだが、あまり動作が悪くなって来る様だと、やはり代替する道具を手に入れるべきだ。これも当たり前の事なのだが、実際に経験すると、まるでそれが初めての事であるかの様に、その事を知覚する。これも、理解して居る積りと、理解との本質的な違いなのかもしれない。  

 

 8月になって、まだ1回も更新してなかったので、本来なら、”何も書く事はない。”位書けば中々高尚なのだろうが、これは既に他の人が使った事のある手なので、使えない手だ。何も知らないふりをして同じ事をしても良いのだが、解る人には解ってしまうので、非常に陳腐な時間の無駄になる。ただ、それも究極まで突き詰めれば、噂に聞くトリストラムシャンディ程度にはなると思うが、私には文才がないので、ここで止める。

 

 

 

 

 

 

 

 気が付けば今週ももう金曜日になっていた。何事も一気に前に進めるのは難しいのかもしれない。心を切り替えて一からまたやっていくしかない。  

 

 昨日は、それほど疲れたという自覚は無かったものの、何もする気にならず、唯々漫然と音楽を聴いていた。まるで滝に打たれているかのように、受動的に音で鼓膜を振動させていたと言える。しばらく聞いている内に、その歌の来歴を調べ、そういう問題意識を全面的に表現して歌う人々を日本では見ないとか、やはりそこには他人に認められる程の高い能力が無いと不可能なのかとか、単に社会的出自が可能にしたのかとか、漠然と思いを巡らせていた。    

 

 35年前の破滅の日から1年間ほどの空白があり、そこから立ち直る為に選んだのが、ごく身近にあって、目的が人々への情報の拡散なのでそれほど難解な表現をしていない新聞の記事を、メモを録りながら読むという方法だった。私としては、大学4年生の頃から物理関係の本を開いた途端に心の底から怒りが込み上げて来る状態だったので、破滅もした事だし、底辺から立ち上がっていくには、見たり知ったりした人が嘲笑する程の基本からやるのが丁度良いと思い、そうしたのだった。私としては、そこから初めて徐々に小説や歴史の本と読む対象を広げていった過程が、臥薪嘗胆を行っていたのだと思っている。  

 

 そういった、無駄とも思える年月を過ごして来て思うのは、無意味とか無駄とその時の理解力、知性で判断出来る対象は、真に無意味や無駄なものとは限らないと言う事だ。自らの知性に限界がある事を考慮すべきなのだ。  

 

 そして、先週から行うようになった、誰もが嘲笑し、軽蔑する程の基本的な活動を、あまりに久しぶりに行ったからか、今週はほぼ行わなかった。そして、昨夜はそれほど消耗した訳でも無いのに唯々音楽を聴いていた。単に疲労を自覚出来なくなっているのかもしれないが、それよりも、休みが長くなったものの、また行うべきだし、今の私には行う意思がある。  

 

 今朝は蟬が盛んに鳴き、私が思い描いている通りの、私のこれまでの年月で刷り込まれた夏が現実になっている。子供の頃の、公害で満ち、空気を吸っても爽快感が無く、騒音がひどい、と言うのとは全く違う世界になっているのも有難い。公害があったとしても、仕事があるのが良いという考え方の人々もいるだろうが、それはその人々にとってはそうなのかもしれない。  

 

 これからも事情を知らぬ人々が気安く侮辱してきたり、嘲笑してきたり、それでも人かと言う事をしてきたりするだろうが、私は基本的な事を意識して行っているのだと自覚して、倦まず弛まず行っていくしかない。