2020年5月に読んだ本たち+α | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

まだまだ俺は在宅ってるぜ。

 

・斎藤昌義『図解コレ1枚でわかる最新ITトレンド』(新装改訂3版。技術評論社、2020年。)

仕事のために読んだ本その1。押さえているトレンドは「デジタル・トランスフォーメーション(DX)」「モノのインターネット(IoT)」「AI」「ITインフラストラクチャ」「クラウド・コンピューティング」「アジャイル開発」などなど。各分野への入口でしかないという注意書きがあったものの結構難しかったです。ですが、網羅的になんとなくわかった気分になれるいい本だと思います。研修中にプラクティカルに役立った場面もあった。

にしても最近思うんですけど、あらゆるモノやデバイスが人間の行動特性や様式などを瞬時にデジタライズしてサイバー空間に書き出す世界ってディストピアじゃないですか。

 

・野口竜司『文系AI人材になる 統計・プログラム知識は不要』(東洋経済新報社、2020年。)

仕事のために読んだ本その2。文系でも知っておくとよいAIの基礎知識を押さえており、AIが何なのかをわかりやすく掴める一冊。最後に載っている「AI活用事例」が豊富で面白い。「あーこのサービスもAIを使ってるのね」という発見は社会科見学的な楽しさがある。

 

・結城浩『数学ガール 乱択アルゴリズム』(ソフトバンククリエィティブ、2011年。)

仕事のために読んだ本その3。……という建前ではあるものの結果的に趣味的に読んだ一冊。

実は高校生のときから『数学ガール』シリーズ好きなんです。この『乱択アルゴリズム』も確か高校生のときに1回読んだ気がするが、さすがにわけがわからなくてほとんど何も理解できていなかった。『数学ガール』第1巻とか『フェルマーの最終定理』は高校生でも結構行けると思うのですけど、3巻以降はまあ結構難しい。ある程度の大学以降の数学に頭が慣れている状態じゃないと入ってこない気がする。

今回何でこれを再読したのかというと、研修でプログラミングをやることになるのでアルゴリズムのトレーニングをした方がいいかなという感覚があったから。研修のためになったかというとあんまりならなかった(プログラミングはアルゴリズムの数学的理解よりも、書かれているコードが何をしているかを読める方が大事?)のだが、まあそれはそれとして面白かったから全く問題ない。

 

・真木悠介『定本 真木悠介著作集 II. 時間の比較社会学』(初版1981年。岩波書店、2012年。)

最近書いている日常系アニメについての批評記事をご覧いただければわかるとおり、なんとなくずっと「時間とは何か」についてぼんやりと考え続けている。それは哲学的命題としての「時間論」に関心があるというよりも、「時間性」を主題とした種々の作品群をよりよく解釈したいという欲求に基づくプラクティカルな要請であると言った方がいい。自分は哲学者ではなく、文学者であり、(数あるオタク類型の中でも非常にめんどくさいと自認している)サブカル批評オタクである。

 

とはいえ、何かしらきちんと「時間」について体系的にまとめられた書物を押さえておかないと解釈や理解がいつまでも深まっていかない。そのジャンルにおけるラスボスはやはりハイデガーの『存在と時間』になるのだろうが、いま丸腰で挑んでも返り討ちにあうだけなのでその準備段階の一つとして選んだ一冊。大変よかった。しかし難しかったし、とにかく内容が豊富だった。まったく咀嚼しきれていない。「再読でしか読めることにならない」の典型的一冊。

 

パスカルが記した「この世の生の時間は一瞬にすぎないということ、死の状態は、それがいかなる性質のものであるにせよ、永遠であるということ、これは疑う余地がない……」という恐怖感は、ひとりパスカルのみならず、われわれが生と時間の関係に際して思う2つの恐れでもある。しかしこの自明とも思われる感覚はあらゆる人類の社会および通史の中で普遍的なものかというと、そうではなく、近代社会特有のものではないか。これが本書の大きなテーゼである。これを巡って時間・空間を自由自在に横断して「時間とは何か」という問題を考え抜いてゆく。まさしく比較社会学の知的野蛮な試みである。

 

なんとなくわかったことを簡単に、雑に書く。まず、時間は貨幣と同様に共通尺度としてあるということ。例えば農耕社会と遊牧社会では当然ながら価値基準というのは大きく異なっているために、物々交換ではやがて立ち行かなくなっていく。そうなるとモノの価値を定量化する何らかの基準が必要となっていくのだが、そこで貨幣が登場する。同様にして、農耕のワンサイクルを時間基準にしている社会の人と、牛時計(牛を連れて行く、草を食べさせる、乳しぼりをする、等々)を基準にしている社会の人が待ち合わせをしましょうとなったら、二つの社会間を結びつけるような共通的かつ妥協的な共同基準が必要となる。そこで「基本単位」としての時間が登場する。

 

そんな捉え方は元始共同体のフェイズからあったし、その後に国家が権力の名のもとに人びとを管理していくにあたって、暦を作ったり編年史を編んだりといった手段で時間を制御していったのだという話も、第2章「古代日本の時間感覚」で中心に描かれる。しかし、時間の在り方が今のようになった決定的な契機とは、貨幣が「交換基準」ではなく、それ自体が目的化していく近代工業社会の成立、すなわち「モノを得るために貨幣を得る」のではなく、「貨幣を得るために貨幣を得る」という資本主義システムの成立であろう。貨幣がそのように変容すると、それと同型である時間の在り方も変わっていく。というよりも、工場労働者は自分の時間を売ってお金にしているのだから、時間も貨幣のようになっていくのは必然的であるといえる。「時は金なり」「時間を節約する」「時間短縮」等々、時間それ自体も目的化していくのである。

貨幣がそうであることと同じに、計量化された時間もまた、<媒介された共同性>としての近代市民社会の、再・共同化の媒体である。貨幣がそうであることと同じに、近代市民社会における個人にたいする「時間の圧力」、「時間の支配力」とはじつは、彼の目的性に無関心な他者たちすべてのブラウン運動の合成されたベクトルの強圧力に他ならない。近代市民社会の内部で「わずらわしい時間の支配」から解放されたいと考えることは、近代市民社会の内部で「けがらわしい貨幣の支配」から解放されようと考えることと同じに、幻想的なユートピズムに他ならない。けだし「時間」は貨幣と同じに、近代市民社会の存立それ自体の影なのである。

 より精確にいうならば、「時間の圧力」としてわれわれが感じるものは、われわれが内的な共同性を共有していないような他者たちとのあいだの協働連関──したがって、客観的に存立する以外には存立の仕様がないような協働連関──に、現実の生活過程を依存しているという、市民社会的な関係性のうちに内在する矛盾の圧力に他ならない。

(第5章「近代社会の時間意識 II」280-81)

この近代社会の枠組みの外に生きている人にとっては、当然ながら違う時間が流れている。たしかアフリカの例だったか「1年か2年よりも遠い未来を指す語彙がないためにそういう概念もない」という話は非常に興味深かった。もしいま私たちが近代的な時間感覚をいったん忘却して、今一度自然のサイクルをふんわりと腑分けしようというフェイズに戻るとすれば、例えばもうクソ暑い5月からを夏としてみたり、最近「残暑」ってあります?感のある涼しい8月後半からを秋としてみたりと、そっちの方が今の日本に住んでいる実感に合っているんじゃねという感じがしてくる。こういうことをしていると24時間・365日という微分・積分的な時間感覚もゆるやかに解体していくような気がして、なんだか夢と浪漫がありませんか。

 

・多和田葉子『地球にちりばめられて』(講談社、2018年。)

5月末に本書の続編である『星に仄めかされて』が発売され、準備体操のために久しぶりに再読した一冊。留学に行く前に読み研究室の先輩と二人で読書会を行い、1章ごとに詳細なスライドを作ったりしてめっちゃ精読した。そのスライドも見返したのだが、まあこの小説を使って全10回+α構成の分析・批評ゼミができそうだなと自負している。読書会したい方はぜひ連絡ください。二冊目の方も現在鋭意準備中です。

 

自分にとっては本作が初めての多和田葉子だったが、今回の再読ですごくいい小説だなと改めて思った。その一方で、「献灯使」や『エクソフォニー』を読んだおかげでなんとなくわかったこと・気づいたこともあってよかった。自分は作者を作品から排除するテクスト論の立場をとっているものの、小説やエッセイは一人の作家という体系でつながっているのもやはり真である。

 

本作の主人公はHirukoという女性。主な舞台はスカンディナビア半島。彼女は半島にある国の人には全般的に通じるオリジナル言語「パンスカ」(パンは汎イスラーム主義の汎)を操る。彼女の母国の島国はどうやら消滅してしまったらしい。自分と同じ母語を話す人間を探して旅をしている。

Hirukoはどうやら日本人であり、日本はどうにも滅んでしまったらしいのだが、その経緯や具体的事実は明示されない。しかし、福井・グリュックシュタット・ウランちゃん等々の断片によって「原発」というキーワードが容易に想起される。「献灯使」は明確にポスト・フクシマの物語であったが、本作もそうなのであろう。ただ、非常に悲観的でディストピアであるところの前者に比べると、本作は喜劇的ともいえるし、RPG感が結構好き。何よりも本作の世界は現在の我々が生きるグローバリズムの世界の様相にすごく近い。近いはずだったんだけれども、2020年で世界の形は決定的に変わってしまったのですね。

 

今回の再読で気づいた大事なこととして、Hirukoの語りは作家自身の語りに漸近しているのではないかということがある。パンスカを話すときと、英語を話す時と、<母語>を話すときで語りはかなり違う。本作では多様な登場人物が多様な言語を話すのだが(英語、ドイツ語、デンマーク語、パンスカ、日本語)、本作の多言語状況は全て日本語で記述されており、日本語の文体の差のみでそれを表現するところに多和田の凄みがある。この指摘はすごく陳腐と言うか、当たり前と言われてしまうだろうけれども、このことは彼女自身がドイツ語で生活をして物を書き、英語でコミュニケーションができる、日本語を母語とする多言語な人物であることを反映しているのだろう。そのことを抜きにしても、言葉の問題と実存の問題を常に思考し、色々な言葉・人物・世界との出会いを積極的だけど内省的に受け止めているHirukoの思考様式が、『エクソフォニー』でなされている作家のパフォーマンスとほぼ一緒じゃない?と素朴に思っただけという、まあそんな感じです。

 

・原悠衣『きんいろモザイク』(11)

『きんいろモザイク』完結編。たった3か月くらいしかお付き合いがなかったのに結構ぐっとくるものがあったので、10年しっかり追ってきたファンは本当に感極まるものがあっただろうと思う。

待ちに待った後半のイギリス旅行編。いやあよかった。綺麗に描き出されるロンドンとコッツウォルズの風景にたいへん満足した。みんなで行く旅行って楽しいよね(これ前も書いた気がする)。今すぐにでもイギリスに行きてえ。でも最近はアイルランドに行きてえ欲が来ている。

 

今回の巻で最も印象に残ったのは、本作の主人公たる忍の肝が据わっている感じというか、結構自分の軸みたいなのがはっきりしていてそれを決めたら曲げることなくまっすぐ進む強さ、みたいなもの。高校卒業後に(アリスと一緒に)イギリスの大学に行くという決心は彼女の人生の中で大きな決断であり、それと共に悩みとか迷いもつきまとうものであるのが一般的だと思うのだが、あんまりそんな感じがしないゴーイングマイウェイっぷりが結構共感が持てる。国境の壁も言葉の壁も軽々と飛び越えてみせるアリスもカレンも言ってみればそんな感じなのだが、なんだかんだ言って忍が一番「強い」気がする。日本に帰る機内にて眠っているアリスとカレンの横で一人静かに英語の本を読んでいるところ、ほんとすこ。よくわからんけど英語もちょいちょい話せるようになっているっぽいし。まあ異文化コミュニケーションは言語力それ自体よりも経験値とか胆力とか図々しさの方が大事ってそれ。

 

というわけで、「本作の主人公はやっぱり忍なんだな」というのをしっかり再認識できた素晴らしい完結編だったと思う。原悠衣先生、10年間お疲れさまでした。間髪入れずにやってくる特別編も楽しみにしています。

 

+α

・相変わらずずっと在宅で研修を受けています。下手するとろくに出社することなく今年1年は終わってしまうかもしれません。

順調に社会人生活を送れていると思いますが、社会人になって以来アカデミック周辺の能力やら何やらが著しく落ちていることを実感しています。このブログは頑張って繋ぎとめるための場として機能しています。平日は仕事をして、休日はインプット・アウトプットをしている生活を送っているだけなので、このパートはマジで書くことがないですね。

 

・今回の読書記録からブックスタンドを導入しました。引用メモを作るのに非常に快適です。在宅仕事では机がないと仕事にならないことも含め、いま自分の部屋はわりと書斎的な雰囲気を醸しておりたいへん満たされています。院生のときからこれくらいの知的生産活動のための場を整えておけばよかったな……。まあでも毎日研究室に行ってたし……。

 

・アニメ周辺では、最近は過去のもので興味があるものを積極的に見るような視聴の仕方をしています。そんな感じの記事もアップしていく予定です。アニメ映画を見ていると思うんですけど、やっぱり映画館の大きいスクリーンと音響装備で没入する経験が恋しいですね。