2023年6月に読んだ本たち+ドラマのこと | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

気がついたら、今年もまた夏になってきている。

 

・三森ゆりか『大学生・社会人のための言語技術トレーニング』(大修館書店、2013年。)

 

教免のために読んだ本枠。でも基本的な言語技術の内容と実践が書かれておりよい本だった。

 

 

自分語りが多くなる。この本に書かれているような基本的(ここで言う基本とは「基礎基本」の意味で、決して「初等」や「簡単」を意味しない)な日本語の運用方法ってどこで習得したんだっけ、と思い直したら、中学校での推薦入試の小論文対策と高校での英語学習であることを思い出した。中学校の時にはもう、あらゆる文章を序破急の構成で書くことを父親に叩きこまれていた。また、要約、クリティカル・リーディングとパラグラフ・ライティング、この辺りは高校英語のリーディングとライティングである。僕は東大入試の英語の大問1Aが結構好きで、それは1ページ分くらいの英語の文章を日本語で80字程度に要約せよ、という問題である。多分今も形式は大きく変わっていないから出ているんじゃなかろうか。

 

 

やっぱり中高生のうちにそういうトレーニングをたくさんやっておいた方がいいよな、というのは社会に出た今こそ日々思うところ。国語の授業においても、文章の解釈やコミュニケーションの量に重きを置くのではなく、言語技術を磨くという側面を意識して授業を組み立てたいものである。

 

 

・(再読)多和田葉子『星に仄めかされて』(講談社、2020年。)

 

どうやら消滅してしまったらしい日本を探し旅する「サーガ」三部作の2作目。最終巻の『太陽諸島』を少し読んで「これは2作目をちゃんと思い出さないとダメだ」となり再読。ちなみに前回読んだときの感想記事は以下リンクから(蓄積が出てきてよいですね)。

 

 

 

数年前に読んだときからの重要なアップデートとしては、主人公のHirukoは古事記において棄てられた子供であることを知ったことである。イザナミとイザナギの国造りの挿話の中で、一番最初に生まれた子供は「骨のない水蛭(ひる)にも似た醜い水蛭子(ひるご)だったので、この御子は、葦の葉を編んで作った葦船に入れて、流し棄ててしまった」と描かれている(「三 伊邪那岐命と伊邪那美命」)。

 

一方で、Hirukoと並び、日本出身の人物として重要な役割を果たすSusanooの由来スサノオは、母親である伊邪那岐命を求めるあまり、伊邪那岐命によって追放される男神である。その後アマテラスオオミカミとすったもんだがあってアマテラスが天の岩屋に隠れて真っ暗になったり、クシナダヒメと出会ってヤマタノオロチを退治したり、初めて和歌を詠んだりと、エピソードには事欠かない神である。

 

HirukoとSusanooが対峙する場面を読み解くにあたっては、この古事記での二人の対比が重要なのではないかという発想を得た。共に親から棄てられた経験を持つというところでは共通しているが、片や記述が一瞬で終わるヒルコと、みんながなんとなくどこかで聞いたことのあるエピソードをたくさん持っているスサノオ。本作の中で登場するHirukoとSusanooは、自分固有の記憶なのか、それとも記紀に描かれた神話なのかが混迷しながら、自分の来歴を「物語」として語る。この在り様はかなり本質的だと思っており、現実に生きる私たちも、自分固有の記憶だと思い込んでいるものに多種多様なものが流れこんで「自分」が形成されているんだろうし、それを自分の言葉で語ることが「物語」なのだろうな、という考えを抱くに至った。

 

 

・ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(河合祥一郎訳。角川文庫、2010年。Kindle版)

 

ご存知イギリス文学のファンタジー、というか、日本のオタク的想像力のかなり源流にあるんじゃないかと思われる作品。

日本語での再読は8年ぶりとかそれくらいで、留学中も社会人になってからも英語の原著を舐めるようなペースで読んでいたが、『カードキャプターさくら「クリアカード編」』をちゃんと読んで理解するためには『アリス』をちゃんと読まねばならないと決意した。

 

 

主人公・アリスがウサギの穴に落ちるところから始まる、地下世界で繰り広げられるナンセンスなワンダーランドのファンタジー、というのが一般的な理解だと思うのだが、やっぱり本質的には怖い話だなというのを再確認した。

 

「うわあ!」とアリスは思いました。「こんなに落ちても平気なんだから、これからは階段からころげ落ちたってへいちゃらだろうな! おうちに帰ったら、みんな、わたしのこと、なんて強い子だって感心してくれるんじゃないかしら! 屋根のてっぺんから 落ちたって、わたし、なにも言わないわ!」(そりゃあ、なにも言えなくなるでしょうね。)(第1章)

 

最初の落下の場面から、死の匂いを印象付ける嫌な括弧の補足である。

 

 

怖い話であると同時に、アリスのアイデンティティ・クライシスの物語でもある。

大きくなったり小さくなったりを繰返すことによって、アリスは自分が何者なのかがわからなくなっていく。

 

「ほんとに もう、今日はなにもかもおかしいわ!きのうまではいつものとおりだったのに。一晩でわたし、変わってしまったのかしら? ええっと。今朝起きたときは、いつものわたしだったかな?なんかちょっとちがう感じがしたような気もするんだけど。でも、ちがってたとしたら、『いったい全体、 わたしってだれ?』ってことになるわ。ああ、それって大問題!」(第1章)

 

自分の修論では、別の人の別の作品(William Blake の The Book of Thel)に対して同じような議論をしたが、この「わたしってだれ?」状態は思春期の子どもの身体・精神状態の在り様とも重なるところで、エリク・H・エリクソンの言う「アイデンティティ拡散」の状態だよね、ということである。

 

 

全然関係ないのだが、ブレイク研究で、というよりも英文界隈全域で今でも重要な研究者にノースロップ・フライという人がいる。フライは『セルの書』について “Thel’s world is not the real and eternal city of God: it is a world of dissolving and arbitrary fantasy, a looking-glass world of talking flowers.” と言っており、ブレイクの初期作品である『セル』を重要視していない。フライがここで言っている “a looking-glass world” とは、ルイス・キャロルが1871年に発表した『鏡の国のアリス』(Through the Looking-Glass, and What Alice Found There)のことを念頭に置いていると思われる。重要視していない発言なのだが、でも『セル』と『アリス』のテクストのつながりには気づいているような書きぶりをしているじゃないですか、と修論から4年経って改めて思った。

 

 

以前「クリアカード編」のことを書いた時に、フロイトが『アリス』に着想を得たのか、それとも文学批評界隈がさんざんフロイト理論を『アリス』に適用しまくったのか、どっちなんだろう?ということを書いた。

で、今回改めてちゃんと調べてみるかと思い検索したところ、重要な手がかりを伝えてくれる論文にアクセスした。

 

 

20世紀イギリスの文学批評家、ウィリアム・エンプソンが1935年に出した著書『牧歌の諸変奏』の中に「不思議の国のアリス─牧童としての子供─」というチャプターがあり、そこで『アリス』が精神分析的に批評されているらしい。いやあ、ウィリアム・エンプソンにめちゃくちゃ久しぶりに会ったな……。『曖昧の七つの型』は全然わからなかったけど、『牧歌の諸変奏』の方から始めるべきだったかもしれない。

 

「ここじゃあ、みんな気がくるってるんだ。おれもくるっている。君もくるっている。」

「どうしてわたしがくるっているってわかるんです?」アリスは言いました。

「そのはずだよ」とネコ。

「さもなきゃ、こんなところに来ないだろ?」(第6章)

 

チェシャ猫が教え伝えるように、やはりアリスのワンダーランドは狂気の世界なのだ。まともな精神状態だと訪れることのない、夢のワンダーランド。そして、この夢の世界はアリスの深層意識の世界でもある。

 

 

ここまで、本作はアリスのアイデンティティの物語であることと、フロイト理論の典型中の典型では?みたいな話をしてきたが、本作の本質はやはりナンセンスな言葉遊びにあると思われる。河合先生の翻訳は英語の言葉遊びを可能な限り日本語で再現した激ヤバな翻訳となっており、これもまた河合先生の狂気だよなあ、と改めて感じる。

 

本作の訳者解説で「『アリス』で出てきた歌の元ネタは誰々の何々で~」という話をわりとずっとしているのも英文学徒にとっては地味にありがたいことで、もし卒論で本作を扱うとしたら、とっかかりは河合先生の翻訳で務まりそうだな、と思うところであった。まあ、『アリス』を本気で学術研究しようとすると、作者の伝記的事実の生々しくて嫌なところを避けては通れないと思うので、僕は絶対嫌ですが……。あと、The Annotated Alice: The Definitive Edition というとんでもなく分厚い『アリス』の注釈本の中で、『アリス』が英文学の正典(Canon)になることによって、本来意図されていたところの「子供たちが楽しめる物語」ではなくなり、子どもたちの手から取り上げられ、学者によってありがたがって研究される(そして英文科の試験で出る)作品になったことは果たしてどうなんだろう、みたいなことが書いてあったと記憶しており、いやあそうだよなあ、としきりに納得したところでもある。

 

 

 

・博『明日ちゃんのセーラー服』(11)

博『明日ちゃんのセーラー服』11巻表紙。(C)SHUEISHA Inc.

 

久しぶりの『明日ちゃん』。だが、この巻数の主人公は間違いなく戸鹿野舞衣さんだ。

 

彼女が両親を交通事故で亡くした過去が明かされる。両親と共にくるはずだった場所で、今の自分が生き残ってしまったこと、両親のことを忘れながら生きていくことを謝る。ここの展開はすごく残酷であるがとても誠実な描写で、普段の連載の2-3本分の分量を割いて描きたかった熱量がひしひしと伝わってくる。大変よかったです。

 

 

・桜井のりお『僕の心のヤバイやつ』(1)-(4)

 

桜井のりお『僕の心のヤバイやつ』1巻表紙。(C)AKITA PUBLISHING CO.,LTD.

 

『僕ヤバ』は2023年春アニメで間違いなくお気に入りになるという確信があるのだが、今期は全く深夜アニメを観ていなかったので『僕ヤバ』も未修である。だが原作はKindleのキャンペーンで無料で読めたのでそこそこの巻数読んだ。

 

 

本作は主人公とヒロインの二人だけのクローズドな世界で展開される、近年主流であるラブコメの形式に則った作品の1つだと思うのだが、本作にはどろどろの血液が流れ、同じくどろどろの性欲が渦巻いているのが非常にポイントが高い。やっぱりこの手のラブコメは、どれだけプラトニックを志向していても全く性欲がゼロなのは嘘でしょう、というのが自分の信念なので。

 

 

3巻以降は市川と山田がわりと急激に心的距離を縮めていて、早くももう二人だけの世界が形成されているところにやや勿体なさを感じた。それでも、キャラクターの心的描写と関係性の描写は一貫して丁寧である。僕は4巻のお姉ちゃんの「弟と仲良くしてくれてありがとうね」っていうところがめちゃくちゃ好きです。

 

・山本崇一朗『からかい上手の高木さん』(18)

・稲葉光史『からかい上手の(元)高木さん』(11)

『からかい上手の高木さん』第19巻表紙。(C)山本崇一郎/小学館

 

『からかい上手の(元)高木さん』第18巻表紙。(C)稲葉光史/小学館

 

ちょうど去年のこの時期に『高木さん』の劇場版を観ており、期待以上に思うところがあった素晴らしい鑑賞体験だったなというところを思い出したので、久しぶりに『高木さん』の最新版を買って読んだ。

 

 

 

 

『高木さん』19巻の方は、もうなんというかすごい。なんでこれで付き合っていないんですか??という挿話が目白押しである。なんか最近はからかってすらおらず、ただ二人が素直になっていちゃいちゃしているような感じになっていないか?

 

 

僕は「誕生日」や「タッチ」の挿話で「うぃ~~」と思わずオタクの鳴き声を発してしまった一方で、『高木さん』を象徴する挿話はやはり「髪型」と「名前」なんじゃないかと思っており、また重要な示唆が与えられたように感じる。それは、本質的な「変化の拒絶」である。「髪型を変えようかな」で始まった挿話の着地が「やっぱりいつもと同じ髪型がいいな」であったり、時は流れ、結婚して籍を入れたのだからお互い名字呼びをやめようの挿話のオチでやっぱり高木さんは西片呼びしているところなど、やっぱりこのラブコメを理解する鍵は「変化」への目配せなんだよな、という思いを新たにした。そういえば高木さんが書道で書いていた目標も「現状維持」だった。

 

 

この変化を締め出す基本的な態度は、結婚して家庭を築くようになっても変わらない。二人は「出会った頃のように」中学生時代の延長上の生を歩んでいる。『劇場版 高木さん』のときの感想と同じになるが、今の僕はそのような二人の日常の在り方を「まあいいんじゃないか?」と思っており、もっと言えば「ちょっとうらやましいなあ」と思うところである。

 

<ドラマのこと>

・『隣の男はよく食べる』(監督:井樫彩、2023年。)

ドラマを能動的に観るのは『逃げ恥』以来で、実に7年ぶりである。

 

菊池風磨、倉科カナの二人による、お隣さん同士のラブストーリーである。二人の間には食事が中心にあり、美味しいごはんを作ること、ごはんを美味しそうに食べることの相互作用が描かれていて非常によきでした。やっぱり「ごはんは笑顔」なんだよなあ。