2020年6月、7月に読んだ本たち+α | ますたーの研究室

ますたーの研究室

英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

2か月分溜め込んだ(でしまった)ので、盛りだくさんでお送りしたいと思います。

 

・安宅和人『イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」』(英治出版株式会社、2018年。Kindle版。)

4月からちびちびと読んでいたがようやく読了。いい本だった。ビジネス書というよりも外山滋比古『思考の整理学』や佐々木健一『論文ゼミナール』に似たような、知的生産を生み出す方法論を説くアカデミズム寄りな本という印象を受けた。

<考える>と<悩む>の違いであったり、時間ベースで考えるかアウトプットベースで考えるかが労働者・サラリーマンとワーカー・ビジネスパーソンの違いであったり(さらにはビジネスパーソンとプロフェッショナルの違いでもある)、価値の高い知的生産を生み出す方法論以外にも「なるほど、そうだよな」と思わせる記述が多かった。著者はコンサル会社を経て研究者になった人なので、さすがに文章の内容・構成・文体などが一貫していて無駄がないと感じさせられる。今後とも仕事で何かを作らなければならないたびに、折に触れて参照することになる一冊ではないだろうか。よかったです。

 

・多和田葉子『星に仄めかされて』(講談社、2020年。)

『地球にちりばめられて』に続く「物語(サーガ)」の二作目。言葉を失ってしまったSusanooを、クヌートの知り合いである失語症を研究している医者のところへ連れて行こう、で終わった前作のところから、病院で物語が展開していく。

 

なんとなく読み返しながらこれを書いているが、なんか難しかったというのが率直な感想になる気がする。例えば、病室でHirukoがSusanooに語る場面を色々な人物の語りを通して見ていくところでは、その人がわかる言語に従ってHirukoの発話が処理されるから、なんだか違う場面が描かれているように感じてしまうが、そうではない。同じ時間・場所でのやりとりを、色々な人の認識から様々に描いているということである。こういう技巧的なところが一読ではたぶんまだ押さえきれていないから、なんとなく難しいという印象になっているのかもしれない。

 

ただ、『地球にちりばめられて』ほど精読したいかと言うと、うーん。夢中になって読んだ!というほどのハマり方は本作ではなぜかしなかったんだよなあ。当然ながら一作目の方がどんどん登場人物が増えていき、場面が展開していくため、そのRPG感がすごく面白かったというのがある。それに対して、二作目では登場人物も増えるし、新たな関係性も醸成されるが、基本的にメインキャラクターは既存のキャラクターなのでそこに目新しさはない。そういうところでなんとなく展開を追っていくだけの読書になったという感じだ。

 

ちゃんと内容のことも書く。あれだけ言葉を失ってしまっていたSusanooが急にしゃべりだすと、予想の斜め上を超えて行ってなんかすごいことになっていく。HirukoとSusanooの対話の場面では、SusanooがHirukoの生い立ちからそれまでの来歴を全て引っ張り出そうとするような語りを仕掛ける。Susanooってこんな嫌な奴だったっけ?って正直なってしまったのだが、前作を踏まえて彼のイメージを勝手に作っていたのはこちらの責任なのかもしれないと気がつく。なにせ彼は今まで一言も言葉を発していなかったのだ。「その人が発する言葉がその人を構成する」(洋服のメタファーも登場する)というのが本作のテーマの一つでもあるので、彼がどういう人なのかははっきりと分かっていなかったということになる。

そんなSusanooは、どういう意図があるのかよくわからなかったが、Hirukoの内面全てを語らせることによってさらけ出させようとする。そして、そういえばHirukoの生い立ちの情報ってまだ出ていなかったなということに気がつく。日本出身で、北欧に留学に来ていた際にどうやら日本が消滅したらしく、帰るあてがなくなってそれ以降は、ということは前作にて了解していたのだが、その前のことは全然知らされていなかったというのがわかる。これはうまいと思う。前作の第8章「Susanooは語る」にてSusanooの生い立ちが詳細に描写されていたので、Hirukoの生い立ちも描いておく必然性があったような気がする。

 

本作の結末では「船に乗ってみんなで消えてしまったHirukoの国へ行こう」というところで終わる。なのできっと三作目があるのだろう。もし全三巻構成になっているのであれば、中継ぎの二冊目である本作の面白さとしてはまあこんな感じかもなあという納得感もある。

ちょっとネガティヴな印象のコメントになってしまったけど、とてもいい小説だった。みんなも多和田葉子を読もう。

 

・ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(初版:1936年。『ベンヤミン・コレクション①:近代の意味』浅井健次郎編訳、久保哲司訳。筑摩書房、1995年。)
特段何か理由があったわけではないが、なんかベンヤミンが読みたくなっていたところで近所の古本屋に『ベンヤミン・コレクション』が売っていたので買った。ベンヤミンの批評の中でも一番いま興味があるのが「複製技術時代の芸術作品」なのでまずはこれを読んだ。

 

ベンヤミンの言う「アウラ」とは、本物の芸術作品のみが持つ<いまーここ>的性質──芸術作品の本物のみが持つ固有の単独性・一回性・歴史性などをひっくるめた概念──だと大まかに理解したが、本論でのフォーカスは「アウラ」よりも映画の話なんだなというのは読んで初めてわかる体験だった。「アウラ」のところばかりが引用されている印象があったが、本論は非アウラ的芸術としての映画論だった。ベンヤミンがなぜ映画を「新しい芸術」だと激推ししているのかは正直よくわからなかったが、当時の感覚からして映画を芸術の形式として強く主張するのは画期的なんじゃないかと認識した。今や映画は当然のように芸術作品の一形態として語られるし、文化研究の文脈でも趣味の領域でもハイカルチャーとサブカルチャーのいいとこどりみたいなポジションだと思うから当たり前のように感じてしまうけど、1936年にベンヤミンが言っていることが慧眼なのかもしれない。

 

3回くらい読んだがあまりよくわかっている感じはしていない。全体的な論理構造は掴みきれず、断片的なところでなるほどなあと思ったところがちらほらある、という程度の理解である。例えば「複製技術は──一般論としてこう定式化できよう──複製される対象を伝統の領域から引き離す。複製技術は複製を数多く作り出すことによって、複製の対象となるものをこれまでとは違って一回限り出現させるのではなく、大量に出現させる。そして複製技術は複製に、それぞれの状況のなかにいる受け手のほうへ近づいてゆく可能性を与えることによって、複製される対象をアクチュアルなものにする」(590)という記述を読んだときに、オリジナル v. コピーのモダンの時代からオリジナルなきコピー(シミュラークル)の時代のポストモダンへの展開があったのだなということを思い出したりとか、映画が可能にしたクローズ・アップとスローモーションのおかげで「人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである」(620)とか、これは色々な人の映画論や写真論でも同じようなことが言われてそうだなあ、とか、まあそんなところである。すごく当たり前だけど原著って難しいんだよな……。繰り返し何度も読みます。

 

・白井聡『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社、2020年。)

「社会人」というのは基本的に賃金労働者のことを指すわけで、労働者は思想の右とか左とか関係なくあまねくマルクスを読んだ方がいいのではというのをここ3か月くらい思っていた。その折に書店で本書が平積みになっているのを見かけ、なんだか気になったために買った一冊。

 

マルクス主義と言って思い出すのは、留学先のアイルランドでの「批評理論」(Critical Theory)の授業である。その授業の第2回で採り上げられるテーマが "Marxism" であり、さらに3つあったレポートの課題のうち1つががっつりマルクスの用語説明とマルクス主義に係る論文の抜粋の読み取りだった。

この授業は英文科の2回生の必修授業であり、要は19歳~20歳くらいの英文科の若者たちはみな必修でマルクスを読むことになっているわけである。ちなみに、向こうの文学部英文科の位置付けは日本の法学部や経済学部みたいなもので、学生側は就活のためにとりあえず入っておこう的な学部(英文科卒であれば高度な英語のリテラシー能力を擁していることの証明になる)であり、大学側もビジネスエリート養成の趣が強い。だから、そういう場所でマルクスを読むことがどういう意味を持つのかというのを考えるとちょっと面白くないですか、と。まあ、大学を出た学生の大半も賃金労働者になるわけだけれども、マルクスが想定した「プロレタリアート」っていい大学を出たホワイトカラーのことではないでしょう。

そもそも、英文科の「批評理論」という授業の枠組みでマルクス主義を扱うこと自体があんまり日本ではなさそうだなと感じたし、文学教育の枠組みの中できっちり教えられるのだな、と英文系でのマルクス主義の依然プレステージの高さを実感する出来事となった。英米系の批評家であり、マルクスの良き読み手であるフレドリック・ジェイムソンの「資本主義の終わりを想像するよりも、世界の終わりを想像することの方が容易だ」という言葉は本書にて初めて知った(21)が、これは今後の自分の思考の上で一つのキーフレーズになっていくかもしれない。

 

さて、翻って本書である。○○入門にありがちな「これ本当に原著でそう言っているの?」問題を本書ではわりと強く感じた。価値中立的な○○入門でも書き手の好みや読みの方向性が織り込まれてしまうものだが、筆者は「本書で私が『ここが『資本論』のキモです』という話をして、それをきっかけに読書のみなさんにぜひ『資本論』を読んでいただきたい」(17)と明確に宣言していることもあって、結局は『資本論』入門というよりは筆者のマルクス読解になっている。それはそれで面白い部分や納得させられる主張も色々あったものの、とにかく筆者が新自由主義を嫌悪しており、批判する時に冷静さを欠いていると感じる場面も多くてそれがノイズだった。

それが顕著でイラっと来たのは「東京都民はそのさみしさ[子供が駆け回る風景が東京から消えること]をかみしめるべきなのです。自分たちでは自律的に再生産できない、一見華やかに見えて実は破壊的な街、よそから人を盗んで栄えている街なのだということ。その冷厳なる事実を、子供の歓声が聞こえないという現実によって日々確かめるべきなのです」(228)という意味不明な主張を太字で記述しているところで、世田谷区とか荒川区とか八王子とかどこでもいいけど、地方から出てきた人々が再生産している場所も東京には普通にありますけど?とか「そらあなたは京都に住んでいますしね」という感想しか抱けなかった。新自由主義に喧嘩を売るのはいいけど、その流れ弾で一般の東京都民に喧嘩を売るのはどうなんだ。

 

というわけで、結局は○○入門ではなく原著を読まなければならない。まあ、本書を通過したおかげで柄谷行人とかボードリヤールをよりわかるようになるんだろうなという利便さもあったわけだけれども。所詮はビジネス書、というとなんか権威主義的で嫌だが、紀伊国屋の人文・マルクスのところには一冊も置いてなくてビジネス書のところに平積みされていたことは本書の本質が現れているような感じがした。もっとごりっとしたやつを自分は読みたい。

 

それにしても、自分はITやAIの発達がもたらすベーシックインカム思想をわりと信じたい気持ちがあるのだけれども、「技術革新は人々を労働から解放しないし、幸せにもしない」と筆者およびマルクスに論破されてしまうのは悲しい。労働をゼロにしようとは全く思っていないけれども、ITやAIの発達は富の再分配をもたらし、少しでも格差を是正する方向性へと働いてはくれないのだろうか。そういうことを考えるためにはやはり落合陽一などを読まなければならないか。

 

・ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(河合祥一郎訳、角川書店、2005年。)

色々と重なって久しぶりにシェイクスピアを読もうとなったので再読した一冊。専門外とはいえ一介の英文学徒を名乗る以上、さすがに『ロミオとジュリエット』や『ハムレット』『リア王』くらいは読んでいた。

 

古今東西の悲劇のラブストーリーのひな型であるのはわかっていたものの、改めて読むと、なんだかすごく俗っぽいんだなという印象を受けた。ロミオとマキューシオの言い合いの場面とか、下ネタじゃねえかよ!とツッコミを入れたくなるような俗っぽい言葉選びをしている。

今回で2回目か3回目かくらいの『ロミジュリ』だが、読みのポイントがどこなのかは、まあ未だによくわかっていない。人がぽんぽん死ぬ結構スプラッタ―な物語だし、ジュリエットの恋心は狂気という感じがするしで、なんでこれがラブストーリーの源流になっているんだろうと素朴に疑問を感じないこともない。「おおロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」に代表されるような「名前の問題」というところで『FFIX』論を書くときに外部参照として使おうと思うのだが、もうちょいシェイクスピアについて色々とわかっておきたいなあ感がある。

 

先日、役者のお友達が出演するミュージカル『夏の夜の夢』を観劇しに行った。舞台と客席の間にフィルムシートがあり、マスクとフェイスシールドをしての観劇(ものすごく暑くて息苦しい)を通して、このコロナ禍の状況で演劇という営みを続けるのはかなり大変なんだなとよくわかったが、それでもやはり演劇は面白いというのを再確認できた。目の前で、ライブで、人間が歌い踊り演じるのを観て得られる快楽は、それ特有のものとして確かに存在する。そして、『夏の夜の夢』が恋愛コメディとしてめちゃくちゃ完成されている脚本であることがよくわかった。2時間休憩なしで観ていても全然ダレないし疲れも感じないっていうのはすごい。シェイクスピアって戯曲読んでも面白いけど、やはり舞台を観る方がより「わかる」感じがする。大変よかったです。

 

・大和和紀『はいからさんが通る』(講談社、初版:1975年。新装版:2016年。)(1)-(4)

6月は早見沙織さんの月だったと言ってもいい。5月29日の「早見沙織生誕祭2020」における「2019 Live Tour Junction」の生放送を、仲良くなった会社の同期とオンラインで一緒に観た。一緒に研修を受ける中で同期から友達になった彼は、ラノベ原作のラブコメを愛するオタクである。そんな彼に「今日Youtubeで早見さんのライブ映像の生放送があるで」とアーティストとしての早見さんを布教した。視聴後にオンライン会議でつないだら、彼は予想以上にいい反応を示してくれた。「アニソンをつなげていく感じのライブを想像していたら、ガチアーティストのガチライブで圧倒された」そうなんです。早見さんはシンガーソングライターなのです。というわけで、素晴らしいライブだった。早見さんファンとしては、早見沙織の音楽や表現が素晴らしかったというのも当然あるけれども、そこで奏でられる音楽がただただ純粋に音楽として上質だった。いいライブだった。早見さんのライブに絶対行こう。

 

……作品の話を全然していねえ。2017年および2018年に公開されたアニメ映画『はいからさんが通る』(前・後編)にて、早見さんは本作の主人公・花村紅緒を演じている。2ndアルバム『JUNCTION』にも収録されている本作の主題歌「夢の果てまで」と「新しい朝(あした)」はどちらも作詞・作曲は竹内まりやで、両者ともに聴けば一発でわかるまりやさん節全開の作品となっている。そんなわけで、まりやさんの素晴らしい曲が彩っているし、声優・早見沙織の仕事も堪能したかったから、アニメ映画の方もきちんと観ようではないかと思い立って観たというのが本作との出会いである。

 

映画めちゃくちゃ良かった。前・後編合わせて4時間ほどというパッケージの中にぎっちりと押し込めた感じもあったものの、ドラマにのめり込んでしまって一晩でぱーっと観てしまった。やっぱり少女漫画が好きなんだよなあ。ラブコメはそんなに好きではないと自認していたが、少女漫画の王道ラブコメはすごく好きかもしれない。紅緒さんはめっちゃチョロインだと思ったけど、まあ少尉は40年以上も愛されてきたイケメンだから仕方ない。宮野真守が本気でイケメンを演じたらマジで完璧なイケメンになるのはずるい。

 

それと同時に大正時代の絵がたいへん良かった。特に満州への旅のくだりがよかった。「そうか、電車を乗り継げば満州に行けたのだな」という新しい気づきと、この中国進出を経て日本は十五年戦争へと行ってしまうのだなという定められた未来に向けての不吉な予感。大正時代っていい時代だったのだろうなあというのは思いつつも、シベリア出兵、米騒動、そして関東大震災とわりと短めなスパンで災厄も続いていくし、それが作品世界に大きな影響を及ぼしている。そういう社会が激動を迎えている時代にあって、本作は冒頭からきちんと平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」を引用して、この時代がフェミニズムの萌芽の時代であったこともきちんと押さえている。ラブコメ以外のところでもこういう「大正浪漫モノ」としての強度の高さも備えていて、さすがに長年愛読されてきた少女漫画だという感じである。

 

原作はまだ半分しか読めていないため、原作の詳細な感想はまた来月に回そうかなという感じであるが、アニメ版は原作をすごく上手に再構成していたのだなというのがまずよかった。物語内容的にはいまのアニメ作画で観るよりも、まさに少女漫画といった絵で見た方が雰囲気がいいかなと思ったのだが、気合いをいれてアニメ映画にしたというのがよくわかる。原作・アニメ共々、作品世界にまた浸っていきたいと思います。

 

・浜弓場双『ハナヤマタ』(1)-(10)

7月の中旬ごろにKindleストアにてきらら作品セールがやっていたため、全10巻を一括で購入した。原作を読む前にアニメを観ておいた方がいいだろうと思い2014年のアニメ版も観た。

主題歌「花ハ踊レヤいろはにほ」は作詞・畑亜紀、作曲・田中秀和の名曲として自分の中ではお馴染みだったが、ようやくアニメを観られたという感じ。実は英語版のDVDボックスをベルファストで購入していたりもする。イギリスは大体なんでも売っている。

 

アニメ本編の総評としては、決して悪くはなかったけれども突出して良かったわけでもないという微妙な印象になってしまった。その理由としては展開が重かったからなような気がする。なにせ5人全員が揃ってよさこいをやりましょうとなるのが第10話なのだ。それまでは各メンバーのパーソナリティを掘り下げながらよさこい部の一員になっていく様子が丁寧に描かれていく。丁寧なのはいいんだけれども、早く5人揃って踊り狂う画面が見たかったために肩透かしを食らってしまった感がある。

 

さらに重要なこととしては、主人公・なるは「きらきらする経験がほしい」という理由でよさこいを始めたのであり、よさこいがどうしてもやりたくてよさこいをやったわけではない、というのが少し引っ掛かったのだと思う(よさこいは目的のみではなく、手段としてもある)。よさこいに固執しているのは一人ハナだけで、他は「みんなと一緒に何かをやるのが楽しい」というモチベーションが第一でよさこいをやっていて、要するによさこい「部」の話をしていた。いや、まあいいんですよ。何か一つのことに夢中になるのって素晴らしいことだし。でもよさこいそれ自体が楽しくてしょうがないという視点がもう少し強くあれば、身体を駆動する喜び、一人一人の身体がシンクロしていき大きなうねりを作り上げていく快楽、みたいな「よさこいそれ自体の魅力」がより伝わってきて響いてくれるんじゃないかという、まあめんどくさいオタクのボヤキです。いやあ、僕はオタクなんですけど、それとは別に身体論を書くし、身体を駆動する動き全般(走る、演奏する、踊る、演じる、など)が好きなんですよね……。あとは「花ハ踊レヤいろはにほ」に頼り過ぎじゃないかというのも。いや、めちゃくちゃ名曲だしすごく作品世界を彩っているからいいのですが。

とはいえ、クライマックス(10話~12話)の展開は原作よりもドラマチックに再構成されていてよかった。合宿で仲良くなるという手際の良さや、空港に見送りに行くという展開、そしてサビからハナがダイナミック合流するよさこいなど、「花ハ踊レヤいろはにほ」の強さとアニメ的表現の強さが存分に生かされていてよい。加えて、うえしゃま演じるなるの「楽しいね……!この時間がずっと続けばいいのに」という台詞の強さもとてもよくて、これを聞くためにずっと観てきたと思わせる重さと説得力が声に乗っかっている。さすがだ。

 

原作の話をする。5巻までがアニメ化された範囲で、6巻以降が未アニメ化部分なのだが、6巻以降が面白い。これは『まちカドまぞく』でもそういう現象が起きていた。キャラクターが増え、新たな展開を迎え、また一つの山が形成されていく。6~8巻にかけてのわ子と蘭のくだりは「よさこい青春漫画」として一番よかったところだと思う。また、個人的にはマチさんの印象がアニメと漫画では結構違ってて、「マチさんこんなに柔らかい表情してめっちゃ面白いところもあるじゃん!!」と好印象だった。だからアニメ版ではもうちょっと早くよさこい部の仲間になってほしかった感がある。あとは、アニメよりも漫画の方がキャラクターが生き生きと動いていた印象がなぜかある。これは自分のイマジネーションによってキャラクターを勝手に動かしているということだと思うのだが、動きを描く媒体としての漫画の強さを改めて感じたような気がする。

 

というわけで、きらら作品をまた1つ読破した。『おちこぼれフルーツタルト』もチェックしておこうかな。アニメ化するし。

 

+α

・最近はジブリ映画の再上映をせっせと観に行っています。7月は『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』を鑑賞しました。いやあ、映画館で観ないといけない作品だったのですねという衝撃を味わえて、たいへんよいです。8月に『ゲド戦記』と『千と千尋の神隠し』も観に行って、4作品まとめた感想記事をアップしたいと思います(これは有言実行したい)。やはりジブリなんだよなあ。