6時前には暗かったのが、この時間にはもう明るくなっている。6時20分頃に下弦が南中しているように見えたが、30分ぐらいが正確な時刻かと思い、確認してみたら、南中時刻は6時3分とあった。相変わらずこの地での正確な方角が解ってない。
そう言えば2月になっていた。早いものだ。明日は建国記念の日となっている。
6時前には暗かったのが、この時間にはもう明るくなっている。6時20分頃に下弦が南中しているように見えたが、30分ぐらいが正確な時刻かと思い、確認してみたら、南中時刻は6時3分とあった。相変わらずこの地での正確な方角が解ってない。
そう言えば2月になっていた。早いものだ。明日は建国記念の日となっている。
気が付けば小正月も終わって言るが、これが今年最初のブログ更新となる。
小正月と言えば、昨日の夕方、色々あって久しぶりに神社に初詣に行こうとしたところ、日中以外参拝禁止とあり、成程なと思い、今朝の夜明け後に行く事にした。
ところで、昨夜、使用しているブラウザのVivaldiのSnapshotがごく一部不調になり、理由がPCに依るのか何に依るのか判らぬまま、焦れて横になってしまったところ、眠ってしまった。目が覚めたら朝の5時ほどだった。
PCと言えば、現在使用中の半壊のラップトップでは、ウィンドウズ更新後の再起動や、シャットダウンからの新規起動、或いは使用中からの再起動で、常に工場出荷時の如くになり、ほぼ全ての場合でマイクロソフトアカウントにサインインしなければならないとか、ウィンドウズの所設定を行い直したり、削除されてしまったブラウザなどのアプリを再ダウンロードし直したりといった作業をしなければならない。マイクロソフトIMEの登録語彙も再登録し、ウィンドウズに入れる言語キーボードも、日本語/英語以外は入れ直さないといけないし、Microsoft Storeは使えず、フォト、メディアプレイヤー、フィードバックHubと言ったWindows備え付け殆ど全てのアプリが使えない。だから、使える程度にするのに、起動/再起動後に数時間を掛けて設定し直す。ところが、新年明けて1月11日に更新があり、設定をし直したと思ったら1月14日にも更新があって、又もや更新をし直しつつあるところだ。お陰で、掛かる時間はそれほど変わらないものの、段々と設定の要領を覚えて来た様に思うし、色々と気づく点も出て来た気がする。
もう朝だ。曇っているようだ。
やはりこの冬は今の所あまり寒くはない様で、北陸では水温が十分に下がらずこの時期特有の魚が南下して来ないらしい。道理で過ごし易い筈だ。
過ごし易いと言っても、そこは冬なので、やはりそれなりに冷える。
色々と思うところはある。個人的なことなので、あまり世の中に影響があるとは思わないが、無理をせずまとまったらまた書こうと思う。
今年も12月となった。先月は色々とあった。己の持つ力の限りで、最善を尽くした。
妙な諦観を目にしたり、妥協で善しとするの知ったりする度に、そういう姿勢が多数派であると、このような状態に至るのだなと改めて思う。その程度と言えばその程度であり、そんなので本当に良いのかと言えば、全く然りとしか言えない。
しかし、私にしか見えていないのかもしれず、見えている事を以て何らかの義務があるのだろうと考える様にしている。そして何事にもその時があるのだろうし、どういう義務かはその時になると解るのだろうと思っている。
ともあれ、今年も乗り切り、来年も良い年にしよう。
Windows月例更新が済ませて、その後の諸設定を行った。家庭の雑事を行いながらだったので、どれほど時間を要したかわからなかったが、気が付けば遅めの夕食を摂り、その後眠ってしまい、深夜に目覚めてしばらくして入浴という、誠に不規則極まりない生活となった。
しかし、精神が妙に治まった感じになり、知らなかった事や曖昧だった事が明白になったのだから、寧ろこれで良かったのだと、思える様になった。
安物を買って出費を抑えようとしたら、まるで役に立たなくて、ああ、安物買いの銭失いになってしまったなと思いつつも、安物を買うのは一種投機の様な物なのだと改めて認識し直し、確実に役立つ物が必要な時は、安物は買わないようにするという教訓を得た。
長く出来て無かった事を順次していき、休眠化して居たものを再活性化していかねばならない。出来る事からしていかねばならない。
また、必要だと思い生活に取り入れた悪習慣を、どうも排除する事に成功した様だ。実際、或る時期までは必要だったのかもしれないが、どこから不要だったか、鳥れなかった場合どうなっていたかを知る事が出来ないので、理屈はどう排除する事が出来て良かった。まだ油断は出来ないが、今後は意図的に排除する。
今朝は曇っている。
ここ数日、色々と立て込んで大変だった。そして、今後もそれが続くか、もっと大変になる可能性もある。自らの能力と運を以て対するしか方法はないので、そうする。
また、そういった状態だったので、とても精神が疲弊し、普段行って居る事が幾つか遅延した。
食品を含め、様々な物の価格が上がっている。上手く乗り切れると信じて、日々を生きていくしかない。
また、社会には恰も魑魅魍魎が活動していて人々がそれに影響されているかの如くに感じられるようになった。もともとそうだったのに私が気付かなかっただけなのか、この10年位でそうなったのか、その辺の事はわからないが、破邪顕正の気持ちで相対するしかない。
そして、今朝もどの家庭でも行って居る様に、日常の些細な課題を一つ解決した。神が究極的正義であり、善である事を信じ、可能であると信じて今日も努めよう。
”哲学”と言う文字列を目にして、‘そういえばヨーロッパで流行した神秘思想で、かなり影響力を持っていたものは何という名前だっけ’、と思い、Googleで幾つかのクエリを立てて検索する内に、それが“カバラ(Kabbalah)”である事を思い出した。この、カバラと言う語彙を認識したのは、未だ通読していない、ウンベルト・エーコの“フーコーの振り子”(原書はイタリア語)で出て来たからだ。そしてなんとはなく気になって居たので、何年か前に”カバラ“と言う語彙をWebで検索して、概要ですらそれほど簡単に知る事は叶いそうにないと知ったのだった。
また、こういう、或る種とりとめのない話題について、よく知らないが故に、たまに調べる時があり、名前すら忘れていたので、改めて数年前に調べたこれ(カバラ)やその他の幾つかの項目について調べてみた。そこで、“グノーシス主義(Gnosticism)”、“ヘルメス主義(Hermeticism)”、”神智学(thosophy)”、”ゴエティア(Goetia)“等の名を思い出し、調べる内に、ヘルメス主義とキリスト教が似ているとか、グノーシス主義には仏教の影響の可能性があると言う事も知り、恰も物体の表ではなく裏を見た気がしたのだった。
これらは実際、哲学と言うよりは宗教であったり、神秘思想であったりする訳だが、実証主義からすると検証可能とは言えないであろう部分、例えば宇宙の創造と言うからには、この宇宙の外部に世界があるのかとか、それを創造した神が居て、それが悪であると言われても、物質や宇宙の創造に善悪もないだろうと思うのだが、ともかく、とりとめがなくよく解らないものだ。
あまり他所見や寄り道をしない方が良いのだろうし、効率の良い人生を送れるのだろうが、私は今更ながら寄り道しかしていない気もする。ただ、それは何等かの学問を学び始めた時に幾つかの試行錯誤や基礎訓練をすると思うのだが、その過程と似てなくもない。誰にとっても人生の時間はそれほど長くはないので、私の試行錯誤では無駄が多過ぎて良くないと言うだけの話だ。そして更に面倒なのが、チャット型人工知能を使うと、AIの誤答を正しいと誤解して信じてしまったり、AIを使う事で、本来なら試行錯誤を経ながら習得しないといけないところを短絡してしまう結果、無駄なことをしなかった分、基礎的な分野の経験が足りなかったりすると言う事なのだが、今回のブログ記事を推敲するに際して、私はGeminiを使った。その理由は、”ゴエティア“と言う書物にカバラの影響があるのかどうかについて知りたかったからで、英語でその旨作文して、それをGoogleで検索に掛けても良かったのだが、チャット型人工知能だと日本語での応答が出来るのでやり取りを速く出来ると思ってそうしたのだった。また、的確なクエリを立てられず、漠然とした事について調べたい時は、そこに誤りが生じる可能性があっても、チャット型人工知能をよく使う。言わば、知識があっても理解をしていない人に問うようなもので、疑念が生じたら必ず自分で裏を取らねばならないが、最初に行う近似としては有効だと思うからだ。
ともあれ、それらの語彙についてブログに書いておけばそれらの名前を忘れた時に思い出す縁となると思い、記事にした。
そう言えば、最近また生き物の命を救った。偶然そうする事になったのだが、この地に来てから、それまでに無かった事が幾つか起きる様になったとは思う。
窓を通して見える朝の光の明るさから、今朝は曇っているのかと思ったが、それだけで決めてしまう様では実証性がないので、窓を開けて確認したら、晴れていた。
孫子の軍爭第七に、
故其疾如風,其徐如林,侵掠如火,不勭如山。
とあるように、その都度的確な判断をし、それに基づいた行動を執りたい。
持続的継続的に、仮令中断があったとして止めてしまわずに事を行いつつ、新たな事にも挑戦し続けたい。何か妙に納まってもうこれでいい、これで満足だみたいなのではなく、何時まで経っても落ち着きのない奴だ位で居たい。
文章を推敲していく思考形式になるには、或る程度文章を書こうとしてから時間を要する様になったかもしれない。取り組む物事が違うと、頭の使い方を変えねばならないのだろう。随分昔、大学生から卒業後数年間までは、読書する時に、理系の本と文系の本との間を切り替えるのに少々時間が掛かったものだが、それを思い出した。全く我ながら何時まで経っても堅い頭だと思う。
ブログの記事を書き終わって聴く音楽は、これにした。
Judas Priest - Firepower
火と言うと、赤壁の周瑜だろうか、或いは夷陵の陸遜だろうか。
昨日、今日と天気が好い。秋晴れという奴だろうか。夏から冬に変わっていく時期なので、気候は安定しない筈なのだが。
そう言えば、私がWebに参加して以来の15年間で、随分と時代が変わり、日本に関してはまず東日本大震災、次にCOVID-19の発生と流行で、それ以前とは全く違う時代になったと理解している。人の営みなどたかが知れていて、やはり自然の力には敵わないという意味なのだろうと思っている。
それ故、古くて時代遅れになってしまったものが廃れ、時代に合ったものが隆盛を誇るようになる。人で言うと年齢の高低に関わらず、時代的古さを持っている人々が周縁に追いやられ、時代に合った人々が中心に存在するようになる。
また、文明の中心が移動するような気がしてならないが、それは必ずしも今勢いがある所へ行くとは限らず、寧ろ、停滞していたり、ぐずぐずと発展性のない様に見える事を延々と繰り返している所に行くかもしれない。先のことは解らないので、それぞれの人は、自分に出来ることを他人の耳目が集まっていようが集まっていまいが、地道に着実にこなして行くのが良いのだろう。後のことは自然に定まる。私は信仰をしているので、その文脈で言うなら、人は完璧を目指し行うのみで、全てのことは神が既に予め決めているとなる。
輸入に頼る商品がとても高くなってる。コーヒーが25年ぐらい前の円高以前の値段に戻り、高級品になってしまっただけでなく、板チョコが100gで100円ほどだったものが、今や50gで200円ほどだ。
そのせいかどうか知らないが、円高の頃、輸出で儲けていたであろう大企業が、円高では困るみたいな事を言って居た様に思う。その頃と比べて5割ぐらい円安になった今は、どう思ってるだろうか?儲かって仕方ないだろうか、それとも円安になったもののそれほど儲かっていないだろうか?
個人の視野や影響を及ぼせる範囲は狭く小さいが、団体や企業、政治権力等はその視野、影響範囲は広く大きい。本来、大きいものは自らの行動に対してのみに限らず、小さいものを守り助ける義務があると思うのだが、日本の場合はそうではないのかもしれない。小さいものに支えられて大きいものが存在出来ていると思うのだが、そこもあまり考慮されておらず、無条件に小さいものが大きいものを支えなければならない義務を有すと思い込んでいる節すらある。そうだとすると、危うい考え方をしていると言える。